第2話
紅丸と伊都乃は京の市中を歩いていた。紅丸は笠をかぶり、笈を背負っている。草色の小袖に薄墨の四幅袴を履いて脚絆を締めている。伊都乃は濃い茶色のたっつけ袴に紺鼠の小袖を着ている。刀は忍のものとわからないよう、布でくるんで手に持っていた。
ここから賀茂川沿いの道へ出て、京の七口の一つ、粟田口へ向かう。早飛脚の声が飛んだので、道を譲った。
空は高く、抜けるように透明だった。秋晴れのいい日だ。束の間、伊都乃の鷹が日の光を遮る。名をかすみといい、放っておいてもきちんと主についてくる。伊都乃曰く、今まで寝たどの女よりも賢いらしい。
(追手がかかると思ったが、来ない)
三条大橋に差し掛かったとき、伊都乃が紅丸だけに聞こえる声でつぶやいた。紅丸は笠を上げ、五寸ばかり上の伊都乃を見る。
(やっぱり徳川じゃなかったんだな)
(大坂方でも死人が出れば追うだろう)
(伊都乃、また毒ぬったのか?)
伊都乃は答えず口角を上げた。彼は毒や火薬に精通している。幼い頃から様々な毒を飲み続けており、耐性もある。それはそれとして、追い返せばすむものまで殺すのはいただけない。
(毒なんかぬらなくても追い払えただろ?)
(生憎と塗っていないものがない)
ああ言えばこう言う。
伊都乃は敵対するものはすべて殺せばいいと思っている。抜け忍として追われる身がそうさせるのだろう。子どもの頃に教え込まれたことを頑なに信じている節もある。それにしても苦いものを感じずにはいられない。
伊都乃の殺意はまっすぐだ。迷いもためらいもない。故に、殺すと決めたら速い。向けられたことがあるから、よくわかる。
伊都乃はかつて徳川の伊賀組に属していた。頭は服部家の姓を持っていたが、伊都乃曰く、機を見るに鈍く腕もいまいちだったらしい。仁孝暗殺に関して意見が合わなかったことが決定打で、伊都乃は徳川から抜けた。
単身仁孝を狙った彼を撃退したのは紅丸だ。取り押さえられた伊都乃は殺せと叫んだけれど、紅丸は殺したくなかった。仁孝が好きにしていいと許可をくれたので、あのときも長かった髪を切って解放した。それがどうも気に入らなかったらしい。恨まれ、絡まれているところを仁孝が面白がって配下に加え、今に至る。もはや腐れ縁だ。
「伊都乃はやりすぎなんだ」
紅丸は人を殺めたことがない。
「毒か? あっちのことか?」
平然と嘯く。にらみつけても、にやりと笑うだけだ。
「腰が立たないなら、おぶってやろうか?」
初めてして立てなくなったときのことをまだからかう。もう何年も経ったのに、底意地が悪い。
伊都乃のことは嫌いではないけれど、すぐに殺そうとするところや、ちょっとしたことで揚げ足を取るところは好きになれない。年が近いからよく話すし、こうして二人いっしょに任務を受けることも多いが、仁孝に釘を刺される程度には喧嘩をする。口では伊都乃に敵わないから、紅丸は負ける前に黙ることにした。伊都乃は鼻白んだようだ。会話が途切れた。
川沿いの道に出ると、伊都乃は指笛を吹いた。かすみが先行し、二人は歩調をゆるめる。賀茂川は浅く、底が透けて見えた。河原には見世物小屋が建ち、人だかりができている。見物客を目当てに水商売の女たちが集まり、乞食が寄ってくる。大坂とはまた違った風景だ。淀川は広く深く、船の行き来が盛んだった。
「下りるか?」
紅丸が問うと、伊都乃は首を振った。三条河原は伊都乃の兄弟子が釜煎りになったところだ。
さらさらと川のせせらぎが耳を打つ。長月も半ばになれば寒々しいが、夏場はさぞ心地がいいだろう。供を連れた商人が足早に歩いていく。人足が二人がかりで荷駄を運んでいる。
「異常なしだ」
伊都乃が低く告げる。見上げると、かすみが戻っていた。粟田口が見えてくる。そこを抜けると三条大橋に至り、その先は東海道だ。
粟田口には番人が一人立っていた。手にした棒もななめならば、自身もななめになっており、大きなあくびまでしている。紅丸と伊都乃は咎められることなく粟田口を抜けた。大きく弧を描いた橋を渡る。
伊都乃が指笛を吹き、かすみの影が遠ざかる。本当によくできた鷹だ。雛から育てたらしい。紅丸も動物を手なずけることには長けているが、それはあくまで友のようなもので、使役することはできない。
紅丸は加賀谷領の国境近くの小さな村に生まれた。母は早くに亡くなったので、父と姉と三人で畑を耕し、山に入っては柴を刈ったり山菜を取ったりして生きていた。
山には一人の修験者が住み着いており、彼の周囲にはいつも鹿やうさぎが集まっていた。それがうらやましくて足繁く通ううち、紅丸はとうとう弟子になった。体術を始め様々なことを習ったが、修験者はある日煙のように消えてしまい、二度と会えなかった。
彼が教えてくれたことの大半が忍の技だと知ったのは、仁孝に仕えるようになってからだ。伊都乃に言わせるとあちこちの流派が混ざっているらしい。彼はまれにあの技はなんという流派で、その技はどこそこの流れを汲んでいてなどと講釈を始めるが、紅丸にはなんのことだかさっぱりわからなかった。
しばらく歩いていると、濡れた玉を磨くような声が聞こえ、紅丸と伊都乃はそろって頭上を仰いだ。
(後ろだ)
紅丸はうなずいた。耳をすませると、不自然な足音がついてきていた。街道筋は人通りが多いが、集中すれば聞き分けられる。音の間隔が狭いので、小柄な人物だろう。小走りになったりゆっくりになったりする。
(変な歩き方だ)
普通の旅人ならば、自身にほどよい速度を保って歩くはずだ。
(忍ではないのか?)
(たぶん)
忍者ならばなるべく周囲に溶け込もうとするだろう。
(おれたちには関係ないかもしれない)
(だが、かすみが鳴いた)
それが気にかかる。二人は顔を見合わせた。
「餅でも食うか」
伊都乃は茶店を指した。やり過ごそうというのだろう。二人が店の中に入ると、足音が止まった。すぐ後から浪人風の男が入ってきたが、足音が止まる方がわずかに早かった。
「焼き餅と茶二つずつ」
「はいな」
紅丸と伊都乃はそろって表に面した長椅子に腰かけた。奥の囲炉裏では、串に刺した団子を焼いている。ふっくらとした唇の娘は、頬を染めて着物の裾を気にしていた。紅丸は背中の笈を下ろして笠をかぶせ、浪人を観察している伊都乃の袖を引いた。
(違う。外にいる)
(動いていないのか?)
(止まってそれっきりだ)
「お待たせしました」
娘が湯呑みと皿を運んできた。伊都乃にちらちらと視線を送るが、彼は見向きもしない。
駕籠かきが調子はずれな歌を口ずさみながら通っていく。紅丸は餅を頬張った。あの妙な足音は聞こえない。聞こえるものは、すべてあれより歩幅が大きい。
(行ったか?)
問われたが、口が餅でいっぱいだったので、紅丸は首を振った。伊都乃は眉を寄せ、ついでに皿も紅丸に寄せる。遠慮なくもらった。
勘定をすませて外へ出ると、小さな影が茶屋の脇へ飛び込んだ。歩き出した伊都乃の手は刀の袋にかかっている。
「伊都乃」
たしなめたが、彼は聞こえないふりをした。妙な足音はついてくる。
松並木が風景にしまを描く。枯れかけた草に混じって萩や
(巻くのか?)
問いかけたが、答えない。速度を合わせてついていく。伊都乃は峠を越えて少し行ったところで道の脇に身をかがめた。件の足音は走ってついてきた。荒い息遣いも聞こえる。人影が峠に現れた瞬間、伊都乃は地を蹴っていた。速い。足音は慌てて踵を返したが、長い腕に襟首を捕らえられた。
「なんだよ! 放せよ!」
まだ子どもだ。年は十に満たないだろう。髪を茶筅に結っている。瘦せぎすで、膝の骨が突き出ていた。亀甲模様が入ったぶかぶかの着物をからげている。笠も草鞋も大きすぎる。背負った行李が重そうだ。
「小僧、何者だ? なぜ俺たちをつけてくる?」
「小僧じゃねぇ! 与太郎だ! 放せってば!」
伊都乃の睥睨を受けても、子どもは怯まなかった。なんとか逃れようともがいている。
「こそこそついてくる奴の名は聞きたくない。答えろ」
子どもは頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いた。伊都乃の空気が凍る。紅丸は二人の会話に割って入った。
「なあ、教えてくれないか? そうしたら放すから」
「勝手なことを言うな」
子どもはじっと紅丸を見ている。紅丸もじっと子どもを見つめる。心を空っぽにする。リスやタヌキに対するのと同じだ。
「連れがほしかったんだ」
ぽつりと言う。
「与太郎は一人なのか?」
紅丸が問うと、生意気そうな釣り目が人懐こくきらめいた。
「うん。旦那さまは、店の奴らは忙しいからいっしょに行けないって言うんだ。おいらが邪魔だから、旅先で死ねばいいと思ってる。路銀だってほんのちょっとしかくれなかった」
見たところ、丁稚のようだ。身につけたものが大きいのも、お仕着せなのだろう。
「桑名の姉ちゃんに会いに行くんだ。けど、一人じゃ追いはぎにあったらひとたまりもねぇ。兄ちゃんたち、薬屋のお使いと用心棒だろ? おいらの目はごまかせないぜ。兄ちゃんたちにくっついてったら、こわい奴らが出てきても大丈夫だと思ったんだ」
薬屋というのは、紅丸の笈を見て言っているのだろう。確かに紅丸は薬種問屋の売り子を装っている。引きだしはいくつかが二重底になっており、火薬や毒薬など、伊都乃の武器も入っている。
伊都乃の用心棒は刀からの連想だろうが、彼は特に装っているわけではない。人によっては武芸者と見るだろうし、若い藩士が使い走りにされているとも見るだろう。口が上手いので、如何様にも切り抜けられる。
「言ったろ? 放せよ」
与太郎は首を回して伊都乃を見上げた。伊都乃は紅丸をにらみ、手を離した。与太郎はあかんべえをし、一人前の顔で襟を直す。
「なあ、兄ちゃんたちはどこまで行くんだ? 桑名までじゃなくてもいいんだ。いっしょに行ってくれよ」
「断る。俺たちは遊山に行くのではない。足手まといだ」
「じゃあ、いいよ。後ろからついてく」
「うっとうしい。消えろ」
伊都乃の言い分は、もっともだ。子どもの足に合わせていたら江戸に着くのが遅れるだろう。しかし、与太郎は放っておいたら本当についてきそうだ。
「いいじゃないか。与太郎、いっしょに行こう」
「やった!」
「おい、本気か?」
「桑名から急げばいいだろ」
どのみち、街道を行く以上は忍の速さで動けない。他の旅人と違う歩き方をしては目立ってしまう。
(阿呆! こんな得体の知れない餓鬼を拾ってどうする!)
(放っておいてもついてくるんだろ。それならいっしょに行った方がいい)
背後を気にしながら歩くのは神経を使うし、子どもがいた方が駅や宿場で役人に目をつけられたときに、言い訳がしやすい。何より、紅丸はたった一人で放り出されたこの子が不憫だった。姉に会いたい気持ちもよくわかる。
「兄ちゃんたち何にらみあってるんだ? 早く行こうぜ」
与太郎はぴょんぴょん跳ねながら歩き出す。
「ただの子どもだよ」
紅丸は目に角を立てる伊都乃にそう言って、与太郎を追いかけた。坂を下り、また平坦な道に戻る。伊都乃は距離を取って後方にいる。与太郎は思ったよりも足が速かった。大人ほどではないが、同じくらいの年の子どもよりはずっと歩ける。この分であれば大した遅れにもならず桑名に着けるだろう。
名前を聞かれたので、正直に告げた。行き先までは教えることができず、適当に沼津とした。贔屓の薬屋に珍しい薬草を届けに行くのだと。
「イツノ? 変な名前。女みたいだ」
子どもは正直すぎる。伊都乃ににらみつけられても、与太郎はけろりとしている。
与太郎は山奥の寒村で生まれ、口減らしのために京の乾物屋へ奉公に出された。年の離れた姉が働いており、その口利きだったらしい。姉は店と取引のある桑名の乾物屋の使用人に嫁いでいるそうだ。
「姉ちゃんはすごくやさしいんだ。おいらが失敗するといっしょに謝ってくれたし、飯のときにはいつも自分の漬物一個くれるんだ」
「姉者が嫁いだときはさびしかっただろ?」
「うん。でも、姉ちゃんが幸せになったんだから、おいらはがまんしなきゃ」
「そうか。与太郎はえらいな」
そう言うと、与太郎は得意げに笑った。
加賀谷の城下へ移るとき、紅丸は姉と離れるのがさびしかった。物心つくかつかないかで母を亡くした紅丸にとって、姉が母親代わりだった。紅丸が家を出てから父が亡くなり、姉は婿を取った。それはとてもめでたいことだったのに、紅丸は離れるときと同じさびしさを感じた。今頃どうしているだろう。今年の盆は帰れなかった。暮れには一度帰りたい。父の墓参りもしなければならない。
日が傾きはじめ、風が冷たくなってくる。与太郎がいては夜の旅はできないので、手近な宿場に泊まることにした。町の外れの木賃宿に空きがあり、ちょうど他の客の米を煮るところだと言うので、大層腰の曲がった老婆に三人分の米をわたした。
「どうしてこいつの分まで俺たちが忖度しなければならない」
「だって、持ってないって言うから」
「持っていないなら食わなければいい」
「そんな風に言うなよ。与太郎、気にしなくていいからな」
「うん、でも金は払うよ。姉ちゃんがいたらそうしろって言うから」
与太郎は行李の中から薄汚れた巾着を取り出し、鐚銭を何枚か取った。断ってもよかったが、男が出すと言っているものを無理に押しとどめることもないだろう。それに、受け取らなければ伊都乃が余計に怒るかもしれない。しかし、銭を受け取っても伊都乃の機嫌はなおらなかった。
何が気に入らないのだろう。少なくとも米が減ることを怒っているのではないから、やはり与太郎がいっしょにいることが面白くないのだろう。黙々と粥をすすっている。老婆が必要もなく囲炉裏をかき混ぜながら見つめていることにも、相客の娘が目元を染めていることにも無反応だ。
「紅丸兄ちゃん」
「ん?」
「イツノはもてるんだな」
そのくせ、与太郎がちょっと小声で話すとにらみつける。子ども好きだとは思っていないが、そんなに嫌うことはないだろうに。
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