11・手帳
お家に帰った私は自分の部屋の中で神様を1柱作りました。
神様の名前はベステト。
神様のランクは中級神。
褐色の日に焼けたお肌に、金色の膝まで届く長い髪はくせっ毛のためにふわっふわでボリューム満点です。でも胸のボリュームはありません。だってあんなホルスタイン?みたいな胸は重くて大変そうなので。
ベステト様の金色に輝く髪の間からは金色のうぶ毛におおわれた可愛い猫耳。きゅっとひきしまったカッコイイお尻からは猫さんのしっぽがふいふい動いていてとっても可愛らしいです。
ラーの目で世界のあらゆる事を見通す力。
あらゆる神々や主神・ラーでさえも直接の力技では勝てなかった虐殺の暴威。
際限のない豊と穣を世界に与えられる恵みの力。
平穏と安らぎを与える癒しの力。
これがベステト様の神様としての能力です。
ベステト様の神話には、男性が決して抗えないほどの蠱惑的な色気や無限の性愛と多産のお話しも書かれていましたが、その能力は削除しました。
「ベステト様」
「なあに?」
「そろそろ離してください」
「いや」
えーと。
神様の心の作り方を失敗しました。
ベステト様は
こんなにも愛情に飢えていたのかと思うと愛おしくなってしまうのですが、いつまでもこうしているわけにはいきません。
「これだと私が身動きできません」
私に抱きついて頬ずりするベステト様にごめんなさいと謝りながらうったえると、ベステト様は一瞬だけ口をとがらせましたが分かってくれたようで私を解放してくださいました。
「それならこれで」
私を離してくれたベステト様は、私の膝の上に丸まってくつろいでいた黒い仔猫さんの体の中にすーっと消えていきます。
「ベステト様?」
黒い仔猫さんの中に小さくなりながら消えたベステト様に話しかけると、黒い仔猫さんが可愛らしいおめめを私に向けてきました。
(小さな仔猫の中なら
頭の中に直接、ベステト様の声が聞こえてきました。
それって仔猫さんはどうなってしまうのですか?あの子の魂は大丈夫なのですか?
私が黒い仔猫さんの心配をするとベステト様が答えてくださいました。
(あたしが憑依している間は仔猫の心が眠っているだけで問題ないよ。あたしの加護でこの仔猫の体は凄い幸運と長命になるしね)
はあ。
それが良い事なのか判断に迷うところですけれど。
ベステト様が憑いている黒い仔猫さんの体を撫でながら私はさっそく本題に入ります。芹歌さんの今までの家庭環境と人間関係の情報を欲しいと。
すると私の頭の中に芹歌さんのこれまでの人生と彼女に関わってきた人達の情報が入ってきました。
芹歌さんは幼い頃から今のご両親に邪魔者として扱われていました。
「ママ」「パパ」と笑って話しかけてもほとんど興味を示してもらえず、いないものとして無視されていました。
彼女は幼いながらに必死になって両親に振り向いてもらおうと頑張りました。
保育園でも幼稚園でも良い子でいました。ワガママも言わないで我慢しました。
小学校低学年では勉強を頑張っていつも良い成績でした。
それでも振り向いてもらえない彼女は何とかご両親の気を引こうとして時には悪戯をしてみたり、時には素直になって甘えたりしたのですが、彼女のご両親の態度は悪化する一方です。
「邪魔だからあっちに行っていろ。私に手間をかけさせるんじゃない」
「宿題で分からないところがあるから教えて欲しいですって?そんな事を私は親にしてもらえなかった。それなのにどうして私がお前にしてやらなければならないの?」
「学校に通わせているし、ご飯だって食べさせてやっているのにこの恩知らずが。お前はいつも私をいらつかせる。お前なんか産むんじゃなかった」
これがご両親から与えられる日常の言葉です。
見ていると芹歌さんが悪戯している時もそんなに悪い事はしていません。振り向いてほしくて、親の温もりが欲しくて些細な悪戯をしているだけでした。
それなのに彼女のご両親はその彼女の行いを心底憎々しそうに、時には暴力まで振るって戒めていました。そこに愛情はまるで見当たらず、ただ自分達の鬱憤を晴らすためのよいはけ口にされています。
もっと酷い言葉を実の娘に向かって憎々し気に吐いているところもありました。
芹歌さんのご両親の夫婦仲も険悪で家庭環境はほぼ崩壊しています。
こんな家庭環境の中でも芹歌さんが破綻した人格の子供にならずに済んだのは時々やってくる芹歌さんの叔母さんのおかげでした。
この叔母さんは芹歌さんのお母さんの姉にあたる人で、まだ幼い芹歌さんが理不尽にご両親から責められている時、いつも彼女を守ってあげていました。
芹歌さんにとって叔母さんは世界で一番優しくて、温かくて、自分が生きていてもいいんだと思わせてくれる唯一の救いでした。
その彼女の人間らしさをかろうじて保たせてきた唯一の人が突然、姿を現さなくなります。芹歌さんが小学校2年生の時でした。
叔母さんの居所をご両親に尋ねると死んだとだけ教えられました。
叔母さんの死を信じられなかった芹歌さんは必死で叔母さんの行方を捜しました。そして1年後。叔母さんが亡くなった病院を訪れてやっと彼女は叔母さんの死を理解したのです。
芹歌さんをご両親から常にかばい、彼女の心の支えになってくれた人の消失は芹歌さんに決定的な絶望を残しました。
彼女の人間らしい優しさは、日々のご両親との殺伐とした生活の中で容赦なく削り取られ消滅してしまいます。
癌で亡くなられた叔母さんは独身でした。彼女もまた芹歌さんのお母さんと同じで愛情とは何かを良く理解できない人でした。
でも叔母さんは、芹歌さんのお母さんよりも自分に欠落しているものに対して取り戻そうと努力し、苦しむ心があった。
愛情を知らない自分は人に愛される資格は無いと自分を卑下し、呪いながらも身を焼くほどに愛情に焦がれた。
愛とは何かと必死に理解しようとした。
自分の妹とその夫の間に生まれた芹歌さんへの同情がきっかけだった。彼女は幼い芹歌さんの悲しむ姿を見るのが辛くなった。この子まで私達姉妹のように愛情を理解できない大人になってしまうのかと思うと不憫で気の毒で放って置けなくなる。
それが愛情だと彼女が気づいたのは死の床について亡くなる寸前の時だった。
芹歌。
あの子を残して死ねない。
このままじゃあの子が不憫すぎて死んでも死にきれないよ。
嫌だよ。神様。あんた意地悪だよ。
やっと愛情が何かを分かって。
これからあの子に本物の愛情を注げるようになった私に後悔だけを残させて、この世から私を消しちゃうの?
嫌だ。せめて芹歌が幸せになれるのを見届けるまで。
あの子が笑顔でいられるようになるまで。
芹歌から私を引き離さないで。
あの子が愛しい。
あの子を残して死ねないよ。
そこで芹歌さんの叔母さんの情報が消滅します。
芹歌さんの叔母さんの人生が終わった瞬間でした。
芹歌さんを最後の瞬間まで愛した叔母さんの想いは、まだこの世界に物として残っています。小さな手帳という形で。
それはまだ芹歌さんの手元にありません。
ひっそりと誰にも見つけられる事もなく風化の時を待っています。
芹歌さんの環境と周りの人の思いを見終わった私が視線を自分の膝もとに落すと、黒い仔猫さんがじっと私の顔を見上げていました。
ぽろっと透明な粒が黒い仔猫さんの頭の上に落ちてしまいます。
「あれ?」
私は慌てて自分の目を右手で押さえ、左手で仔猫さんの頭の上をティッシュでふき取ります。
「ごめんね」
謝りつつ仔猫さんの頭からティッシュを離すと、またぽろぽろ涙が落ちてしまいます。
「ありがとう。江梨花」
黒い仔猫さんは涙の止まらない私の目もとにそっと口づけをしてくれました。
ベステト様は芹歌さんの心をベースに作られています。
芹歌さんの苦しみも悲しみもベステト様には分かるのです。
芹歌さんの心の分身。
黒い仔猫さんは猫なのに私の目もとに口づけた後、目をうるませていました。
そして母猫に甘えるように私にいっそう体をすりつけてきます。
人は誰でも皆
愛されたいし、愛したいと思う生き物です。
どこで歯車が狂うのでしょうか。
人が人を傷つける行為。
そんな事は本当はしたくないのにしてしまう。
そうした悲しみの連鎖は今の人の力だけでは断ち切れない。
でも、代々続いてしまう悲しみの連鎖の中にも奇跡は起こる。
愛情を理解できない人が悲しみの連鎖を断ち切るきっかけになる事もある。
この叔母さんの優しさはこの世に残してあげたい。
彼女が愛情に目覚めるきっかけとなり、同時に救った相手でもあった人。
芹歌さんに叔母さんの想いのこもった最後の一つを届けよう。
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