第9話

 仁孝は目前に控えた紅丸と伊都乃の頭を越えたところへ視線を飛ばしていた。草染めの小袖を軽やかに着ている。

 障子は開け放たれていた。彼岸を過ぎ、ようやく春らしい日が続くようになった。庭の片隅にはオオイヌノフグリがあちらに一叢、こちらに一叢と青く可憐な花を咲かせている。ヒバリのつがいが鳴き交わしている。ということは、かすみはよそへ行っているらしい。狩りだろうか。

「九州へ行ってもらおうと思ってなあ」

 ここでようやく、仁孝は紅丸と伊都乃に向き直った。

「少し、加藤が気になる」

「肥後でございますか」

 伊都乃の青みを帯びた声が通る。背筋を伸ばして座している。怪我はもうすっかりよくなったようだ。背中の傷は多少残ると聞いたが、彼に言わせれば物の数に入らないらしい。

 生まれて初めての夜這いの翌日、紅丸と伊都乃は弥助に半刻ほど小言を聞かされた。伊都乃は傷口が開いて単を汚したことと、怪我をしているのに無理をしたことについて。紅丸は怪我人に無理をさせたことについて。後に聞いた話だが、紅丸に余計なことを吹き込んだことについて、仁孝も小言を食らったらしい。

何はともあれ、佐田の屋敷は日常を取り戻している。

「探るだけでよい。手出しは無用だ。道中はのんびりせよ。ひとりにはなるな。ふたりでいろ」

 仁孝は紅丸と伊都乃を交互に見た。欠けた前歯を見せ、柔和に笑う。

「ときに伊都乃」

「はい」

「わかったか?」

 仁孝は糠床をかき回すように切り出した。伊都乃の頬がひくりと動く。

「いえ、まだ」

「わかるといいな。だが、別にわからぬでもよい」

「それは、どういう意味でしょうか」

「仲良くな」

 はぐらかされ、伊都乃がきれいな顔を歪めた。紅丸は特に発言すべきこともなく、黙って頭を下げた。

二人そろって退出する。縁側は陽光を受けて温かい。

「九州か。船、苦手だ」

「毎度同じことを仰せになる。耳にたこができる」

「ふたりの話か? なあ、どうしてだと思う? どうして、おれたちはふたりでいなきゃいけないんだろう?」

「互いが死なないためだろう?」

 伊都乃があんまりあっさりと言うので、紅丸は驚いた。

「仁孝さまがそう言ったのか?」

「ご差配が具体的なことを言われるはずがないだろう。多分、その辺りではないかと思うだけだ」

 伊都乃がいないと紅丸が死んでしまうことはわかる。現に、そういう事態があったばかりだ。逆はどうだろうか。殺される前に殺すのが彼の信条なので、少なくとも殺されはしないだろう。けれど伊都乃は殺しすぎるから、薄れていってしまう。

「おれがいたら、伊都乃は薄まらなくて済むのか?」

「希薄の話から離れろ。ただ、以前ご差配から、お前は一線を越えると危ないと……離れられないのか。くそっ」

「どうしたんだ? 何から離れられないんだ?」

「まったく余計な世話だ。長く生きたい奴は長く生きればいい。俺はいつ死んでもいい」

 苛々しているらしい。伊都乃にはよくあることだ。

伊都乃の背で髪が揺れる。やわらかな春の日に照らされて、緑色の影を作っている。紅丸が一度切ってしまった髪。またのびてよかった。

「伊都乃」

「なんだ?」

「おれは伊都乃に長く生きていてほしいと思ってるぞ」

「阿呆」



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しのび、ふたり タウタ @tauta_y

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