第3話

 数日の間、よく晴れた。

 立ち寄った茶屋で馬の仲介人に出会った。鹿毛の仔馬を一頭つれている。大坂の商人へ届けるようだ。最終的には「やんごとない方」のものになると言う。仔馬は人に馴れており、与太郎の手を分厚い舌で舐めていた。仲介人は咎めもせず、甘酒をすすっている。

「どこぞのお屋敷のお子に献上するんだとよ。子ども怖がるようじゃ用が足りねぇ。構やしねぇさ」

「いい毛並みだな」

「お、わかるか? 最近は荷運び用の駄馬ばっかでよ。久々にいい馬っ子つれてると気分がいい」

 こうした会話をするのは伊都乃の役だ。彼は相手を饒舌にさせるのが上手い。

「嘘をつけ。いつもああいうのを連れているんだろう?」

「ないない。大口の客も減ったし、商売あがったりだ」

「戦もないしな。潰れなければ馬もいらないか」

「それよ、それ。あいつみてぇに毛並みのいい奴は公家やら武家やらに行くさ。これは結構儲かる。けど、一頭二頭の話よ。戦の前みてぇになんでもいいからたくさんってことはもうねぇな」

 馬、米、武器などを買い集めれば戦の支度を疑われる。将軍家に目をつけられれば改易の恐れもある。買いたくてもできないのか。あるいはその必要がないのか。紅丸は二人の会話を頭に叩きこむ。

京・大坂を離れれば豊臣の名を聞くことは少なくなると思っていたが、徳川の話も聞こえてこない。いい世だということだろうか。民が為政者の名を叫ぶときは現状に不満がある証だと、仁孝が言っていた。

「兄ちゃん、あいつ人懐こいんだぜ。すげぇ舐められた」

 与太郎は頬を紅潮させて戻ってきた。まんなかに丸く小さなたこがある掌は、馬の涎まみれだ。与太郎は着物で手を拭き、残っていた餅を頬張った。

 次の宿場に着くと、伊都乃はどこかへ行ってしまった。恐らく、偵察に出たのだろう。紅丸は与太郎といっしょに町の中を見物した。巷の雰囲気や噂からも拾うことは多々ある。

「イツノ戻ってこないな。急にいなくなるなんて、用心棒失格じゃねぇか」

「女につかまったんじゃないかな。町の中はそんなに危なくないから、大丈夫だよ」

「兄ちゃんはやさしすぎる。人生損するぜ」

 与太郎が真剣な顔で言うのがおかしかった。これまでの人生で損をしたと思ったことはない。気づいていないだけかもしれないけれど、それはそれで幸せなことだと思う。

 客は紅丸と与太郎だけだった。宿の親父が作ってくれた雑炊をすすり、二人で一つの寝藁にくるまった。今日はことさら冷えるので、与太郎の体温がうれしい。

表で野犬が唸っている。風が戸板の隙間を吹き抜ける。不審な気配は感じられなかったが、安心はできない。紅丸は五感を張り巡らせたまま眠りについた。

久しぶりに夢を見た。夢の中で、紅丸と与太郎は兄弟のようだった。覚えていることはそれだけだ。

口笛で目を開ける。いつの間にか抱きついてきていた与太郎をすり抜け、紅丸はしなやかに起き上がった。

伊都乃は宿の裏にいた。

「何かあったのか?」

 月は細く、星の方が明るかった。伊都乃は半ば闇に溶け込んでいる。端正な顔には、なんの表情も浮かんでいない。

「あの餓鬼、やはり怪しい」

「どうして? ただの」

「ただの子どもだと、本当に思っているか?」

 伊都乃は髪を結んでいなかった。長い黒髪が夜風に吹かれて銀色の筋を引く。紅丸は答えられなかった。確かに、不思議に思うことはいくつかある。

「お前と始終しゃべりながら歩いて息切れもしない。巾着に入れている銭の音をさせずにとび跳ねる」

 最初についてきたときはよく聞こえた足音が、並んで歩いていると静かになる。それから、掌のたこ。紅丸にも覚えがある。昔、自分にもあった。あれは棒手裏剣の練習でできる。

「何より、かすみが鳴いた」

「それはそうだけど」

「おかしな素振りを見せたら斬る。邪魔はするな」

 底冷えのする声にうなじの産毛がぞわりと逆立つ。彼はいつもそうだ。平然と殺意を口にする。そして、平然と実行する。

「でも、敵じゃないかもしれない」

「お前が敵と思っていなくても、向こうが敵と思えば殺しにくるぞ」

「わかってる」

 わかっているのだ。

「わかっているならつべこべ言うな」

「けど、」

 指先が冷たくなっていくのは、気温のせいばかりではない。

「いやなんだ」

 伊都乃は呆れたように息を吐いた。

「また希薄の話か?」

 紅丸は奥歯を噛んだ。

 人を殺すと何かが薄まっていく気がする。何とは言えない。何か、自分を成す小さな単位が失われていくように思える。殺すたびに内側から空っぽになっていって、ついには自分も死んでしまう気がする。

「その妙な思い込みをなんとかしろ。鬱陶しい」

いつからこんなに人殺しを忌避するようになったかはわからない。ただ、どうしようもなく嫌だと思う。伊都乃が人を殺すことも嫌いだ。そのうち、伊都乃が薄れて死んでしまう気がする。

誰も紅丸に人を殺せと言わなかったし、殺し方を教えもしなかった。師も、それから仁孝もだ。

『あるがままにせよ。人はいずれ死ぬ』

 人を殺めることについて尋ねたときの師の言葉だ。皆等しく死ぬのならば、殺さなくてもいいはずだ。そう主張すると、伊都乃は、ならば殺しても構わないはずだと返す。それから必ず、殺さなければ殺されると言う。そんなことはない。殺さなくても殺されずにいることはできる。けれど、殺せば薄まる。それからは逃げられない。

やり取りは毎回同じところを巡り、紅丸の語彙が尽きるか伊都乃が飽きるかしてうやむやになる。ずっとそうだ。水車のようにどこにも行けない。

「言いたいことは言った。俺は俺の好きにする」

 伊都乃は紅丸に背を向け、音もなく去った。冷たく冴えた夜の片隅で、紅丸は揺らぐ地面を見つめていた。

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