第7話

 温かい日だ。びいどろのように澄んだ空は自ら光を放っているかのようだった。雲はなく、どこまでも平らだ。紅丸は佐田屋敷の屋根に上り、ぼんやりと景色を眺めていた。まだ風は冷たいが、もう雪は降らないだろう。木々の芽は、日々不断の努力をもって固い殻を破ろうとしている。山にも土の色が戻ってきた。南側の屋根は触れるとぬくい。適度に水気を含んだ茅がしっとりと掌を押し返してくる。

昨日、紅丸よりも数段うまい飯を作る朋輩が帰ってきたので、勝手方はお役御免になった。鳴子はあちこちに綻びがあったが、修繕は終わっている。意を決して向かったその場所に、女の死体はなかった。仲間が回収に来たのか、獣が持ち去ったのかはわからない。

伊都乃が目を覚ましたと弥助が教えてくれたのは、襲撃の夜から丸二日経ってからだった。紅丸は麦飯を炊いていた。知らせを聞いた瞬間、体が溶けて地面に吸い込まれるかと思った。それからさらに三日経っている。

まだ、伊都乃には会っていない。

「おれは、弱虫なんだ」

 棟に留まったかすみが喉を鳴らす。彼女は少し痩せたようだ。狩りに出ないからだろう。伊都乃が臥せってから、かすみは屋敷を離れようとしない。そして、どんなに懐いても、かすみは伊都乃以外の手からものを食べない。

「お前はえらいな」

 伊都乃が死なないことを知っている。この空腹が死に至るほど長引かないことがわかっている。だから、待っているのだ。

「いい女だ」

 伊都乃が嘯くのもうなずける。

 不意にかすみが飛び立つ。ややあって仁孝が登ってきた。座を正そうとしたが、屋根の上では難しい。まごまごしているうちに、仁孝は紅丸の横へ腰を下ろした。

「年を取った。ついこの間まで、一跳びで登れていたのだがなあ」

「御用なら呼んでくだされば」

「よい天気だ」

 仁孝は脚をのばし、両手を後ろについて空を見上げる。紅丸も頭上を仰いだ。かすみが浮かんでいる。

「よい女だ」

「はい」

 二人だけの話があることを察して遠慮してくれたのだろう。風が吹くたびかすみは高く昇る。今はもう豆粒ほどの大きさだ。ゆったりと旋回するのみで、屋敷を離れようとはしない。

「手裏剣に毒が塗られていたらしいな。普通なら死ぬそうだ。弥助が気味悪がっていた。あいつは化け物か、と」

 仁孝はおかしそうに笑った。全然笑いごとではない。運がよかっただけだ。相手は弱っていたし、女の力なのでそれほど深く刺さらなかった――これは弥助に聞いた。耐性のない毒なら助からなかっただろう。耐性を持っていても、高熱を出して二日寝込んだのだ。

「会いづらいか?」

 仁孝は空を見上げたまま問う。会って何を言えばいいのだろう。

「謝らなきゃいけないって、わかってるんです。でも」

あのとき自分が与太郎の姉にとどめを差していればと、できもしないことを後悔している。

「それもそうだが、礼の方がいいだろう。命を助けられたのだからな。ありがたいことだ。いずれにせよ、ほどほどでよい。私も先ほど礼を言ってきたが、あいつ、困った顔をした」

「仁孝さまが? なぜ?」

「もちろん、お前を助けてくれたからだ。こう言ってはなんだが、伊都乃でよかった。お前なら死んでいただろう」

 はいともいいえとも言えず、紅丸は灰色の屋根を撫でた。風雨にさらされ、丸くやわらかくなった死の感触だった。

「お前を案じていたぞ」

 伊都乃が? まさか。でも、仁孝が言うのだからそうに違いない。信じにくいことだけれど。

 仁孝は首を戻した。年寄りくさい仕種で肩を叩く。

「ああ、そうだ。ただ会うのが難しいなら、夜這いはどうだ?」

「よ、よば……っ?」

「やつれてはいたが、退屈そうでもあったしな。喧嘩をしてからずっとご無沙汰だろう?」

 たまにはうまいタコが食べたいとか、うっかり墨を落として割ってしまったとか、そんな調子で言われると困ってしまう。仁孝のこういうところが好きなのだけれど、だからこそとても困ってしまう。

 どうしてこんな話になったのだろう。初めはそうではなかったはずだ。

 仁孝は自分の案がよほど気に入ったらしく、妙案だ妙案だと喜んでいる。

「まだ、抱かれる理由も聞いていないだろう?」

「そんなの、どうせ近くにいるからです」

「紅丸、あの伊都乃だぞ。近かろうが遠かろうが、女から寄ってくる。近いからというだけで男に手を出すわけがないだろう」

「では、どうして」

「だから、それを聞いてみろと言っている。昼間は駄目だぞ。夜が更けて、こう、いい塩梅になったらな、そうっと襖を開いて……まあ、お前には難しいかもしれないが」

 仁孝は苦笑した。夜はどれくらい更けるまで待てばいいのだろう。いい塩梅というのは、どんな風なのだろう。詳しいことを教えてほしかったが、仁孝は受けつけてくれなかった。

「ふたりでいなさい」

 仁孝は立ち上がり、するすると傾斜に沿って軒先からぽんと飛び降りた。紅丸は取り残される。見上げれば、かすみが浮かんでいる。

「いい天気だ」

 本当に、いい天気だ。

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