第4話
翌日も翌々日も太陽は出なかった。暗くなるのが早く、遅くまでは歩けない。予定よりも手前の宿場に留まるしかなかった。雨は降りそうで降らず、湿った空気だけが重苦しい。道中、紅丸は背後の伊都乃が気になって仕方がなかった。昨夜の会話がずっと引っかかっている。
与太郎が普通の子どもでないことは、紅丸も理解している。けれど、彼が嘘をついている証拠はない。敵かもしれないというだけで殺そうとするのは間違っていると思う。たとえ敵でも、人を殺すことは嫌いだ。まして、こんな小さな子――
「兄ちゃん、どうした? 腹でも痛いのか?」
「大丈夫だ。与太郎は優しいな」
「よせよ。ほめたってなんにも出ないぜ。それより、今日はもう桑名に着くよな? 今夜はいっしょに姉ちゃんちに泊まろう。きっとうまいものいっぱい作ってくれるからさ」
「急に行ったら姉者が困るんじゃないか?」
「平気平気。姉ちゃんはそんなこと気にしないよ」
「駄目だ」
与太郎の笑顔は硬い声に弾かれた。伊都乃の表情に変化はないが、紅丸には彼が薄い膜で覆ったものが見えた。
「じゃあ、イツノはよそに行けよ。紅丸兄ちゃんだけ来ればいい」
与太郎は伊都乃にあかんべえをして、紅丸の手を握った。かさかさとたこが当たる。ざわざわと胸が鳴る。ほとんど聞こえない足音が紅丸の頭の中を踏み荒らす。
与太郎に悪意があるならば、ついていくのは危険だ。こちらの身も危ないし、伊都乃がその気になったら与太郎もその家族も殺されるだろう。
では、自分一人ならば?
『ひとりになるな』
初めて仁孝にそう言われたとき、紅丸は始終共にいなければならないと思い、女を買いに行きたい伊都乃と喧嘩をした。二人で仁孝に訴えると、彼は薄い頭をかいて苦笑した。そういう意味ではなかったのだがなあ、などと言う。例によって伊都乃がどういう意味かと詰め寄ったが、加賀谷の差配はにやにや笑うばかりで答えなかった。
以来、伊都乃は一人でふらりと消えるようになり、紅丸は心の底でもどかしさを抱えたまま彼の帰りを待つ。二人で別々の場所を偵察に行くこともある。数日経って落ち合うこともある。仁孝はそれを咎めない。
仁孝の「ひとり」は水に浮く菜種のようだ。
「なあ、いいだろ?」
どうあれば「ひとり」で、どうあれば「ふたり」なのだろう。
「ごめんな。今日はいっしょに行けない」
「どうして? イツノなんか放っておけよ」
どうしてかはわからないけれど、今夜離れたら「ひとり」になってしまう気がした。伊都乃も同じことを考えたのだろうか。
食い下がる与太郎をやんわりと制し、代わりに出立前に会う約束をした。与太郎は不服そうだ。むっつりと黙り込んでしまう。桑名に着き、夕餉だけでもと誘う与太郎と別れた。宿場の外縁からさらに離れた木賃宿に入ったが、一刻ほどで出る。宿の主には迷惑料として金を握らせ、先へ向かうと嘘を教えた。
「本当に先へ行くのか?」
「いや、どうなるか見届けてからだ」
つまり、動いた者をすべて殺すということだ。そんなことをするくらいなら桑名を出ようと言ったが、伊都乃は聞き入れなかった。
「嫌なら俺一人で残る。どこで落ち合う?」
これも駄目だ。「ひとり」になってしまう。紅丸は首を振った。
比較的大きな宿にしたのは、他の客に紛れて場所を特定されないようにという伊都乃の案だ。宿の二階に通され、笈を下ろす。伊都乃は出かけるつもりがないらしく、窓の外を眺めている。鋭利な月が沈もうとしていた。階下から歌い騒ぐ声が聞こえる。
膳を運んできた飯盛り女はしきりに伊都乃に秋波を送ったが、彼は見向きもしなかった。わざとらしく見え隠れする太腿にも興味がないらしい。
「おい」
「あい。なんでしょう?」
「白湯が欲しい」
やっと声をかけられたらこれで、女はそばかすだらけの頬を膨らませた。持ってきた湯呑みを派手な音を立てて置く。中身は熱湯だった。
「何がおかしい?」
伊都乃は湯を吹き冷ましている。
「つれなくするからだ」
「これ見よがしな女は好きじゃない。選ぶのは俺だ。選べと迫られては立つものも立たない」
「天邪鬼だな、伊都乃は。おれは求められたらうれしいけどなあ」
「誘っているのか?」
「なにが?」
聞き返すと、伊都乃は眉を寄せた。ふい、と横を向いてしまう。なんなのだろう。紅丸は小首を傾げた。
二人が宿を出たのは子の刻を過ぎてからだった。忍装束に替え、闇を縫って木賃宿を目指す。しばしば足を止めて周囲を探ったが、針が落ちても気づくような静寂が広がっているばかりだった。
本当は行きたくない。何事もないと信じたかったし、仮に何事かあっても別の場所でやり過ごしたかった。伊都乃は刀を背負っている。その痩身のあちこちに火と鉄の気配を感じる。紅丸は憂鬱だった。
紅丸と伊都乃は宿から数十間離れた草むらに身を潜めた。息を殺し、待つ。時折空に目をやり、時間を計る。ねっとりと滑らかな夜に浮かぶ星々は瞬くばかりで動かない。紅丸は一呼吸でも早く朝を願った。
半刻、一刻、一刻半――
(……来ないんじゃないか?)
(判じるのは夜が明けてからだ)
伊都乃の早口が終わるか終らないかのうちに、紅丸の耳はかすかな音をとらえた。この夜でなければ聞こえなかっただろう。耳に馴染んだ忍の足音。着地の瞬間をそろえており、数がわからない。紅丸の緊張が伝わったのか、伊都乃がさらに身を低くした。もはや声も出さず、紅丸の手の甲に方角を聞く。紅丸は伊都乃の掌に南と書いた。
足音が止まる。屋根がわずかに鳴る。二階の窓を通ったらしい。しばらくして、表のつっかえ棒が外された。木戸が桟に引っかかりながら開く。裏口も開いただろう。細い呻き声に全身の産毛が立った。
飛び出そうとした伊都乃の腕をつかんだのは反射だ。多分、彼がそれを振りほどいたのも反射だっただろう。伊都乃を追いかける。宿の中にいた影たちは紅丸と伊都乃に気づき、一様に身構えた。無言で切りかかってくる。伊都乃は屋内に入ろうとしなかった。紅丸は伊都乃と背中を合わせ、駆けてきた一人の刀をかわした。鳩尾にかかとをめりこませる。
鉄のぶつかる音がする。断末魔が上がった。
「伏せろ」
伊都乃の指示通り身をかがめると、頭上を手裏剣が抜けていった。
「少し稼げ」
伊都乃と場所を入れ替わる。宿の中にはまだ四人いた。これだけ騒いでも、板の間に敷かれたむしろや寝藁は丸く盛り上がったままだ。伊都乃が斬った敵は土間の隅からこちらを見ている。口の中が酸っぱくなった。
上段からの刃を逆手に持った短刀で受け流す。全員を相手にしなくていいよう、戸口の近くに陣取った。突き出された刀を避け、手首を蹴り上げる。白銀が星明りにきらめいて舞った。相手の肩に手をついて跳躍する。こめかみに膝を入れると、敵は一言もなく地に伏した。
宿の奥から凄まじい悲鳴が聞こえた。炎が上がり、二つの影を背後から照らし出す。一人がふり返ったところを、伊都乃が袈裟懸けに斬りおろした。返す刀でもう一人の顎を割る。動くものがなくなっても、伊都乃は足を止めなかった。
「伊都乃! ダメだ!」
紅丸を突き飛ばし、気絶している敵の首に刃を走らせる。先に倒した見張りにも、同様だった。血が噴き出し、肉が痙攣する。紅丸は顔を背けた。
「最初に中に五人、外に一人。外のはこいつか。一人は土間で斬った。一人は裏から回ろうとしていたところを鉢合わせた。数は合う」
敵の着物で血のりをざっと拭い、伊都乃は刀を収めた。
「動けなくしておいたじゃないか。殺さなくてもよかっただろ」
「目を覚ませば追ってくる。当然の処置だ」
「伊都乃は間違ってる」
胸倉をつかまれ、引き寄せられる。真昼でも深く黒い瞳は奈落のようだ。紅丸は負けるものかと伊都乃を見据えた。奪わなくていい命を奪うことが正しいとは、どうしても思えない。
不意に口を塞がれた。舌が歯列を割って入りこんでくる。腰を強く引き寄せられて押し返せない。そればかりか、上顎を舐められると背筋がぞわぞわとして力が抜けてしまう。
「やっ……ぁ」
腰に回っていた手がするりと下がって尻の肉をつかむ。紅丸は狼狽した。渾身の力で暴れて伊都乃から逃れる。何がなんだかわからず、紅丸はしきりに手の甲で口を拭った。敵と戦っても乱れなかった呼吸が跳ねる。
「なんなんだよ!」
伊都乃は紅丸を見ていない。
「いきなり、こんな……」
ようやく、紅丸の耳にもおかしな息遣いが聞こえた。
京の女郎屋と同じ手口だと気づいたときには、伊都乃は駆け出していた。一瞬遅れて追いかける。草むらから飛び出した影は背中を無防備にさらしていた。紅丸が邪魔をしなかったら、伊都乃の手裏剣はその小さな背に食い込んでいただろう。
投擲は脚をかすめ、影は道端に転がった。振り向き、尻もちをついたまま後じさりする。脚から血を流し、目を見開き、肩で息をしている与太郎に、伊都乃はゆっくりと歩み寄った。背の刀が音もなく抜かれる。
「やめろ! 与太郎、逃げろ!」
紅丸は伊都乃の腕にしがみついた。
「阿呆! どうしてここまで来て理解しない!」
「逃げろ!」
与太郎は動かない。紅丸は伊都乃の手首を締め上げた。
「早く!」
「放せ!」
伊都乃の手が痙攣する。刀が落ち、地に刺さる。紅丸がほっとした瞬間、伊都乃の抵抗がゆるんだ。訝しむ間もない。紅丸を引きはがそうとしていた伊都乃の手が振り下ろされていた。
乾いた音が立つ。まだ喉仏もない首に、棒手裏剣が深々と突き刺さっていた。駆け寄って抱き起こすと、頭がぐにゃりと傾く。半開きになった口からは血の泡があふれ、空気を求める舌がはみ出している。よほど怖かったのだろう。与太郎は失禁していた。
「行くぞ」
伊都乃は落ちた刀を振って土を払い、再び鞘に収めた。
「子どもなんだぞ」
紅丸は与太郎を地面に寝かせ、温かい瞼を下ろしてやった。
「餓鬼だろうと忍は忍だ」
「だからって、どうして……どうして、こんな惨いことができるんだ?」
先ほども、今も、みんな無抵抗だった。とどめを刺さなくてもよかったはずだ。与太郎を気絶させて、今すぐにここを発てばいい。追手がつくなら山道に入って巻けばいい。
「それを俺に言わせるのか?」
果てしなく平坦な声は、断絶の予兆なのだろう。本当は聞きたくない。けれど、もうふたりではいられない。今まで何度も同じ思いをして、そのたび懸命にがんばってきたけれど、限界だ。
「お前が殺さないからだ」
そのとき確かに何かが壊れる音を聞いたのに、紅丸は何が壊れたかわからなかった。
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