2章ー2・守りたい存在

「こいつは君の魂と繋がっている。君に返すよ」


胸に穴が空いている男の子の両手の上に、黒い仔猫が現れる。

男の子はぼんやりと透き通っていたけれど、黒い仔猫はもっと透明で、今にも消え入りそうなほど儚げだ。ぐったりと力なく目をつぶって男の子の両手の上で動かないでいる。


胸に穴が空いた男の子は金縛りにあって動けないあたしに近づいて来ると、ぐったりとしている仔猫ごと両手であたしの胸に触れようとしてきた。


ちょっ?どこに手を当てる気なの!


いくら子供でも男の子に胸を触れられるなんてありえない。

あたしは必死に抵抗しようとしたけれど無駄だった。体はちっとも思い通りに動いてくれない。



男の子の両手が胸に触れたと思ったら、その手は仔猫ごとあたしの胸の中に入った。入ったというよりも通り抜けたという表現が正しいのかもしれない。胸を触られている感触は無く、ただ胸の中に何かを置かれたような感じがした。


男の子の両手がすーとあたしの胸から離れるのを見ると、男の子の両手の上にいた仔猫の姿は無かった。



え、あたしの体の中に仔猫を入れちゃったの?

ちょっと!何て事するのよ。あたしの体、大丈夫なの?



「心配はないよ。そいつに実体はない。それに始めから君とそいつは繋がっていたから、魂の拒絶反応も起こらないだろう」


あんた、さっきから何言ってるのかさっぱり分かんないよ。馬鹿なの?

だいたい体が透き通っているし、胸に穴が空いてるし。あんた幽霊か悪魔?


男の子に叫ぼうとしても声が出ない。あたしの思いは心の中で虚しく響いただけだった。それなのに男の子にはあたしの心の声が聞こえたようだ。


「エリカと違って口の悪い女だな。こんな子のどこにエリカは魅かれたんだ?」



だからそのエリカって誰よ?そんな人、あたしは知らないよ!



「一番影響力が残っているはずの触媒でさえ存在が薄れているのか?これはいよいよエリカの存在が危ないな。時間は永遠に引き延ばせるが存在は引き延ばせない。君にはできるだけ急いでこちらの世界に来てもらえると助かる」



1人で納得して、自分の都合を押し付けるな!

あたしにも理解できるように説明しろ!



「君の中にいるそいつが導いてくれるよ。君の命を優先してしまって導くのをそいつが躊躇えば、僕が君を手にかければ良いだけだしね。それに君はこちらの世界に必ず来たくなる。今はまだ自分で気づいていないようだけれど、君はエリカに焦がれている」


言いたい事だけを言って、男の子はその場から姿を消してしまった。


なんて自分勝手な奴。

美男子で可愛いけれど、あんな奴。


あんな奴・・・・・・ちょっと嫌いだ。



男の子が姿を消すと金縛りが解ける。

その場にしゃがみこんであたしは呟いた。


「有り得ない。これは夢。幻を見ていただけ。頭がおかしくなっただけ」


自分の頭が狂う事は大問題のはずなのに、あまりにも信じられない出来事を体験して焦燥した今の自分には、頭がおかしくなっただけだと信じるほうがまだましに思えていた。



(現実逃避している場合じゃないよ。しっかりしろ。芹歌せりか


あたしの中で声が聞こえた。

誰?今度は誰よ?



(あたしだよ)


頭の中にぐったりとして目をつぶっている仔猫の姿が浮かんできた。



あたしの胸の中に入った仔猫だ。

あんた誰よ?どうして猫なのに話せるの?

さっきの男の子は誰?



(あたしの名はベステト。あんたと同じ心を持つ神。話せるのは神だからで納得しろ、めんどくさいから。それと男の子の正体は知らない。凄い力を持っていそうなのは分かったけど。気がついたらあいつの手の上に居た)



あんた、ベステトっていうんだ。あたしと同じ心を持つってどういう事?あの男の子も神なわけ?



(矢継ぎ早に色々訊かないでよ。こっちは神力を失って今にも消えそうなの。とりあえず、あたしを助けて。このままじゃ、あと少しであたしは消えてしまう)



助けるってどうやって?



江梨花えりかの家に行って。あそこにはあたしが加護を与えた仔猫がいる。今のあたしの姿と同じ黒い仔猫だから見ればすぐに分かるよ)



江梨花えりか

エリカじゃなくて江梨花えりか

心の中がもやもやしてくる。切ない。何だろうこの気持ちは?


江梨花えりかという名になつかしいような大切な何かを感じるのに、それが何なのかまるで思い出せない。



(思い出せないのは仕方のない事なんだよ。それは脳の記憶の問題じゃないから。肉体はおろか、霊体とその核である魂まで江梨花えりかは破壊されてしまっている。


残っているのは存在したという事実だけ。その事実も消滅しかけている。この事実まで消えたら江梨花はもう因果律に縛られない上級神のランクの神でさえ復活させられなくなる。とにかく江梨花のいた家まで急いで)



ベステトの言っている事は相変わらず理解できないけれど。

それでも江梨花という人が大変な危機らしい事は分かる。

誰かも知らない江梨花という人をなぜかあたしは放っておけないと感じた。失えない。失いたくないと感じてしまう。



あんたを助けるのはいいけど、その江梨花って人の家がどこにあるのか分からないんだけど。



(あたしがあんたの頭の中で道案内するから大丈夫だよ。とにかく急いで。このままだと江梨花を助け出す前にあたしが消えちゃう。そうなったらもうお終い)







ベステトの道案内で江梨花という人の家に向かう。霊山寺りょうぜんじと呼ばれるお寺を通り過ぎると大きなお屋敷が見えてきた。あの大きな家が江梨花という人の家らしい。



生垣で囲まれた広い庭に入り、立派なお屋敷の玄関まで来るとチャイムが聞こえた。人が敷地内に足を踏み入れると自動的に察知するセンサーがあるらしい。


「どなたでしょうか?」


大人の女の人の声がインターホンから聞こえてきたので答える。答える時に少しだけ声が震えて恥ずかしかった。こんな大きなお屋敷で知らない人の家は緊張するよ。


鷹蔵芹歌たかくらせりかというものです。こちらに黒い仔猫はいませんか?」



「黒い仔猫ならうちで飼っていますけれど、うちの仔猫が何か?」



(その黒い仔猫は江梨花が助けて家で飼うようになった仔猫だけれど、その事は言っては駄目。江梨花の母親も父親も自分達に江梨花という娘がいた事を知らないはずだから。もう江梨花の部屋も消滅して、代りに違う部屋になっているはず)


ベステトの心の声にうなずいて、嘘の返答をインターホンに向かって告げる。


「その仔猫は実はあたしの猫かもしれないんです。逃げ出しちゃって見つからなくてずっと探していたんです」



「まあ。ちょっとお待ちください」


女の人の驚く声が聞こえてきて、それから少しの時間が過ぎる。やがて身なりの整った上品そうな女の人が両手に黒い仔猫を抱いて玄関に現れた。


「この子かしら?」



上品そうな女の人が両手に抱いている黒い仔猫を見せてくれる。


(その子で間違いないよ。芹歌、その仔猫を一度でいいから抱いて)


ベステトの声に心の中でうなずき、あたしは女の人に言った。


「ちょっと分かりにくいので抱かせてもらってもいいですか?良く見たいので」



女の人は快く仔猫を渡してくれた。

黒い仔猫を受け取り、そっと抱きしめると


(来た。仔猫に与えた加護の力を抜き取ったよ。神力が戻ってきた。もう仔猫を返してもいいよ)


どんどん元気になっていくベステトの尻上がりの声が聞こえた。



「勘違いだったみたいです。この仔猫じゃありませんでした」


あたしがそう言って女の人に仔猫を返すと、女の人は不思議そうに話してきた。


「良く覚えていないのだけれども、いつの間にかうちで飼っていたのよね。よろしければ貴女がもらってくれて構わないのよ?」



「いえ。結構です」


あたしは即答した。可愛いけれど、うちでは飼えない。ママもパパもペットを許してくれないのは知っているから。




広い庭を出て歩くあたしの頭の中でベステトの声が聞こえる。


(もう、情けない。仔猫に与えたちっぽけな加護の力を取り戻さないといけないなんて。今のあたしはこんな微塵のパワーにさえ縋らないと神体を維持できない。今のあたしは成仏できない幽霊と似たようなものだけど)


「じゃあさ。あの仔猫にあった加護は今はあんたに戻っていて、仔猫には残っていないの?ていうか、あんた幽霊と同じなの?」


(うん。神として一度与えた加護の力をまた取り上げるなんて最低なんだけどね。こうしないとあたし自身が消滅しちゃうから。まあ、神も幽霊も似たようなものでしょ?江梨花を無事に救出して本物を復活してもらった暁には、何億倍にも熨斗をつけて加護を返してやる)



加護が何億倍って。

何億倍も加護がついたら、あの黒い仔猫はどうなっちゃうんだろうね。



(下級神ランクの力と幸運を持つだろうね)



下級神っていうのは分からないけど、幸運になるならいいんじゃない。

それで、これからどうすんの?



(あたしの中に残っている江梨花の存在を形にする。あたし自身が江梨花の存在証明に変身する)



え?あんたが江梨花って人の存在を証明できるなら、始めからあんたがやればいいだけなんじゃない?



(江梨花の存在はどんどん消えているんだよ。それはあたしの中でも変わらない。ただあたしが神である事で存在が消えるのを遅らせる事ができているだけ)



じゃあ、どのみち江梨花って人は完全に消えちゃうんじゃないの?



(そこで芹歌。あんたの力が必要なわけよ。あんたにはどうやら江梨花との強い絆があるみたい。桃ちゃんがそう言ってた。魂まで消滅してなお、消えない江梨花の存在理由があんたなんだってさ)



強い絆?

桃ちゃんって誰?



(あたしにも分からない。桃ちゃんほどの神力があればあたしにも理解できるんだろうけど。今は桃ちゃんにも会えないし。あ、桃ちゃんっていうのはあたしなんか足元にも及ばない上級神ランクの神の名前ね)




上級神ランクの神?

色々と説明不足だよ、ベステト。

もっと詳しく教えてくれないと分かんないよ。



(ごめん。力がもう少し戻ったら理解できるように説明するから。今はあたしの中から消えている江梨花の存在を固定するのを最優先にしたいんだ。固定すれば江梨花の消滅をもっと遅らせる事ができるようになるから)


ベステトが話す間にあたしの胸元から温かい光に包まれた何かが出てくる。やがてそれは桜色に輝く小さな宝石の形になった。桜色の小さな宝石が重力で落ちる。


「危なっ!」


慌てて小さな宝石を両手で受け止めた。



「それで、この桜色の小さな宝石に化けてあんたはこれからどうすんの?あたしは何をすればいいわけ?」



返事がない。



「ベステト、どうしたの?どうして答えないの?」


ベステトは何も言わない。


ちょっとー。

いい加減にしなさいよ。

あんたが何も言わないんじゃ、あたしは何も分からないんだからね。




怒ってもベステトは何も答えてくれない。

ベステト。あんたも馬鹿なの?死ぬの?


あたしは薄暗くなったお寺の前で途方にくれて立ちつくした。

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