竜王のウェットナース
狐島本土
第1話 パスとキャッチ
「胸の大きい女はパスで」
「……はい?」
わたしは思わず聞き返した。
「うちのばあちゃんさ、すっげぇ垂れてんの。なんての? とろけたチーズみたいな? 若い頃は大きかったのが自慢みたいで、孫相手でもよくその話をするんだけど、ビジュアル的にトラウマなんだよ。だから理想は垂れない小振り」
顔も思い出せない彼の口調は冗談めいてた。
「そう……なんだ」
一緒に笑ったと思う。
でも、わたしにとってそれは思ったよりショックの大きい告白の返事なのは間違いなかった。「わたしと付き合わない?」なんて冗談めかして軽く言ったから、返事も軽くなったのは仕方ないけど、自分を全否定された気分。自信の根っこを引っこ抜かれて、足下がぐらぐら。
だから、転げ落ちた。
「あ」
放課後の学校、階段の踊り場。
わたしは足を滑らせて落っこちた。
なんでそんな場所で告白したのかと言われれば、彼は呼び出すには近すぎる相手だったからだ。小中九年間ずっと一緒のクラスで、友達としての期間が長くて、中学卒業を目前に恋愛感情を意識してから一ヶ月ぐらいしか経ってなかったけど、性別を越えて仲が良かったから普通に上手くいくって周囲の太鼓判もあって、余裕を演出したと思う。
学年一の巨乳で男子の憧れの的。
わたしはそれを自覚してる女だった。
おっぱいなんて過剰にあっても不便が多いけど、あるものはあるし、アピールポイントになるんだから遠慮する必要もない。大して美人でもないし、大して可愛くもないけど、胸は大きいんだから。スタイルだって努力して、女としての武器を生かせるなら生かすべき。
そう思ってたのに。
胸の大きい女はパス。
全否定だ。
階段を転げ落ちて、告白成功を祝福しようと待ちかまえていた友人たちの笑顔が衝撃に変わっていく様子をスローモーションで目撃しながら、わたしは首から、ひっくり返るように落っこちた。おしりが頭の上に来て、スカートがめくれて、気合いを入れたレースのパンツは丸出し。恥ずかしくて情けない格好だった。
わたしの死に様。
走馬燈は見なかった。
「ああ……あわ、だあ」
死んだと思ってる。
「あ? あう、あ、あー、あーっ!」
次の瞬間なのか、かなりの時間を経て意識が繋がった時なのか、ともかく、わたしは赤ん坊になっていた。ごわごわした布に囲まれて、曇った空に幼くて丸い手を伸ばして、声を出しても泣き声にしかならない。
「あーっ! ああ!? おああっ!」
説明はなにもなかった。
神も仏もない。
「ああ、だあ、うう、ああっ! あーっ!」
ただ、わたしはわたしとしての意識と記憶を保ったまま、まったく別の身体の中に放り込まれてることを感じはじめていた。身体が命を振り絞って泣き声を上げている。
おなかが空いた。
おなかが空いた。
このままじゃ、また死んじゃう。
必死だった。
状況はまるでわからない。泣くのと、短い手を伸ばすのとぐらいで、身動きがとれない。曇り空は刻々と暗くなり、おそらく夜が訪れても、わたしは狂ったように泣くことしかできない。
死ぬ!
死ぬってば!
この赤ん坊の身体を保護してくれる人!
「あう」
捨て子だ。
最初の夜が明けかけたとき、わたしは理解した。人なんかだれもいない場所に捨てられている。これだけ泣いてもだれも来ない。おしっこも二回ぐらいして、おしめの中が気持ち悪い。
換えて。
早く換えて。
せめて綺麗に死なせて。
「だ?」
足が冷たくなってきた。
「あう」
いや、わたしをくるんでいる布から足が飛び出している。わたしは気づいた。いつの間にか寝返りが打てる。起きられる。はいはいできる。
「みじゅ」
水。
言葉が喋れる。
「あう」
成長してる?
「あー、う。みじゅ。みじゅ」
わたしはたどたどしい自分の口を確かめるように独り言を発しながら、這った。記憶と意識は幸い赤ん坊ではない。喉の渇きを癒して、人の行る場所に移動して助けを求めるのだ。
生きるために。
「もい」
森。
はいはいで周囲を見回すと、森に囲まれた草むらに捨てられているようだった。なら水はある。あるはず。あっていいはず。草むらにはところどころに小さな花も咲いている。曇り空は少し隙間ができて青い空も見えてる。空気は少し肌寒いけど凍えるほどじゃない。
すぐ死ぬような環境じゃない。
「みじゅ」
さわさわとした風に耳を澄ませ。
木々のざわめきの向こうに、せせらぎの音が聞こえたような気がして、わたしははいはいで進んだ。小石や小枝が赤ん坊の身体には絶望的な障害になるように思えたけど、意識さえ成長してれば泣きわめいて動けなくなる訳じゃない。
休み休み、一日這った。
「……みじゅ!」
そして川を見つける。
ごつごつした河原の石も構わず進んで、夕焼けの溶け込んだオレンジ色の水に顔を突っ込んで飲む。冷たくて、おいしい。ビチャビチャになりながら飲んで、擦り傷に染みて、でも生きてることを実感する。
「ふぁ」
そして疲れ果てて寝た。
「んん」
朝の日差しの暖かさに目覚めたとき、わたしは立ち上がれるようになっていた。あまりにも自然で、昨日まで赤ん坊だったとは思えないぐらいあっさりと河原の石を踏みしめる。
「おお」
すごい勢いで成長してる。
「おお……」
生きられそうなことに安堵する一方で、この勢いで成長したらすぐ死ぬんじゃという不安を覚えながら、わたしは窮屈になったおしめを外して川で洗う。服はどうやら大人もの、木綿のようなTシャツを着せられてたみたいで、昨日のはいはいで破れたりもしていたけど、半袖がワンピースみたいになっていたのは幸いだった。
裸で歩き回らなくても済む。
「おなかへった」
水を飲んで、つぶやく。
この年頃で、なにを食べればいいのか。
喋れるようになった口の中に手を入れると、歯がいくらか生えている。わたしは落ち着いて自分の身体を確かめる。女子なのは変わらない。髪の毛も伸びたみたいだけど、茶色いのは違う。鏡がないから顔立ちはわからないけど肌の色は黄色人種っぽい。鼻も目も口もあるべき場所にあって。
「みみ、ながっ?」
耳が大きかった。
「!」
引っ張ってみると視界に入るぐらい横に広がって垂れた耳がついてる。声も出ないくらいビックリする。別の生き物になってる。耳の大きい人種。そんな話、聞いたことない。ふと背後に意識を感じて見るとシャツの後ろがめくれてる。おしり丸出しになってる。
「?」
尻尾だった。
シャツの内側から出てきた尻尾、白い毛の生えた身長と同じぐらいの長さ、触ってみるとおしりの付け根の尾てい骨から間違いなく出てる。わたしの尻尾らしい。
それがビックリして、反応した?
「なにじん?」
人種とか国籍とかじゃない?
「ここ、どこ?」
根本的な問題だった。
「……」
この状況ってなんなんだろう。
死んだ。赤ん坊になった。
生まれ変わった、と何となく思ってる。
輪廻転生?
よくわからないけど、そういう雰囲気。
でも、三日で立ち上がって喋れる子供なんて地球の人間じゃないのは間違いない。手足はだいたい人間だけど、かなり遠くの水音を聞き分けた耳とか、尻尾とか、元のわたしからはかけ離れてる。違う生き物になってる。
地球じゃないどこかの。
「どこ?」
別の世界?
「……」
心細さに涙が出てきた。
なんでこんなことになってるんだろう。
失恋して死んだから?
「ばか」
わたしのせいじゃない。
胸の大きい女はパスとか言った彼のせいだ。
パス?
カッコつけんな。知ってるぞ。巨乳グラビアアイドルの写真集、電子書籍で買ってたことぐらい。青空文庫で著作権切れの古典を読みまくりたいからって親にリーダーを買ってもらったけど、本命は恥ずかしい本を隠すためだって。男子の間じゃネタにしてることぐらい。
だから、自信あったのに!
「ああう、あああっーあ」
わたしは声を上げて泣いた。
エロかったのに!
わたしの身体、エロかったのに!
さわりもしないで!
将来、垂れたっていいじゃない!
あと二十年はエロかった!
あと三十年はセックスできた!
あと四十年はおっぱいも自慢になった!
それをパス!
死んじゃえ!
わたしが死んだんだからお前も死んじゃえ!
「ああああああああああああッ!!!!!」
泣き叫んだ。
「大丈夫?」
背後からの声が聞こえたのはそのときだ。
わたしの大きくなった耳は瞬時にそちらに動いて、そしてわたし自身も振り返る。そこにいたのは赤ん坊を抱いた女性だった。どこから現れたのか、背が高い。そして耳が長い。形は違うけど尻尾もある。この世界のスタンダードなのだろうか。
「どこの子? この辺りに村はないはずだけど」
「あうあ。あ、あう」
なんで日本語なんだろう?
そんな疑問が頭を過ぎったけど、わたしの方も言葉が上手く出てこなくてそれどころじゃなかった。近くに村がない。周りに人がいない。この人に助けてもらうしかない。なにか言わなきゃ。
「あう」
「だ!」
女性が抱いていた赤ん坊が声を上げた。
「殿下、お静かに」
「だうあ! あーう!」
「殿下」
「……」
でんか?
目の前の女性はすぐにわたしから目を外して、赤ん坊をあやす方に集中する。見知らぬ子供より優先するのは当然だけど、けど赤ん坊に静かにしろと言っても意味がないような。
「あうあ! あう!」
「ですから、戻りましたらすぐに」
「かいわできるんですか?」
わたしは女性に尋ねていた。
「おなかを空かせているんです。もう一晩、なにも口にしていないから。殿下、城に戻れば乳母がおりますから」
答えにはなっていない。
でも城?
でんか、って殿下?
偉い子?
「うーうあ! うあう!」
「ええ? わかりましたが」
意思疎通はできてるっぽいのは確かだ。
「殿下があなたを見たいと」
「はい?」
女性は抱き抱えた赤ん坊をわたしの目線まで下げてその顔を見せてくる。可愛い赤ん坊だった。金髪にくりっくりの青い目、耳は長くなくて、普通の人間に見える。そして高貴な雰囲気もある。特別な赤ん坊なのはわかるような気がする。
「だ!」
赤ん坊はわたしをじっと見つめて言った。
「殿下、この子はどう見ても」
「だあ!」
よくわからないが女性に大して命令しているようだ。偉い子は赤ん坊にして人を使うのだろうか。すごい。これは間違いなく別世界だ。
わたしは別世界に生まれ変わった。
「そう言われましても、無理なものは無理で」
「だあう!」
なにを言ってるかわからないが、なにか強く言ってるのはわかる。もしかするとこの世界では赤ん坊の頃から意識がはっきりしてるのは普通なのかもしれない。
わたしのように。
「この子はどう見ても、ニ、三歳の」
「あう!」
ぐねん、と殿下は女性の手から身をよじって飛び出そうとした。パワフルだ、と思ったのも束の間、赤ん坊とは思えない全身を使った跳躍でわたしに飛んでくる。
思わず受け止めようとして。
「あわっ」
わたし自身もやっと立てる程度しか成長していないから当然のことながら受け止められずに倒れてしまう。河原の石に背中を打って激痛、もぞもぞとシャツの中に入ってくる赤ん坊の動きへの反応が遅れる。
なんだろ、胸が熱い。
「ちゅぱ」
「!?」
「え」
女性がシャツをめくって赤ん坊を捕まえようとして硬直するのと、わたしが目の前の光景に硬直するのは同時だった。信じられない状況なのは別世界でも同じことのようらしい。
「母乳が」
「ふえ?」
まだ子供、幼児故の幼児体型であるはずのわたしの胸のふくらみから、確かに白い液体が出ていた。母乳。そう表現するしかない。赤ん坊が吸っている口元からも白い液体がこぼれている。どうなっているんだろう。
生まれ変わったら、妊娠してた?
いや、まさか。
「あなたは、そういう種族なの?」
「?」
女性に問われて、わたしは首を傾げる。
種族ってなに?
「いいわ、ともかく。一緒に行きましょう」
女性は小さく頷いて、わたしと、わたしのおっぱいを吸う赤ん坊とを一緒に抱き上げて走り出した。後に知ったことだけど、この時、二人は追っ手から逃れようとしていた。緊迫した状況だったらしい。
赤ん坊はとある国の王子で。
女性は王子の護衛。
幸か不幸か、前世のようにあっさりと死ぬことはなく、別世界での新たな人生は、こうしてはじまった。とある王国の王子の乳母。それが新しいわたしの立場になる。胸をパスされて、その胸をキャッチされた。そういう感じ。
どういう感じ?
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