第5話
息が白い。初めて呼気が凍るようになってから幾月かが過ぎ、その間に年も改まった。瀬戸内は温暖な地域だが、内陸の加賀谷領には雪が降る。紅丸はかんじきを履いて裏山にいた。うさぎの足跡が点々と続いている。彼らは賢い。わざと遠回りをして、巣穴の位置を捕食者から隠す。紅丸はそれにならい、行きつ戻りつしながら張り巡らせた鳴子を見て回った。
鳴るのは木の板ではなく、小さな鈴だ。見えない糸で木々をつないでいる。動物と人とでは鳴り方が違うのですぐにわかる。紅丸は説明を試みたが、仲間たちにはその違いがわからないらしい。元は板でもっと大きな音が鳴っていたが、判断のつかないものが風やら獣やらで始終鳴るのは混乱のもとなので、紅丸にしか聞こえない鈴になった。
切れた糸を張り替え、鈴がなくなっていないか確認する。範囲は狭いが、この季節は雪に足を取られるので大仕事だ。一巡りして城内に戻ると、朋輩の平次に呼び止められた。仁孝が探していると言う。紅丸は手足を拭いて書院へ向かった。
「仁孝さま」
「ああ、紅丸か。入れ入れ」
襖を開けると炭の燃える匂いが強くなった。白地に藍色で鳥と花が描かれた陶製の火鉢が置かれている。仁孝はこちらに背を向け、文机に向かっていた。錆色の丹前を肩にかけている。
「鳴子の手入れか? 異常はないか?」
紅丸が頷くと、仁孝はにこにこと笑って火鉢の傍を指した。自身も藁座ごと火鉢に寄る。炭が息をするように赤くなったり白くなったりしている。
「まんじゅうがある」
紅丸の大好物だ。
「皆にはないしょだ」
仁孝が取り出したまんじゅうは皮が厚く、表面にひびが入っていた。竹の串に刺し、火鉢にかざす。二つのまんじゅうが均等に焼けるよう、紅丸は炭の番をした。仁孝はじっとまんじゅうが焼けるのを待っている。話があるのだろうが、一向に口を開かない。
きつね色の焦げ目が広がり、甘い匂いが立ち上る。ないしょだという仁孝の言葉どおり、二人はひっそりとまんじゅうを食べた。中はまだ冷たかったけれど、この上なくおいしかった。
「証拠は隠滅せねば」
仁孝はそう言って串を折った。
「見つからないように捨てます」
「うん、そうしてくれ」
笑い合う。
「伊都乃とは、まだ話しておらぬのか?」
笑みはそのまま、仁孝は耳の痛いことを言った。紅丸はうつむく。
「そうか」
あの夜から、伊都乃とは口をきいていない。江戸には二人で行った。しかし、行っただけだ。同じ宿に泊まりはしたが、伊都乃は逗留中ほとんど戻ってこなかった。まるで、少なくとも一人にはなっていないからいいだろうと言わんばかりの投げやりさだった。
帰国した後、二人は町中で囁かれていた噂から、江戸城の廓内に潜んで得たものまで、見聞きしたことはつぶさに報告した。重なっている部分もあったし、そうでない部分もあった。報告中、決して互いに目を合わせない二人を見ても、仁孝は咎めはしなかった。
「申し訳ありません」
もう、何度謝ったか知れない。仁孝の命に背いてしまった。任務は果たしたが、ひとりになってしまった。
「よい。お前たちの喧嘩は今に始まったことではないしな」
「いえ、いつもと違うんです。たぶん、もう、ふたりではいられない」
命を奪うことで、自分を形作る何かが薄れていく感覚は、伊都乃には伝わらない。紅丸には恐ろしいほど鮮明に感じられるのだけれど、どんなにいっしょにいても共有できない。反対に、紅丸は伊都乃が言うことに納得がいかない。根本的なところが違いすぎる。最初から、合うはずがなかったのだ。
「どうして伊都乃なんですか? 弥助や平次ではダメなんですか?」
「そうさなあ」
仁孝はあぐらをかいた膝に肘をつき、掌(たなごころ)に頭をあずけた。空いた手は火箸で灰を遊んでいる。
「弥助や平次とならば、お前はうまくやるだろう。伊都乃も、うまくやるだろう。だが、それはそれこれはこれだ」
「違うんですか?」
「大いに違う」
「何が違うんですか?」
仁孝は笑うばかりで答えない。炭がぱちりと鳴って崩れる。冬になるごとに不思議に思う。炭はどうして燃えると白くなるのだろう。炭の黒い部分はどこへ行ってしまうのだろう。
「ときに紅丸。なぜ伊都乃がお前を抱くか知っているか?」
体中の血液が一気に顔に集まった。
「し、知りません!」
「聞いてみるといい。なかなか面白い答えだった」
「仁孝さまはご存じなのですか?」
「気になってなあ。そういうことに首を突っ込むのはどうかと思いながら、つい聞いてしまった。あ、先に言っておくが、教えないぞ。これは直に聞かねば意味がない」
きっと大した理由はないだろう。子どもができないから後腐れがないとか、すぐ近くにいるとか、そんなところだ。
「お前たち二人がふたりでいることに意味がある。その方が収まりがいい」
「ちっとも収まってない気がします」
「今は、な」
今は? では、この先は? 先などあるのだろうか。
「おれは、伊都乃と同じようにはできません。人を殺すのはいやです」
殺せば、己を形成する何かが薄れていく。虚ろはじきに全身に広がり、やがて死に至る。
お前が殺さないからだと伊都乃は言った。だから、殺すのだと。
「おれができない分、伊都乃がしているのはわかってるんです。本当はそんなことさせたくない。させたくないけど」
仁孝の配下の中で、人を殺したことがないのは紅丸だけだ。皆ができるのに、自分だけできない。ずっと目を背けてきた。心のどこかで負い目を感じていたけれど、見て見ぬふりを続けてきた。仁孝に咎められないのをいいことに、甘えてきた。
「仁孝さま、おれはどうすればいいんですか?」
「どうもしなくていい。紅丸は今のままでよい」
「今のままって、おれ、本当は役に立ってないんじゃ」
喉が詰まって苦しい。なぜふたりでなければならないのだろう。なぜ伊都乃でなければならないのだろう。仁孝は何をさせようとしているのだろう。もし暗に、伊都乃と共にいることで、殺すことを覚えろと言われているのだとしたら。
仁孝はほほえんでいる。灰遊びをやめ、傾いていた上体をのばした。
「誰がお前が役立たずなどと言った?」
誰も言っていない。けれど、言っていないだけかもしれない。
「なあ、紅丸。伊都乃に狙われた私を助けてくれたのは誰だ? いち早く伊都乃の侵入を悟り、私のもとへ駆けつけてくれたのは? お前は私の命を救ってくれた。そればかりか、お前が伊都乃を殺さなかったおかげで、私はあの得難い男を得た。お前が仮に伊都乃と同じであったなら、それは叶わなかった」
「それは、そうかもしれませんけど。でも」
「紅丸は紅丸のままでよい。同じく、伊都乃は伊都乃のままでよい。人の生き様に良し悪しなぞあるものか」
「そうなんですか?」
「そうとも。お前たち二人が二様だから、ふたりでいろと言うのだ。二人とも同じなら、そんなことは言わん」
自分は間違っていないらしい。
伊都乃も間違っていないらしい。
二人とも間違っていないのに、どうしてふたりでいられないのだろう。
「それとも、私の采配が不服か?」
「滅相もない!」
「では、ふたりでいなさい。じきにわかる。きっとだ」
仁孝は厚みのある声でゆっくりと言った。紅丸はうなずき、叩頭した。
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