第6話

 晴れ間が続いていた。屋根に残った雪が卵色の日に照らされ、きらきらと輝いている。仁孝はここのところずっと離れに籠っている。諸国に散った朋輩たちが出入りをくり返す中、紅丸にはこれといった任は授けられなかった。

伊都乃とはまだ話せていない。紅丸同様任は受けていないはずだが、彼は屋敷にいないことが多かった。

一度だけ、あてがわれた部屋で武器の手入れをしているところを見かけた。広げた麻布に、様々な道具が所狭しと並べられていた。長い指が一つ一つを取り上げては砥石に当てたり、油や薬を塗り込んだりしていた。無駄のない所作に引きつけられる。目を眇めて愛刀の刃を見る伊都乃は、夜明け前の空気をまとっていた。

台所を担っていた平次が加賀へ行くというので、紅丸が代わって食事の支度をすることになった。戻ってきた仲間のために兵糧丸や飢渇丸も作る。すりこぎで味噌を練り、干し肉を水でもどす。縄も綯(な)う。鳴子の手入れも怠りはない。

その鳴子が、ある晩鳴った。音はすぐに止んだ。動物がかかったものではない。紅丸は見張りの仲間に声をかけ、身支度を整えた。市中にも使いが走り、あっという間に十ばかりの影が集う。

「裏山からだ」

影は紅丸の一言で辺りに散った。伊都乃も混じっている。屋敷には数名が残り、仁孝は本丸へ赴いていた。

また、鈴が鳴る。今度は山裾の方からだ。近い。紅丸は駆け出した。三の廓の裏は傾斜がゆるやかで、山に慣れた紅丸には平地同然だ。鈴の音はもう聞こえない。鳴子に沿って移動し、紅丸は切れた糸の端を見つけた。切り口が鋭い。刃物で切った跡だ。耳をすませたが、辺りに動くものはなかった。

一つ、また一つ、城に火が増える。

(大丈夫そうだな)

 どんな戦いも先に敵を見つけた方が有利になる。見つかったことがわかれば、敵も速やかに退くはずだ。鳴子の糸は明日また直しにこよう。紅丸は鈴がなくなっていないことを確認して戻ることにした。

ふと、火の匂いがした。ジジ、とかすかな音。反射的に数間跳びのく。破裂音がして、辺りが橙色に照らし出された。

(退いたんじゃなかったのか)

 紅丸は短刀を抜いて火薬玉が飛んできた方へ走った。正面から迫る棒手裏剣を弾き飛ばす。姿が見えない。しかし相手は紅丸を見つけている。

(どこだ?)

 木を背にしたまま、紅丸は辛抱強く待った。意識を自分から広げていく。冬と同化する。黒と黄色の蜘蛛のように、水に浮かぶアメンボウのように。自分の外に鋭敏になる。染み込む寒さに際立つ火と鉄の気配。内に潜む自分とは違う温度を感じ取る。

 紅丸は横に跳んだ。拡散していた感覚が四肢に戻ってくる。上から降ってきた影は、着地から一拍置いて追ってきた。それほど速くない。身体能力はこちらが上のようだ。

渋色の忍装束に身を包み、同じ色の頭巾で顔を隠している。月明かりに匕首がひらめく。逆手に構えられた刃は鈍色に曇っていた。何か塗られている。

敵は果敢に攻めてきた。しかし技らしい技はなく、ただ匕首を振り回しているだけに見える。呼吸も整っていない。少なくとも戦(いくさ)忍(しのび)ではない。紅丸は身をひねって匕首を避け、脾腹に拳を叩きこんだ。敵は腹を押さえて止まった。拳に伝わった感触に、紅丸は戸惑う。

「女なのか?」

 明らかに、鍛えられた男の肉ではなかった。そうと予測して殴ったので、思いの他深く入ったらしい。敵はよろめき、膝をついた。頭巾を取って嘔吐する。波打つ髪がこぼれ、酸い匂いが鼻をついた。年は二十に届かないだろう。顔立ちに幼さが残っている。

 女は口を拭うと、燃え立つような目を紅丸に向けた。再び火薬玉を投げつけられたが、威力は先ほど見ている。紅丸は逃げ過ぎなかった。

「城は守りが厚くなったから入れないぞ」

「黙れ」

 めらめらと炎を吐くような声だった。女はよろめきながらも立ち上がる。背筋を悪寒が走った。伊都乃が見せる純粋な殺気に比べて、女のそれは淀んでいる。紅丸は思わず一歩下がった。

「城なんかどうだっていい。お前も、もう一人も、殺してやる」

「もう一人? なんのことだ?」

「死ね! 与太郎の敵!」

 ――与太郎。

 瞬きするほどの空白があった。その間に、女の刃は紅丸の眼前に迫っていた。短刀を振る暇はない。紅丸は女の手首をつかんで捻り上げた。匕首を奪って突きとばす。女は武器を失っても怯まなかった。正面からつかみかかろうとする。まるで狂った獣のようだ。紅丸は女の腕を避け続けた。

「やめろ。刀もないのに無理だ」

「うるさい! あたしのたった一人の弟を……! 殺してやる!」

「与太郎のことは、」

 その先がない。直接殺したのは自分ではない。しかし、それがなんだというのだろう。

熱くてぶよぶよしたものに首を絞められるようだった。女の目には憎悪の色しかないのに、その頬は涙で濡れている。その光景が、たまらなく苦しかった。戦いたくなかった。けれど、女は向かってきた。紅丸は胸の痛みを呑み込み、女の腕を引いた。体勢を崩したところを蹴りとばすと、やわらかい体は地面で二度跳ね、木の根元に転がった。

「退いてくれ。頼むから」

場所はあやまたなかった。肋骨の数本は折れただろう。女は紅丸の言葉が聞こえないのか、木にすがって立ち上がる。幹にもたれ、震える膝で体を支えている。髪を振り乱した様は夜叉のようだ。瞬きもせず、紅丸をにらみつけている。紅丸はどうしていいかわからず、立ち尽くしていた。

やがて、女はずるずると座り込んだ。もう、どこも見ていないようだった。心身ともに動ける状態ではないだろう。このまま諦めてくれることを祈りながら、紅丸は女に背を向けた。

急速に近づく足音にふり返る。

女の手から放たれた手裏剣は、ただよっているようにさえ見えた。

視界が黒く塗りつぶされる。

肉に食い込む嫌な音が三つ。

 甲高い女の笑い声が聞こえたと思ったら、ぶつりと切れた。

「……阿呆」

 自分を抱きしめていた伊都乃の腕がゆるむ。頽れる体を支えきれず、紅丸は膝をついた。伊都乃の背には棒手裏剣が二本刺さっている。もう一つの傷口から血が流れ、着物に染みて広がっていく。

目を上げると、女が死んでいた。伊都乃が投げ返したのだろう。大きく開いた口から棒手裏剣が突き出ていた。

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