2章ー3・桜宝珠

「どうすればいいの?」


休み時間。机に頬杖を突いて、左手に持つ小さな桜色の宝石を眺める。

あたしの小指の爪ほどしかない可愛い宝石。



「何それ、まさか本物?」


美耶みやちゃんが興味深そうにあたしの左手に持つ宝石を見つめてきた。本当の事を言うわけにもいかないので「どうだろ?」と曖昧な返事をしてポケットにしまう。



「イミテーションにしては光り方が凄くない?クンツァイトより綺麗だよ」


目の色が違う。そういえば美耶みやちゃん、宝石見るの好きだったな。

クンツァでもモルガでもピンクダイヤでも宝石の輝きはカットで決まるのは常識だけれども、このベステトが化けている桜色の宝石はつるつるしたカット無しの丸みを帯びているだけ。それなのに輝きが半端ない。


これってたぶん、宝石自体が光を出しているのかもしれない。

だって輝き方が、光の反射率の常識を超えているもの。

ほんの少しだけ宝石に興味があるくらいの素人の知識でさえ、この桜色の宝石の輝きの凄さはすぐに気づくレベルだ。


自分の迂闊さに呆れる。どうすればいいのか分からなくて悩んでいたらつい、宝石を掴んでしまっていた。この宝石は見た目からして異常なのだから人に見られないように注意しないと。



昨日からのあまりに信じられない出来事の連続で日常への配慮がおろそかになっている。しっかりしないとね。気持ちを入れ替えて教室の中を見渡すとちえりがいない事に気がついた。


あれ、休み時間が終わって授業が始まっても、ちえりが席に戻っていない。

いつもならそれほど気にする事はないのだけど、ここ最近は琴音ことねちゃん達のちえりへのいじめが酷かった。あれは流石に堪えるだろう。


何となく制服のポケットの中に手を入れる。桜色の宝石に触れたい衝動に駆られたからだ。指先が宝石に触れた瞬間、不安な気持ちが湧き起ってきた。


何これ?

どうしてこんな落ち着かない気分になるの?


嫌な胸騒ぎがする。授業が終わると急いで教室を出る。



芹歌せりかちゃん。どこ行くの?」


葉月はづきちゃんに声をかけられ、あたしは早口で答えた。


「風邪で調子悪いから早退する」



「サボるんなら、あたしも付き合うよ」



「馬鹿。真面目に勉強しろ」と廊下に出た所であたしが言うと「サボる本人が言うなよ」と返された。その通りだから言い返せない。黙って廊下を走り抜けた。



「こら、鷹蔵たかくら!廊下は走るな!」


走っているところを運悪く生活指導の先生に見つかって注意されたけど、今は相手にしている場合じゃない気がした。


「ごめん。先生!」


謝るけど走るのは止めない。そのまま玄関で上履きを靴に履き替えるとそのまま学校を出て行く。


どうしてこんなに不安な気持ちで走っているのか自分で理由が分からない。だけど、これはあたしが今も左手に握っている宝石のせいだ。ちえりが居ないのに気づいて宝石に触れた瞬間から、気持ちがざわついて止まらない。







湘南ライフタウン前の停留所まで走って来た所で立ち止まる。汗をかいて頬に貼りつく長い髪を耳の後ろにかき分けながら、停留所に近づいてくるバスを見る。


「あれに乗れっていうの?」


ベステトの声は聞こえない。けれど、あのバスに乗った方がいいと分かった。汗で下着まで濡れちゃっている。気持ち悪い。まだ5月初めだというのに今日の天気は梅雨時の蒸し暑さを思わせる。


歩くたびに貼りつく気がするスカートを両手で広げて、少しでも涼しさを足に取り入れるように歩きながらバスに乗り込むとほどなくバスは発車した。



バスは20分ほど走ったところで天神社前という停留所に止まる。そこであたしは降りると周りの景色を眺めて呟いた。


「どこ。どこに向かわせたいの?」


目の前にあるのは引地川。そして公園。何となくそちらに足が向き、歩き出す。

公園の外周の道を歩いていると樹々に覆われた小高い丘が見えてくる。その先には引地川。そして引地川に架かる橋。


橋の袂に美空みそら中学の制服を来た女の子の姿が見えた。


ちえりだ。

学校を休んでこんな所でサボっていたのか。


近づいて声をかけるのは気が引けた。だって、あいつとは仲が悪い。


「どしたの?こんな所でサボり?」


なんて気軽に声をかけられるような仲じゃない。

仕方なく木陰に隠れてちえりの様子を伺う。


「何やってんだろ。あたし」


不安で居ても立っても居られないほど心を昂らせて、ここまで来てみたのは良いけれど木陰に1人で隠れている。


ばかばかしくてため息が出てきた。





夕暮れ時。

それまで橋の袂にじっと座って動かなかったちえりが立ち上がるのが見えた。


日も落ちてきたし、帰るのかな?


そう思っていたら、ちえりは橋の真ん中辺りまで来て橋の欄干に寄りかかり、引地川の流れを見始めた。


また胸騒ぎがしてきた。不安で堪らない気分になる。


何なの?

何のつもりなの。ベステト?

あたしをこんなに不安な気持ちにさせて一体、何をさせたいの?


何も言ってくれないベステトにいらいらしてきた。


もういい。

あんたが何も助言をしてくれないで、あたしの心を不安にさせるだけなら勝手にする。自分のしたいようにする。


木陰から立ち上がり、ちえりに向かって走り出した。


「ちえりー!」


そして大声で叫ぶ。


ちえりはびくっと体を震わせた。無理もない。大声で自分の名前を呼ばれて声のする方を見たら、あたしが全速力で近づいて来るんだから。


体をこわばらせてちえりは小さくなって震え出した。

そこに辿り着くと、また大きな声であたしは叫んだ。


「ごめんなさい!」


深くお辞儀をしてちえりに謝る。



「へ?」


ちえりはきょとんとして頭を下げるあたしを見つめた。



「本当にごめんなさい!」


あたしは土の上にしゃがみ込んで土下座する。

額も地面に押し付けて心の底から謝った。



土下座して自分に謝ってくるあたしを見て、ちえりは意味が分からず呆気にとられる。


「な、いきなり何?」



あたしは葉月はづきちゃん達と4人がかりで、ちえりの事をいじめてきた。途中からあたしはちえりのいじめを止めたけれども、その前にやっていた事の罪が消えるわけじゃない。人を傷つけた事実は残っている。


謝って済む問題じゃない。謝ったからって許されるわけがない。

心についた傷はずっと残る。場合によっては外傷よりも長く長くずっと残る。

それをあたしは身をもって知っている。


だから許してなんて口が裂けても言えない。

ただ謝る事しかできない。この子が葉月ちゃん達にいじめられて傷つき怯えているなら、この子を守るだけだ。


それであたしのやってきた悪事が消えるわけじゃないのは分かっている。

どうせあたしは人間のクズだ。あたしはこれまでたくさんの人を傷つけてきた汚い罪を背負っている。


他人の痛みが分かるようになったから、人が傷つくのを見ていられなくなってしまっただけ。たったそれだけのくだらない自己欺瞞。


でも捨てちゃいけない大切な思いだ。

自分がクズだからこそ。なおさら見失ってはいけない思いなんだ。




「何で謝ってるの?」


ちえりが訊いてきた。あたしは地面に額を押し付けたまま正直に答える。


「ちえりに嫌な思いをいっぱいさせたから」



あたしの答えにちえりは黙り込んでしまう。




とても長い沈黙の時間が流れる。日が沈み、辺りが薄暗くなってきている。外灯に明かりがつく。




「あんたがそんな事を言うなんて以外すぎて驚いちゃった」




また沈黙が流れる。




「いつまでそうしてんのよ?」



「ごめんなさい」


これしか言えない。言い訳はできない。



「そんなにいつまで謝られてもこっちが困る」



そうかもしれない。

土下座をやめて立ち上がろうとすると足が痺れて尻餅をついてしまう。



「あんた、おでこが真っ赤になってるよ」


ちえりに言われて自分の額を触るとヒリヒリして痛かった。膝も痛い。

土の上にずっと土下座していたから肌を痛めたようだ。



「ごめんなさい。ちえり」


痺れて震える足に力を入れて何とか立ち上がりあたしは謝った。謝ればいいというものじゃない。でもやっぱり、謝らずにはいられない。



「困るって言ったでしょ。いつまでも謝るな」



ちえりを困らせたくはないので唇をぎゅっとむすんだ。



「帰る」


ちえりはそう言うと歩き始めた。

あたしの横を通り過ぎて歩くちえりを振り返ってその後ろ姿を見つめる。


声には出さずに心の中だけで謝っていたら、不意にちえりが歩くのをやめて立ち止まった。そして振り返りながらあたしの顔を見る。


「なんて顔してんのよ」



「え?」


ちえりの言葉の意味が分からなくて首を傾げると、ちえりが苦笑いをしながら言った。


「情けない顔して。今にも泣きそうじゃない」



そんな顔をしていたのか。

申し訳なくて、どうしたらいいのか分からなかったから、気持ちが表情に出てしまっていたのだろう。



ちえりがゆっくりと近づいて来る。あたしの顔を見て、眉を下げ困った表情を浮かべている。また困らせてしまっている事に気がついて、増々申し訳ない気持ちになる。


ちえりはあたしの右手を左手で優しく握ってくれた。


「帰るよ」


ちえりに引っ張られて歩き出す。



「あんたがこんな性格だったなんて知らなかったよ」


歩きながらあたしの顔を覗き込んでちえりが言った。


何と答えたらいいのか分からない。ただ黙ってちえりに手を引かれる。



「前にね・・・・・・」


ひとりごとのようにちえりが呟く。


「ここで、こんな風に誰かと手をつないで帰ったような気がする」


そう言って、ちえりは優しく微笑んでくれた。



温かい。ちえりが微笑んでくれた瞬間、何だか温かいものを感じて、あたしはポケットの中の宝石に左手で触れる。宝石が温かくなっていた。




2人でバスに乗り、お互いの家の近くで降りるとちえりと別れる。

ちえりが笑顔で手を振ってくれたのが嬉しかった。




あたしは歩きながら、人に気づかれないようにポケットから宝石を出して見てみる。温かい桜色の宝石は輝きも増していた。



ベステトの声が聞こえてきた。


(芹歌ありがとう。江梨花の存在の力が増えたよ)



え、あたしは何もしていないけど?



(ちえりに江梨花の存在を思い出させてくれた。それが江梨花の存在を増やしてくれたんだよ)



良く分かんないけどそうなんだ。ていうかさ。今までどうして何も言ってくれなかったの?あたし、本当にどうしていいのか分からなくて困ってたんだからね。



(江梨花の存在を固定するために力をほとんど使い切ってしまって、話す力も残っていなかったんだよ。あのままだと後、半日も持たずに江梨花の存在は消滅していただろうから一刻の猶予も無かった)



そんなにギリギリでやばかったの?!



(そう。だけど今は固定したから結構持つよ。ちえりから江梨花(えりか)の存在を増やしてもらったしね)



そうなんだ。それで、どのくらい江梨花って人の存在は持つようになったの?



(たぶん一カ月)



一カ月?



(そう、一カ月。それまでに江梨花が復活できる方法を見つけ出して、万全な状態の桃ちゃんとも合流して江梨花を助け出さないとアウト)



何だか、やる事が多そうだけど。それって簡単にできる事なの?



(分からない。どうやったら江梨花を復活させられるのかも、今のあたしじゃ見つけ出せない)



ちょっと。それって、やばくない?



(うん。やばい)



夜の街の明かりの中で、あたしは頭をおさえる。

これって間に合うの?

こんなんで、江梨花って人を本当に救い出せるの?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る