第6話:アンダーネットワールド

 9月19日。

 世田谷区下北沢。

 EMMBで、20号バイパスから環状七号線に降りると、すぐに木立に囲まれた広い敷地が目の前に拡がる。いろんな宗教施設の建物がその外側を囲むように立ち並んでいた。

 十数人の人間が歩いていた。多くは花束を持ち、学生服姿の若者もいれば、軍人、老人の姿もある。

 駐車場の端にバイクを停め、コントロールアームのロックをかけて降りる。

 僕は他の人とともに北門に向かって進んだ。

 傍らに花屋さんが何軒もあり、その店先には色とりどりの花が差してあった。その一軒に入り、いろんな種類の花が混ざった花束をひとつ買う。

 目の前には石造りの立派な門が立っている。

 2009年大震災の罹災者が眠る下北沢霊園の北門だ。

 東京と東海地方を中心に137万人以上が亡くなった09大震災は、それより以前の防災計画の想定をはるかに超えた大震災であった。

 地震そのものが、想定外だったといえる。


 2009年9月19日、午後7時20分、最初の大きな地震が起こった。この地震は単体の(という言い方が正しいのかはわからないが)ものではなく、複数の震源がほぼ同時に動いた地震だった。日向灘、高知県沖、紀州沖、伊勢湾沖、三河湾沖、遠州灘、駿河トラフ、伊豆半島、相模湾、東京湾口外、房総半島沖という、やや歪んではいるものの、おおよそ横一列に近い震源域を持ち、マグニチュードは9.2と、予想された東海地震や南海地震などよりもはるかに規模が大きかった。この震源域は、それぞれの震源でどういう関連があって、一斉に動いたのか、未だに良くわかってないらしい。プレート型の他に断層がずれたものもあった。それぞれの震源は他の震源とは微妙に位置も角度もずれているので、エネルギーがたまり、偶然に同時に起こったものか、少なくともどれかの地殻変動が他へ影響して短時間に連鎖反応的に起こったものと思われた。

 このとき、すでにP波を観測することによる予報システムは導入されていたが、この複雑な震源による最初の揺れが想定されていたものではなかったため、うまく機能しなかった。

 この1回目の地震、関東平野では相模湾を震源とするものの影響が大きく、神奈川県では山間部を除くほぼ全域で震度6強以上、小田原、鎌倉、横浜などは震度7、東京の23区が震度6弱~6強、多摩地方東部で震度5強~6弱。多摩地方西部全域で震度5弱~5強。千葉県の湾岸部で震度7、埼玉県の南部などで震度6弱という激しいものだった。建造物の倒壊や破損も多く、火災も発生した。特に横浜の被害は大きかった。

 他の地域では、揺れでの被害は静岡県がもっとも被害が大きく、静岡市や浜松市では古い建造物を中心に多数が倒壊、火災も各所で発生した。比較的揺れが大きかった名古屋市でも木造家屋の被害はかなりあったが、静岡ほどではなかった。大阪、四国や九州でも大きな揺れを観測した。

 地震の発生後、数分から1時間ほどで、大津波が襲来する。波高は平均8mで、紀伊半島や伊豆半島の一部などで30mを超えた。4日間に渡り、日本全沿岸部、太平洋岸各地に幾度も押し寄せ、海外でも死者が出ている。津波の被害は、都市部では高知市が全域で甚大な被害を受け、大小の河川が多い大阪市や名古屋市でも広範囲に浸水があった。静岡では海岸キワキワにあって設備の防災対策が遅れていた浜岡原発が冷却電源喪失によるメルトダウンを起こして放射性物質が漏れるなど深刻な被害を出している。房総半島や九州東部日向灘沿岸部、鹿島灘や福島などでも津波の被害があった。茨城県の東海原発、福島県の福島第一原発の古いタイプの原発も電源喪失によって暴走し、職員の必死の対応で格納容器の破壊は免れたものの、ベント放出と建屋崩壊で放射性物質が外部へ大量に漏れている。もし格納容器が破壊されてたら、日本の半分は全滅だったろう。それ以外の地域では船舶の被害が大きかったのを除けば、沿岸の家屋が破壊された程度で、事前想定に比べれば被害は小さかった。それでも津波だけで3万人以上の犠牲者を出している。


 問題は、このあとだ。


 1回目の地震からおよそ38分後、今度は東京直下を震源とするマグニチュード7.7の地震が起こった。1回目との関係は全く不明。しかし、活断層のズレであるのは間違いなく、その断層の一部は、すでに東京湾の海底調査で判明していたものだった。

 2回目の地震は、東京湾岸全体を大きく揺らしたものの、それ以外の地域との差は極端で、東京では、23区がほぼ全域で震度7に達したのに対し(板橋区など一部では震度6強)、多摩地区は三鷹などで震度6弱だった以外は、ほとんどが震度5弱~5強、高尾や奥多摩のあたりでは震度4程度だった。埼玉県もさいたま新都心では震度6弱だったが、他の地域は一部で震度5強だった以外、揺れは小さく、千葉県も沿岸部にある千葉市などで震度6弱(一部6強)だったが、あとは湾岸部全域で震度5弱~5強だった以外はほとんど揺れがなかった。神奈川県も同様である。

 この極端な2回連続の大地震で、もっとも深刻だったのは、どちらの地震でも揺れが激しかった東京都心だった。直後に「よりにもよって東京で集中的に揺れずとも、地方で分散して揺れればよかったのだ」と発言して辞職に追い込まれた大臣がいたが、まさに、よりにもよって東京にエネルギーが集中したのである。

 都心は文字通り壊滅した。

 都内には1960年代から80年代にかけて作られた中低層のビルが無数にあった。高度経済成長で建てられたビルと高架道路は、ほぼすべて倒壊するか、人が使用することの出来ないレベルまで破壊された。

 一方、1980年代以降に建設ラッシュとなったのが高層ビルや超高層ビルである。

 バブル経済以降の再開発計画で、それまで数えるほどしかなかった超高層ビルは、雨後の竹の子のように生えてきて、至る所ビルだらけになった。大体軒高60m以上で高層ビルの部類にはいる。当時、羽田空港の航空機の離着陸経路と、米軍が一部を管轄していたその管制の問題もあって、都心では軒高250mくらいまでで、それ以上の高さは事実上規制がかかっていたが、その範囲までの高層ビルは、平成不況時代にも多数建設され、都心はビルだらけになった。

 その多くは、09震災以前、阪神大震災よりあとに、耐震技術の見直し、新技術の開発が進んでから設計され、作られたものである。

 当然、阪神大震災クラスの揺れには耐えられるはずだった。

 だが、人間の知恵というものは、自然のエネルギーには勝てないものだ。予想してない激しい揺れ、あるいは複数の揺れが重なるようになり、またもっとも建物の破壊をもたらす長周期振動などが、長時間連続したために、それら超高層ビルも、あるものは完全に倒壊し、あるものは途中で折れ、あるものは途中だけが潰れ、あるものは傾いたままとなり、あるものは隣のビルに寄りかかり、あるものは地面の陥没によって不安定な状態となった。幅が薄くて横に長いビルなどは半分だけ残って半分だけ綺麗に瓦礫となったものもある。

 湾岸の埋め立て地では、液状化が激しく、そのために倒壊したビルや高層マンションもあった。

 全く不思議なことに、これほど多くのビルが倒壊したにもかかわらず、都心でも今や古い方に上げられる国会議事堂は、ヒビが入って天窓が落ちただけにとどまった。すぐそばの比較的新しい議員会館は、地盤もろとも崩壊し、山王の坂下まで崩れ落ちた。ほぼ同じ場所に立つ、新旧二種類の建物のうち、議員会館にいた議員や秘書、職員などは、国会議事堂にいた人と明暗が分かれる結果となった。

 建物の多くは、単に古いか新しいか、あるいは、耐震技術が施されたかどうかだけではなく、地盤の状態や、1回目の地震の影響も大きく出ていた。1回目でヒビが入ったり、なんとか揺れを支えきって限界に達していた支柱などが、2回目の揺れで限界を超えてしまい、倒壊したり中間階の圧壊といったことになった。

 2回の地震とも、発生時刻が夜に入ったばかりの時間で、まだ多くの人が建物の中にいた。外出していた人たちは、オフィスや、レストランや、駅舎などに、都心に家やマンションのある人は、ちょうど家に帰り着き、あるいは夕食の準備を始めているところだった。多くの人が倒壊した建物の下敷きになった。

 正確な記録はないが、全国で建物の倒壊によって下敷きになった人は70万人以上に達したという。しかも夜である。救助ははかどらなかった。時刻が時刻だけに火の元が至る所にあった。火災は3万ヵ所以上でほぼ同時に発生した。発生段階ですでに消火能力をはるかに超える火災だった上に、東京都心は狭くて坂道が多く、倒れたビル、崩落した高架道路などが至るところで邪魔をした。周辺の住宅街は家々が密集して、消防車両も入れず、行き止まりの道も多くて、火災現場へ辿りつけず消火活動を始めることも出来ない事例が多発した。湾岸地帯では液状化や地盤沈下、断層により地面が大きく割れたりずれたりして車両走行も困難だった。

 消火活動ははかどらず、長いところでは1週間以上も燃え続けた。当然、夜間で家の下敷きになった人の救助も進まず、せっかく瓦礫を取り除くための道具を揃えていた町内でも、手をこまねいているうちに最悪の結果となっていった。

 このような状況だから避難もままならない。

 地域で訓練していたところでは、まだしも避難所へたどり着いた住民も多かったが、隣近所の付き合いの乏しいところでは、人々はただ逃げまどうばかりで、火災や避難場所のデマが飛び交い、それが混乱に拍車をかけた。

 また机上で決めた避難所などは、収容数をはるかに超える人が殺到し、火災が拡がる中で他へ行くことも出来ない状況だった。場所によっては、混乱する避難所にまで火災が迫り、そこまで想定していなかったために、避難訓練が生かされない場合もあった。

 都心部では、避難訓練すらまともにしていない事業所も多く、どこに避難所があるかわからない例も多かった。そもそもビルから出られなかった人も多くいた。

 超高層ビルでは、停止したエレベーターの中に取り残された大勢の人々が、救助されないままになった。超高層ビルのエレベーターの中には、脱出用の扉がないものもあった。振動を感知すると、自動で最寄りの階に止まって扉が開くように設計されていたからだ。しかし、想定以上の揺れはビル自体を歪ませ、その機能を阻害した。大混乱の中で気づかれず、2週間以上も経って、フロアとフロアの間に止まったままのエレベーターの中で、帰宅しようと満員となったまま閉じ込められ餓死した多数の会社員が見つかった例もあった。必死に扉を開けようと努力したあとがあり、その悲惨さは目を覆うばかりだった。非常階段を逃げる途中に、2回目の地震で押しつぶされ、沢山の遺体が見つかったビルもあった。

 火災は一夜が明けたあと、だいぶ収まった。

 しかしそれは、燃えるものが減ったための自然的なもので、火災が本格的に鎮火するのは、3日目、被害のなかった地域から駆けつけてきた消防車両や消防ヘリの活動に、その日の昼から降り始めた灰混じりの雨によってである。

 交通機関も悲惨なことになった。

 高度成長期に建設された首都高は至る所で落ちた。橋脚だけが残って、路面が軒並み落ちている場所もあった。建設費を抑えるため、川を埋め立てて作った地盤の弱い区間もあり、それも崩落の原因の一つになった。交通事故の数はそれこそ数えきれないほどで、揺れの激しさにハンドルを取られて他の車両に衝突したり、歩道に上がって揺れに驚いて立ち止まっていた人々をなぎ倒し、ショーウィンドウに突入した車もあった。高架の崩壊と共に地上へ投げ出された車両、押しつぶされた車両は数え切れなかった。首都高の都心部に複数ある地下トンネルは言うまでもなく潰れ、中で車両が火災を起こし、数日後に煙のくすぶる中へ完全防護の救助隊が入ってみると、何十台もの車両と乗っていた人たちが炭化した状態で見つかる例もあった。古いトンネルは、排ガス対策のために天井板を取り付けてその上を通風口にしていることが多く、老朽化で重さ何百kgもある天井板が落下して車両を押しつぶす例もあった。車両火災は高架上でも、一般道路でも多数発生し、その火が付近の家へ移って拡がったところもあった。

 同様に高架鉄道も多く崩壊し、地下鉄のトンネルも至る所で圧潰した。

 帰宅ラッシュで、もっとも混み合う時間帯である。

 満員の乗客を乗せたまま、電車は脱線して転覆し、高架から飛び出し、崩落したトンネルに押しつぶされた。川床の崩壊で地下鉄に水が流れ込み、数千人が溺死した路線もあった。システムが停止したため、自動で電車を止める機能は働かず、多重衝突事故も多発した。交差状の立体構造になっている秋葉原、下北沢と言った駅はその分耐震能力が弱かったのか、駅舎が崩壊して、ホームの人も、進入中の電車も、構内の店舗もすべて押しつぶした。

 羽田空港は地震の揺れで、航空機の離着陸事故が3件あり340人が亡くなった。さらにターミナルの一部倒壊と火災による死者も出た。滑走路と施設は津波と地盤沈下と液状化で使用不能になり、半年後に小型機用として再開するものの、本格稼働までに1年もかかった。

 震災前、国や都などが算定した人的被害総数は、これら電車や高速道路などでの交通事故だけであっけなくオーバーしてしまった。倒壊による下敷きや、火災での犠牲者は、想定をはるかに上回った。

 2つの地震による死者はその年の末までに確認されたものとして約137万人。うち、東京都内にいて犠牲になったものの数は、23区内だけで50万人、都市部も含めて109万7千人であった。

 火災が収まり、恐怖の数日間から解放された人々の目に映ったのは、一面の廃墟であった。たなびく煙の向こうには超高層ビルが傾き、空は異様に晴れ渡っていた。第2次世界大戦後に世の中の流れのままにできあがった巨大都市は、それをはるかに上回る自然のエネルギーによって一掃されてしまった。

 その後、1500万人に達する避難民は各地に分散した。都心とその周辺の被災地にある避難所では、膨大な数の被災者を収容するなど到底不可能で、被害の少なかった東京都多摩西部、埼玉県西部や北部、千葉県東部や房総半島、茨城県、群馬県、栃木県、山梨県などにも避難所が作られた。地方から出てきた人の多くは、直接的な被害を受けてない人も含めて、多くが帰郷し、東京都に戸籍のあった1250万人は、避難民と帰郷者で700万人を割った。

 被害額は直接的なものだけでも、国家予算をはるかに超える260兆円。国債償還費だけで毎年30兆円を払っていたのだから、それらを除く実質の一般会計予算およそ50兆円、特別会計を含めた140兆円から見ても、天文学的数字である。

 世界中の善意と義務の救援が一段落し、やっと落ち着いて物事を見られるようになった時、誰もが思ったのは「日本崩壊」であった。そして、日本の崩壊は、世界の経済にとっても大打撃である。各国は、日本に関する資産を凍結し、日本企業の海外工場を接収し、日本から借りているお金の返済拒否を決めた。円は大暴落し、日本関係の株は全面売の展開となった。あまりにも極端な事態に、株式市場ネットワークの高速株取引のプログラムが暴走し、関係のない海外企業まで売りが殺到する事態となった。世界の証券取引は2週間も機能停止に追い込まれた。

 一時は国連監視下による信託統治、暫定政府設立の話が国連総会で話し合われるほど、世界にとっても深刻な事態であった。

 その2年後、環球同盟によって第3次世界大戦が勃発するが、その背景には日本経済崩壊の影響、日本没落による国際安全保障バランスの崩壊などがあったといわれる。足かせの外れた中国が覇権主義に進んだのだ。

 2009年当時、すでに、民間主導での構造改革計画が始まっていた。

 後に09革命と呼ばれることになるこの改革は、民間グループが勝手に始めたもので、当時の政府とも規制などから対立関係にあったと言うが、この改革を推し進めた「企画会議」は、その後、事実上の政変を引き起こし、国家再建の主導権を握ることになる。

 彼らは総選挙で新政府を樹立すると構造改革を推進し、復興省を創設して、首都再建計画を立て、実行に移した。この時、暫定的首都として、東京都立川市に遷都した。被害が少なかったことと、防災機関が集中していたこと、米軍基地跡地に土地が余っていたことなどが理由に挙げられる。

 東京の膨大な瓦礫は寄せ集められて積み上げられた。本来なら東京湾にでも投棄して島を作るところだが、政府はなぜかそうしないで、これを新しい建材へ再生する工場を中野区、豊島区、江東区、葛飾区に次々と建設して処理していった。

 東京は更地になり、復興省指導の元、新たな土地管理、地権変更、戸籍移動などが行われ、大規模な都市計画が実行に移された。



 首都再建計画の最中に、一緒に作られたのが、この下北沢霊園である。

 都内の死者のうち、遺族に引き取られたのを除いても、まだ44万人の遺骨が残った。身元不明のもの、家族のいないもの、家族すべてが死亡したもので、政府は火災で灰燼に帰したこの土地一帯を購入して、慰霊堂と慰霊塔、墓地を建設して葬ったのである。さらに家族がお墓を持っていなかったものなどもここにお墓を立てた。

 2010年9月19日、ここで大規模な慰霊祭が行われた。

 僕もその慰霊祭に参加したのだが、幼かったため、よく覚えていない。姉と一緒に、中学生だった義兄(当時はまだ兄ではないが)に手を引かれ、参列した。暫定政府の首相が葬儀委員長となり、天皇・皇后・皇族方をはじめ、各国の元首・大使、財界人らも参加する大規模なものだったそうである。

 墓地は東側に慰霊堂が、中央には大きな観音像と慰霊塔があり、一つ一つが細長いお墓は慰霊塔の周りに放射状に並んでいる。身元不明者は横に長い大きなお墓にまとめて葬られていた。

 僕はお墓とお墓の間を通る道を進み、記憶にしっかりと刻み込まれている両親の墓に向かった。

 さすがに震災から26年も経ち、この日訪れる遺族も減っているが、それでもたくさんの人が至るところで花を手向け、線香をあげ、お祈りをささげている姿が見えた。

 今日は震災記念日なので、当然、日本中で防災訓練が行われている。瓦礫を取り除く訓練や、避難訓練、震災当時ほとんど役に立たなかった電脳防災ネットワークの訓練やチェックも行われている。全国で30万人以上が参加すると、今朝のニュースで言っていた。

 放射状の道路からお墓の並ぶ砂利道へ上がり、あと少し、と言うところで、

「英介君」

 振り向くと、義兄が立っていた。義兄の傍らには姉貴が、義兄と姉貴の間には2人の間に出来た娘、すなわち僕の姪のエリナが立っていた。御歳5歳である。

「やっぱり来たね」

「もちろんですよ」

 とうなずくと、姉貴が、

「あんたにしては、上出来よね。一応毎年来るんだから」

「おいおい、いいことじゃないか」

 と姉貴の口の悪さに、義兄は取りなすように言ったが、姉貴は悪口を言っているわけじゃないのだ。僕はそこら辺はよくわかっている。姉貴は、「いいのよ、こんな普段何してるかわからないような英介には」などと言っているが、目があうと、一瞬だけ優しげな視線で僕を見た。ほとんど幼なじみでもある義兄だが、この辺りの機微は、姉弟にしかわからない。大企業のキャリア社員でもある姉貴は、エリンターなどをやってる弟の前でふんぞり返りたいだけなのだ。

 娘の背中を軽く押して、僕の方へ押しやり、挨拶をさせる。

「こんにちわ、お兄ちゃん」

「エリナ、大きくなったな」

 姪は僕のことをお兄ちゃんと呼ぶが、いずれ叔父さんになるのだろう。系図上はそれで正しいのだが、年齢的には、あまり叔父さんと呼ばれたくはない。

 両親の墓に水をかけ、花を差し、線香を焚く。

 僕は両親の顔をほとんど覚えていない。

 地震の時、僕は3歳で、姉は8歳だった。隣に住んでいて、僕ら姉弟を助けた今の義兄は13歳で中学1年だった。両親は崩壊したマンションの瓦礫の下敷きになって死亡し、僕らは崩れ残った3階の部屋に取り残された。1回目の地震の際に、両親が急いで家具の隙間に僕ら姉弟を押し込んだため、うまい具合に挟まって無事だったのだという。しかし両親は2回めの地震でマンションごと崩れ落ちて助からなかった。同じように両親を失い、マンションに取り残された義兄が駆けつけてきて、瓦礫や残骸を取り除いて僕らを助け出し、近所の人に呼びかけて助けを求めてくれた。気付いた近所の人たちが残骸に梯子などをかけて助けてくれたため、僕らは生き延びた。さらに義兄の親戚が気の毒に思って、立川市内で経営していた木造アパートの一室を僕らのために貸してくれた。賃料はその後、政府の災害孤児基金から出たようだが、最初はタダだったそうである。震災直後、膨大な数の孤児が出たため、支援をしてくれる市民が結構いた。日本が没落せずに済んだのは、そう言う市民レベルの助け合う力があったからだろうと思う。義兄は親戚こそいたものの、僕らと同じように両親を失った境遇から、しばしばアパートの部屋に来てくれて、僕と遊んでくれたり、姉貴に勉強を教えたりした。料理を作ったり掃除もしたり、ずいぶんと世話を焼いてくれたものだ。

 そのおかげかどうか、姉貴はすっかりなついてしまい、それがそのまま恋心になったようで、弟から見ても独立心旺盛な姉貴が生涯の相手に選んだのが義兄だったのは、わからなくもない。義兄は姉貴のことをどう思っていたのか、そこら辺、聞いてみたくもあり、怖くもある。

 僕自身、小さい頃から遊んでもらったり勉強を教えてもらったり、長じては、ちょっと悪いことも教えてもらったわけで、義兄というより実の兄のような感覚がある。

 姉貴は、大学を出て、大手情報商社に就職し、結婚後も産休で休んだ時以外、バリバリ働いている。いまは、なんとかいう部署の主任で、10人ほどの部下を引き連れて、企画を立てたりと忙しい。

 義兄は大学を出たあと経済省に入り、その後新設された貿易省に移って、今は審議官である。39歳では出世も早い方だろう。

 まさにキャリア夫婦である。

 僕はといえば、28歳で、フリーエリンター。情報化社会では、これはこれで重要な仕事だと思うが、ちょっといかがわしさもなくはない。定職というものではないし、官僚や大企業には必ずある様々な社会保障制度の恩恵もない。何もかも自分の責任である。おかげで未だに独り身だ。1DKのアパートにいる同居人は、時々電話に変貌するネコドロイドのタマだけである。

 墓参りが終わると、僕らは墓地の北口門へ向かった。

「英介君は、今日はバイクかい?」

「ええ」

「あんたも、そんないつまでも趣味みたいな生活送ってないで、少しは先のこと考えたらどうなのよ」

「余計なお世話。エリナ、今度バイクに乗っけてやるからな」

「うん!」

 姪はうれしそうにうなずいたが、わかっててうなずいているのかどうか。

「この子に変なこと教えないでよ」

「バイクは変じゃねえだろ。大手専属のエリンターだって同じ趣味なんだぞ。……で、兄さん、バイクがどうかしました?」

「いや、ちょっと君に相談したいことがあるんだよ。電車だったら、このあとどこか喫茶店にでも寄って話をしようかと思ったんだけど」

 そんな言い方をするところを見ると、

「仕事ですか?」

 義兄はうなずいた。

「この子が役に立つの?」

「姉貴は黙ってろよ。仕事の話なんだから」

「どんなお仕事やら」

 それでも姉貴は遠慮して、姪と一緒に先に車のところに行った。僕は姪に手を振ったあと少し離れたところに止めたEMMBの所へ義兄と一緒に行く。

「で、どんな仕事です?」

「それなんだが、あらかじめ言っておくと、貿易省の正式な依頼ではない」

 まあ、それはわかる。国家の省庁が一エリンターに仕事を頼むわけもない。大体、省内に情報部門を持っている。

「これは、僕の個人的依頼だ。君に調べてもらいたいことがあってね。依頼料は出す。経費も出そう」

「わかりました。でも、経費は場合によってはかかりますよ。少しはまけますけど」

 まけます、に義兄は笑みを浮かべたが、

「それは心配ない。実は、省の経費で落とす」

「個人依頼の仕事でですか? 裏金とかじゃないでしょうね」

「裏金ってものでもないが、調査費から出ることは決まっている」

「じゃあ、省からの依頼、ってことになるんじゃ……」

「それがな、くだらない建前で、表向きの依頼に出来ないんだ」

「どういうことです?」

「調べてもらいたいのは、ネット世界のアンダーグラウンドマネーのことなんだ」

「裏経済、ですか。ネット世界での裏取引が国際問題にでもなってきてますか」

「そうなんだよ。僕がシドニーの国連本部に行った時、秘密会合に出席した話はしたよね」

「ええ。ネット経済の話も出たとか」

「あれは、あくまで表のネット取引の問題だった。国境がないからいろいろ想定外の流通経済が成立している。貿易問題にも関わるんで話し合ったわけだが、同じネット上の取引でも、裏側がある」

「ありますね。むしろそっちの方がでかいんじゃないかな」

「そこさ。特に大戦からこっち、ネットの急速な規模拡大で、情報化社会が進んでいる。その情報化社会の陰で、裏社会の経済も発達した。でも、裏の世界の経済は大きいが、裏だけで機能しているわけじゃないだろう。どこかで表にリンクしている。貿易や世界経済に影響を与えるレベルになってきているんだ」

「でしょうね」

「そこで君に頼みたいのは、どういう組織があり、どういうレベルの経済活動をしているのか、そしてどういう人物がそれを動かしているのかを調べてもらいたいのだ」

「はあ……、ずいぶんと大きな話ですが、なぜ僕に? 貿易省の……、たしか情報調査部ってのがありましたよね。そこにやらせればいいじゃないですか。経済調査の専門でしょう?」

 義兄は顔をしかめた。

「やらせたんだよ。だがダメだった」

「ダメだった?」

「経済調査部は表社会しか知らない官僚どもの集まりだ。それも経済学のお勉強だけしてきたような連中で、理論で世の中が成り立っていると思っているような奴らだよ」

「そんなのが経済調査部なんですか?」

「最近は省庁にも閥が出来つつある。革命当初のようには行かなくなってきているんだ。大臣も加わっている興世会のメンバーが多い」

「こーせーかい?」

「政治家や、新興企業のドミニオンなんかが加わっているグループだ。最近は若手の官僚や、企画党、野党国民党の党員も多くなっている」

「超党派グループってやつですか」

 義兄はうなずき、

「問題は、興世会の面々が、必ずしも改革や世の中のことに詳しいわけじゃないってことだ。理念とか理想論とかは盛んに論議し合うが、所詮は表面的なところばかり。書生論議ってやつだよ」

 義兄だって、決して歳ではないし、改革を推進している重鎮連中から見れば、まだまだ若造だろうが、その義兄をして、若手の書生のと言うのだ。

「改革に時間がかかっているから、結果を生む前に、次の世代が出てきてしまう。その連中には、改革の重要性だとか、手でつかむような実感は薄いだろう」

「だから理想論ばかり、ですか」

「そういうこと。それで、経済調査部はネット世界の裏側のことを調査するよう言われたのに、表面的なデータばかり並べてな」

「どういうデータなんです」

「具体的なことは、今手元にないからあれだが、簡単に言えば、回線の容量だの、サイトの数だの、ユーザーの増加率だの、あるいは貿易や、事件の数、そう言う統計的データから、計算してこれくらい、と言ったことを提出したんだよ」

「ははあ」

 それじゃ、なんにもわかってないのと同じだ。

「で、それがイカンと、誰かが言ったわけですね」

「企画党のお歴々だ。貿易省のベテラン官僚が、御注進に及んだらしい。こんなことじゃダメだってね」

「世代闘争みたいですね」

「そう言う部分もある。だが、実際、各国の貿易担当部門とも調整しなければならない。これじゃ笑われるのは目に見えている。で、話を聞いた鳥羽次官が、在野の経済学者らを集めて諮問させたため、だめ出しを喰らってね。経済調査部は面目を失ってなにも言えなくなった」

「その様子、見たかったな」

「みっともなかったぜ。で、本当なら、貿易省の方で正式に調査すべき所だが、こんな話が拡がったら困ると大臣がごねたらしい」

「同じ興世会メンバーでかばい合うって言うわけですね。でも、それでなんで僕なんですよ。内密にしたいからと言っても、調査会社に頼めばいいじゃないですか」

「それもやったよ」

「はあ?」

「だが似たり寄ったりだ。アンダー世界のことはほとんどわからない。いや、わかったとしても言えないような部分があるのだろう。企業だってきれい事だけじゃないしな」

「なるほど……国家の御用を担って、仲間内を裏切るようなことはできませんもんねえ」

「そういうこと。それに、簡単に調べられなくなっているって言うことは、それだけ規模も大きくなり、深刻になっていると言うことだろう」

「そんな世界のことをたかがエリンターの僕に調べろと?」

「英介君は、グロスターとも知り合いじゃないか。彼に頼めないか?」

 僕は露骨にいやな顔をした。

「僕がグロスターと知り合いなのを貿易省の人たちにしゃべったんじゃないでしょうね」

「言わないよ。情報ソースは隠している。英介君に頼むつもりでいることも言ってない。ただ、大臣が、君はいろいろコネもあるようだから、君が調べてみたらどうだね、なんて嫌味を言ってきてね。どうも企画院総裁に頼まれて国連の秘密会議に出たことがばれたらしい」

「で、弱みでも握られたんですか?」

「弱みじゃないが、今はあまりゴタを起こしたくない。いざとなれば辞表をたたきつける覚悟はあるが、僕1人の問題じゃないんだ。興世会とやり合っているわけじゃないが、最近は何かとやりにくくなっている。興世会に入ってない僕らは目を付けられているんだ。それに、上の人や、他の省庁とも連携して、一緒に動いている仲間もいる。興世会の顔も少しは立てて、こっちの言い分も通す。そう言うややこしい所なんだ」

「兄さんも、おとなしい顔をしていろいろ動き回ってるわけですか」

「まあ、そう言うなよ」

「姉貴に怒られますよ。あんまり裏側を回ってると。あのヒト、正々堂々の真っ向勝負が好きだから」

「それだけは勘弁してもらいたいな。大臣はどうでもいいが、あいつは怖い」

 義兄は苦笑した。幸せ苦笑ってやつだ、と思いつつ、

「グロスターに貿易省の依頼だと言っても、果たして動いてくれますかねえ。あいつは自主独立の存在だからこそ、そこに価値観を見出しているわけだし」

「そこをなんとか頼むよ。何かきっかけでもつかめればいい。情報をくれる人を見つけてくれるだけでもいい。いまはどうにも出口が見つからなくて困ってるんだ」

 はあ、と僕はため息をついた。義兄に頼まれるといやとも言えない。

「わかりました。とにかく裏の調査は引き受けます」

「そうか、ありがたい」

「でも、僕もやばいところに首は突っ込みたくないですから、どこまで成果を上げられるかわかりませんよ。それでもいいですか?」

「かまわない。それから、うちのやつには内緒にしておきたい。あれで弟思いだからな。君にそんな調査をさせたなんてばれたら、即、離婚を切り出されてしまいそうだ」

「あははは」

「笑い事じゃないぞ」

「まあ、それはお互い気を付けると言うことで。適当に話を作って、合わせておきましょう。裏というのは内緒にして、ネットワーク経済の調査、と言うあたりなら、ウソでもないし、僕の仕事の関係から姉貴も信用するでしょう」

「そうだな。何しろ鋭いからね、君の姉さんは」

「連絡は兄さんの携帯でいいですか?」

「いや、それはまずい。あとで君の携帯に連絡先のアドレスを送信しておこう。それから、経費等の請求はその連絡先に連絡を入れてもらってからにしよう」

「わかりました。でも経費、少々かかっても大丈夫でしょうね。裏になるほど金はかかりますよ」

「それは構わない。今は経済調査部も大きな顔は出来ないからな」

「契約成立ですね」

「うむ」

 こうして僕は、アンダーネットワールドの調査を始めることになった。



「よお。最近よく来るじゃないか」

 秋葉原電脳都市の熊田のオヤジは、相変わらず狭っくるしい店の中にいた。

「たまにはうちの製品も買っていきなよ」

「なんかお奨めの逸品でもあるわけ?」

「こいつなんかどうだい?」

 透明のケースに入ったものを取りだした。

「なんなのそれ?」

「インテルの486DXだよ」

「そいつは珍しいわけ?」

「珍しいもなにも、こんなもの今の時代どれくらい残ってるやら。骨董品だよ」

「で、いくらするわけ?」

「まあ、お前さんなら、まけてやろうか。これでどうだい」

 熊田は指を2本出した。

「ふん、2万と言うことはないだろうな。20万かい?」

「200万だよ、予想付いてるだろうに」

「やっぱり。それでまけてるというのか」

「あほいえ、安いもんだ。こう言うものは大量に作られた分、あとに残らん。みんな廃棄処分よ。特に戦時中に技術革新があったから余計にな。1台しかないような試作品は残るんだけど」

「そういうもんなんだ」

「俺の知り合いには、30年前に埋め立て処理場に埋められたゴミ山から掘り出し物を探しているやつもいる。ほれ、昔埋めたゴミを掘り出してさ、再処理施設で原料にしてるだろう。あれさ」

「そんなのぼろぼろなんじゃないの」

「ものにもよる。金とか採掘できるしな」

「キン? なんで金が?」

「昔の電子基板には金が含まれてるんだよ。今のようにナノテクで作ってない時代のはね」

「へえ。それで、そう言うチップだの、回路だのが高いわけ?」

「これらが高いのは稀少品だからだよ。しかもうちにあるやつは、みな動く。ちなみにこいつより古い80286なら400万する。さらに前の8086互換のV30なんて、いくらするやら。この上の電脳歴史博物館にV30の入った動くNEC製のマシンがひとつあるが、前に国立科学博物館が周辺機器全部込みで900万出すから譲ってくれと言ってきて断ったらしい」

「まさか、それまであるって言うんじゃないだろうね、こんなボロ店に」

「ボロ店は余計だ」

 そう言いながら熊田は顔を近づけて小声で言った。

「ここだけの話だがな」

「うん」

「V30はない」

「ないのかよ」

「V30はないが、ザイログZ80はある」

「そのぜっとはちまるとやらは、いくらするわけ?」

「まあ完品なんで、700万はするかな」

「700万……。それ、そこら辺にあるわけ?」

「秘密だ。さ、通れよ。グロスターは奥にいると思うぜ」

「どれどれ~、どのあたりに隠してあるのかなあ」

「さっさと行け。人には言うなよ」

 わかったよ、と言いつつ、ケース山の隙間を抜けて、僕は倉庫に出た。ターレーを避けて通路を横切り、グロスターの部屋を訪ねる。

 グロスターは、相変わらずマシンに囲まれて、こっちに背を向けて何か操作をしながら、

「お前、最近よく来るな」

 熊田のオヤジと同じようなことを言った。

「用事があるからね」

「唐突に来るんで驚くぜ」

 おそらく熊田電気屋の裏口を出たあたりで気づいているだろうが、

「あんたの連絡先、教えてくれないじゃないか。熊田のオヤジは電話じゃ教えてくれないし。教えてくれたら、アポを取ってからにするさ」

「俺も一応は、独自の連絡ルートを持っているからな。そいつらの顔を立てなけりゃならん。けじめって言うやつさ。あとセキュリティの問題もある。熊田のオッサンにも言わせないのはそのためだ。その代わり、お前にはここを教えているだろ」

 ネット世界の伝説的人物に連絡を取る方法が、直接会いに行かなければならないとは、ずいぶんアナログな話である。デジタル時代における特権はアナログか?

「ありがたいと思ってるよ。でも、緊急に連絡したい時はどうするんだよ」

「おまえんちに連絡するのはわけない」

「それはそっちの都合の時だろう。俺が緊急の時だよ」

 グロスターはやっとこっちを向いた。澄ました顔で僕を見る。

「おまえに緊急の時ってあるのか? 逆ナンパの美人局に引っかかってストリートギャングのガキどもに追われてる時とかか?」

「なんだその具体的な例は。緊急の時ってのは、緊急の時にしかわからない理由の時だよ」

「もっともだ」

「そう言う時はどうすればいいんだよ」

「まあ、座ってお茶でも飲め」

「電脳の冷却剤じゃないだろうな」

「おまえ、毎回それ言ってねえか」

 僕は肩をすくめて腰掛ける。グロスターは冷温庫からバイオボトルの緑茶を取りだして渡した。

「緊急連絡方法か。そうだなあ……」

 グロスターは考えた。

「おまえ、サロンサイトには行ったことあるか?」

 ネット上にあるバーチャルサロンだ。

「不特定多数向けのはない。バイクとか情報関係のサロンはあるけど」

「ならな、サロンサイトにセカンドストリート4096というのがある」

「セカンドストリート?」

「オカマのサイトだ」

「は?」

「そのサイトにアクセスして、MOX3と言うルームに行くんだ。そこにイエローケーキというオカマがいる」

「イエローケーキ?」

「そいつに、緊急事態であることと、連絡先を伝えれば、そいつが俺に連絡する」

「……」

「どうした? イエローケーキなら心配はない。あいつは口が堅いからな」

「おまえ……、もしかしてそっちの気があったのか?」

 僕は椅子を少し後ろにずらした。これでも僕はノーマルだ。

 グロスターはきょとんとして、それから苦笑した。

「あほか。イエローケーキはネットダイバー仲間だ。おまえ、昔から知ってるくせして、俺をホモだと疑う?」

「いまの世の中、何があるかわからんからな」

「それは同意見だが、俺はノーマルだよ」

「そうだといいが」

 とふと気付く。

「そこはセキュリティとかは大丈夫なのか? お前さんの名を第三者に聞かれるのはまずいだろ」

「心配ない。ダミーモードがあるんだよ。よそから見るのは難しい。イエローケーキはあれで腕は一流だからな」

「おまえと同じか」

「俺は超一流」

 はいはい、と適当にあしらう。

「それなら、入る時パスとかいるんじゃないか?」

「セカンドストリート4096は誰でも入れるが、MOX3ルームは許可制だ。パスを教えておこう」

 グロスターはコードを教えてくれた。

「コードは暗記するんだぞ。メモはダメだ。盗み見されるからな。もっとも、国家の情報部員は記憶しないって言うけどね」

「どうして?」

「自白剤を使われるかもしれんだろ。遺伝子コードを使うと聞くが、こう言う話はどこまで本当やら」

 僕はうなずきながらお茶を飲んだ。

「で、今日はなんだ? 緊急の用件か?」

「まあまあの緊急性だ」

「わかった、話を聞こうじゃないか」

「ありがたい」

「緊急はともかく、普段の連絡方法についてはかんべんしろよ。これもビジネスだ。そうそう緊急にされちゃ困るからな」

「わかってるよ。今日はあんたにしか頼めない事が出来たんだ」

「お前も段々、ネット世界にはまりこんできたようだな」

 グロスターはにやっと笑い、

「そうやって人は成長するもんだ」

「エリンターが進化したらネットダイバーか。成長しなくてもいいかも」

「そうか? 英介は見所があるからな。いずれ俺の後継者にしてやろうか」

「小中時代の同級生にそう言うセリフは言わないもんだ」

 小中時代を持ち出されて、グロスターはいやな顔をした。クールな男にガキの頃の記憶は余計なのだ。

「で、何を頼みに来たんだ?」

「正確には、俺個人の頼み事と言うより、兄貴の頼み事でな」

「ほう、貿易省の審議官が」

 グロスターは小学校高学年のときに出会って以来の関係だから、当然、義兄のことも知っている。もちろん逆もだ。

 僕は、簡単に事情を説明した。こう言うことは変に隠さない方がいい。特にグロスターのような情報通には。それが信用というものになる。

「で、ネットのアンダーな部分を知りたいって言うわけか」

「組織的なこと、経済的なこと、兄貴は省内での立場を強化したいだろうし、アンダーに詳しい誰かのコネが欲しい所なんだと思う」

「官僚がアンダーワールドの関係者とお近づきになるのはまずいんじゃないのか?」

「つながり方にもよると思うけど。とりあえず、俺をクッションにすれば、情報は確保できるし」

「お前も、あの兄さんには頭が上がらないか」

「命の恩人だしね。兄貴はあれで苦労している。俺にも悪いと思っているようだが、今回はどうにもならなかったみたいだ」

「政府も中はドロドロだな。しかし、ネット世界のアンダーワールドか……」

 グロスターは椅子の背もたれにもたれかかった。椅子はギシッと音を立てる。

「もともとネット自体がリアル世界の中にあるアンダーワールドだったんだけどね」

「でも、いまはありとあらゆるデータ製品がネット上で動いているよ。リアルワールドとネットは融合している」

 言うまでもないことだが、リアルワールドとは、この日常社会のことだ。

「どの世界にも裏はある。裏があるから表もあるんだ。ネットがリアルワールドと融合すれば、当然、ネットの中にあるアンダーワールドもリアルワールドと融合していく。ネットは技術と需要と供給で存在しているんだ。何か特別なものというのではない」

 ネット世界を崇拝するような動きがあるのは僕も良くわかるが、その世界に生きるグロスターは、ネットに幻想を抱いてはいない。

「具体的にどういう人たちがネット上で動いているんだろうな。ある程度は僕もエリンターだからネットには依存しているけど、アンダーネットワールドは詳しくはないからね」

「そうだな、いろいろあるが……」

 グロスターは説明を始めた。

 僕は、話を聞きながら分類してみる。

「アンダーというのは、要するに普通のネット活動ではない、犯罪などの部分を指すと考えて説明するが」

 とグロスターは前置きをして、

「まずその目的方向から大きく2つ分けられるだろうな」


1、リアルワールド上の非合法活動としてネット世界を利用する人々

 表の世界で罪になる行為、活動により、地下に潜ったり、当局の手を逃れて動くためにネット世界を利用するというものである。

2、ネットを新たな世界として活動する人々

 1の場合は、あくまでリアル世界、つまり一般的な社会での活動が目的で、たとえば、ドラッグや強盗などの犯罪でネットを利用したり、反政府活動やテロ行為などをする連中が連絡を取るためにネットを利用しているものだ。もちろん、それらの組織や個人が、ドラッグや武器を取引するのに、ネットは利用される。表社会から姿を隠すための手段としてネットを連絡網に使うが、彼らの目は表社会に向いている。

 2の場合は、ネット世界だけで活動する人々だ。もちろん、人間だからリアルワールドに生活の拠点がある。しかし、彼らにとって必要なものは可能な限りネットで得ようとする。さらにネット上だけで彼らの組織を作り、それはリアルワールドには一切関係がない。この人々は、ネットの方に目が向いているのだ。

 この2タイプをさらに分類する。

 1の場合は、基本的に非合法組織だ。

A 一般的犯罪組織。

 ヤクザ、暴力団、マフィアといった名前で呼ばれる集団である。

B 反政府組織。

 反政府団体、テロ組織。

C 思想的犯罪組織。

 思想団体、カルト宗教。

「彼らは、電脳ネットワークと結びつくことで強固になった。ただし、その過程では電脳化に対応できなかった連中がどんどん縮小していったわけだけどね」

「ヤクザとかだろう」

「そう。電脳化に対応できた連中は、そのまま残ったが、出来なかった連中は出来る奴らに頼らなければならない。目的はなんにせよ知識はいる。情報化社会が進めば、犯罪もそれに対応しなければならない。その結果、力を持つ組織とそうでないのとが出てくる。あの世界も吸収合併が進み、ナワバリが大きく変わっていく」

「でも、風俗街のミカジメ料なんかは、リアルワールドのことだよな」

「ミカジメってのは管理権のようなものでね。所場代だけでなく、必要な道具・製品の配分、働く人間やロボットの手配などもミカジメに含まれる。その「権利」が重要なんだよ。ピンハネが連中の収入になるからね。ヤクザ組織の原点には沖仲仕と呼ばれる港湾労働者派遣業だったものもあるからな、昔から変わってない。そしてそれらの物や人は、当然、メーカーもあり、仲介もあり、人には居住場所や戸籍もあるだろう。特に人は、たとえホームレスでも国家に全登録されている。そう言う意味では、すべて情報化されているといってもいい。それに風俗なんて、電脳化が進んでいる代表だ」

「確かに」

 取材した時のことを思い出した。人間がサービスする風俗よりも、アンドロイドやバーチャルの方が進んでいた。案内していたのはいかにもヤクザ系の男だったが……。

 みるくちゃんの顔が浮かんできて、僕は顔を少し振った。

「どうした?」

「いや、続けてくれ」

「そう言う意味ではネットワークをいかに取り込んだかで、その勢力図も変わる。また、連中は、小規模の犯罪にも関わっているし、生体組織売買や生殖細胞の売買、非合法サイボーグ部品、ドラッグの売買なども扱っている。ネットを介せば、そう言ったものは世界のどこからでも手に入れられる。配送はリアルワールドだがね。だから外国の犯罪組織ともコネクションがないと困るから、ますますネットワークが重要になってくるわけだ」

「なるほどな」

「だが、連中が食い物にするのは、あくまでリアルワールドの世界に住む人々だ。ネット上で繋がっているとは言っても、風俗だの、犯罪だの、ドラッグだの、みなリアルワールドのものだし、アナログ的でもある。ヤクザはそのほとんどがリアルワールドにあって、ネットワーク上で繋がっているという程度で、アンダーネットの経済にとっての規模は、必ずしも大きくはない。特に日本のヤクザは、その点では外国の犯罪組織ほど徹底してないからな。遺伝子売買とか、企業データの裏取引といったネットでのみ取引できる情報主体になると、ヤクザ程度では手に余る」

「もっとどっぷりネットワークに使っている連中がやるわけだな。そのあたりはわかるが」

「リアルワールドに目が向いている連中は、どれも似たようなところだ。たとえば反政府運動も、テロ組織も、ネット上で繋がっているし、ヤクザなんかよりはずっと規模も大きいが、連中がネットでやることと言ったら、活動の連絡、情報交換、武器の売買などで、質的にはヤクザと何ら変わらない。それどころか、国によっては、そのネット化を逆に利用されて、公安組織に動きを掴まれているような組織もある。泳がされてるわけさ。しかもそのことに気付いていないお粗末な反政府組織もあるんだ」

「なるほどな」

 組織と言えば、やはり一番強いのは、国家だろう。テクノロジーはなおさらだ。

「宗教団体は?」

「犯罪組織とは、意味合いが少し違うかな。というのは、宗教はネットを利用して信者をつなぐネットワークを強化できるからね。より管理下におきやすくなる。お布施や祈り、説法などもネットでやればいいし、それを監視することも可能だ。信仰としてのつながりと、電脳技術としてのつながりをうまく融合させたわけだ。今、脳障害の患者に使われている脳神経と電脳ネットワークとの接続技術が一般に開放されれば、それこそ、信者の脳を教団本部の電脳とつなげて確実な組織化を図ろうとするだろう。ワイヤード宗教だな」

「その方が、犯罪組織より脅威だな」

「ただ、既存の宗教が、信者に対してそのやり方を取る場合で言えば、一般への拡大はあまりないだろうな。一般人は、そう言うものに心理的抵抗を覚える。また仮に宗教組織が、非合法な技術で無関係の一般人の脳まで取り込もうとするようならば、おそらく公安が動き、法律的にも宗教を規制する方向に進むだろう」

「宗教組織のアンダーネットでの経済力はどうなんだろう」

「リアルとネットとの両方にまたがるような勢力だが、経済力としては、所詮、宗教団体の活動範囲内のものでしかない。巨大で穏健化した世界宗教では、信者は一般市民となるから、アンダーネット経済とは関係なくなる。逆にカルト教団は規模が小さい。また、その資金は宗教施設の建設や、教団幹部の身辺でのみ使われるから、ネットワールドに浸透するほどの経済力は生まれない」

 僕は話を聞きながらデータをまとめていく。

「犯罪組織の経済はむしろ公安などの情報を参考にした方がいいぞ。警察庁電網公安局情報課のデータベースを見た方が早いな。あそこは連中の情報を逐一把握しているはずだ。なんなら、ここからアクセスしてデータをダウンロードしようか?」

「出来るなら、そうしてくれるとありがたいけど」

「別料金だぞ。貿易省は金を出せるのか? 使途を明かすことは出来ないが」

「そうだなあ」

 僕は考え、

「それは見積もりを出してくれ。兄貴に聞いて出せるかどうか、確かめんと」

「そのことだが、俺の情報は流してないだろうな。お前のことは信用しているけど、俺に調査を依頼したと言うことだけでも異常なんだからな」

「その点は大丈夫。俺自身のことも知っているのは兄貴だけだ」

「まあ信用しよう。反政府組織は、各国の情報部から情報を得た方がいい。国内の国家情報部門はやや弱いんでね。そっちも欲しければ別料金でやるよ」

「それも頼む」

 グロスターはうなずき、話を続ける。

「宗教組織はもっと簡単だ。組織の頭が情報の頭だから、情報を抜き出すのはわけがない。警察庁の思想・宗教局のデータベースもかなり充実している。国内では宗教団体も思想団体も、おとなしい方だ。今強いのは、環境保護関係だが、情報は大体筒抜けだからな。あの連中、自分が偉いと思いこんでいるから、セキュリティは甘くなっている。情報を隠しておきたいなら、自分に厳しくあるべきだ。どこにどういう見落としがあるか気付かなければ意味がない」

「その言葉は、俺にも身にしみるね」

「ま、エリンターは情報で稼ぐ仕事だからな。しっかりしとけよ」

「肝に銘じるよ」

「結構結構、お前はいいやつだ」

 グロスターは笑った。笑いを収めると、

「いま言った、国家のそう言った団体に関する情報収集なんだが、」

 と説明を続ける。

 リアルワールドに目を向けるか、ネットワールドに目を向けるか、その方向性で分類すると、公安や、国家情報部門は、その両方にまたがる存在となる。

 リアルワールドに目を向けて行動する犯罪組織や反政府組織の弱点は、ネットにある。ネットは一見すると目に見えない情報網だから、わかりにくいような気がするが、システム上は限られた技術でしかない。だからその点を注意しないと、情報は丸見えになってしまう。国家情報部門も公安も、その点では莫大な金を使えるから、相応の技術力を持っている。そして、それらの組織は、ネットを監視することで犯罪組織等の動きを把握するから、彼らの目はリアルワールドからネットワールドを見ていることになる。しかし、その存在は、基本的にリアルワールドにあり、ネット上の組織とは言えない。犯罪組織も、反政府組織も、実はリアルワールドのものだからだ。

「犯罪組織ではないが、やはりリアルとネットの両方にまたがっている存在がある」

「それは?」

「ひと言で言うのは難しいが、アンダーな請負業だな」

「請負業?」

「情報屋、ハッカーやクラッカー、人集め屋、暗殺者、破壊工作請負、傭兵」

「君のような仕事か……」

「俺はもう少しネットよりだがね。要するに仕事の依頼はみなネットで請け負う。犯罪組織が絡んでいるものもあるが、有能なやつは個人で動く。その方が、この世界では実存が曖昧になり、情報上の存在が目立つようになる。それだけ価値も高まるわけだ」

「まさに君だな」

「それなりに苦労はしてるんだぜ」

 そう言って笑い、

「こういう職業は、リアルワールドもネットワールドも関係なく活動する。ネットのプロでもあるハッカーは、その能力を駆使して情報集めからバグ探しまでなんでもやる。国家情報部門に雇われることも多い。ウイルス制作やデータ破壊などがメインのクラッカーは、ハッカーに比べると評判悪いが、電脳戦争には傭兵として使えるからな。しかし彼らはその雇い主の依頼によってはリアルワールドにも絡む仕事になる。ネットだけの存在ではない。情報屋は言うまでもないよな。俺もお前もその情報はリアルワールドで生かされることが多い。人集めも暗殺もその点は同じだ。募集や仕事によってはネットだけで活動することもあるが、リアルワールドにも関わっている」

「暗殺もか?」

「そうだ。暗殺の対象は言うまでもなく人だ。ネットだけで活動する人も、人は人。疑似人格を持つプログラムはあるが、人の足元にも及ばない。たとえば、俺は、ネット世界ではいろいろ言われているが、お前や熊田のオッサンのようにここにやってくる人間から見れば、タダの生身の人だ。生身の人を殺せば、ネット上の人は消滅する。あとは、噂や伝説だけが尾ひれを付けて漂うだけで、たとえば誰かがその噂にのっかっても同じことは出来ない。ネット上での重要人物を、リアルに殺すということは、ネットワールドに影響を与えられるという意味では、ネットに目が向いた状態だが、人を殺すという行為そのものはリアルワールドの仕事だ。しかも依頼は普通ネットで行われるからな。暗殺者は両方の世界にまたがっていると言ってもいい」

「では、もう1つの場合は? つまりネットに主眼がおかれている人々のことだが」

「それらの人間は、足場はリアルワールドにあるが、活動領域は完全にネット上におかれている」

「具体的には?」

「いくつかに分類できるな。たとえば、俺はかなりネットよりだと言ったが、ネット上だけで情報を取引する連中なんかがそうだ。情報を集めるのも、情報を提供する相手も、みなネットの人間で、ネットに関することしかない。情報社会だからこその存在だ。結果的にその情報が情報屋やエリンターを経てリアルワールドに出たとしても、それは別の人間のすることだからね」

「なるほど。他には?」

「ネットテロを仲介する連中もそれに近いだろう。依頼をネットで受け、目標もネット上のプログラムやサイト。その背後にリアルワールドのしがらみや駆け引きがあったとしても、仕事の仲介だけならネット世界の人間と言うことになる。具体的に言うと、リアルワールドから来た依頼がネットに潜り込み、ネット仲介者を経て、実行犯に行き、実行犯は電脳犯罪を実行に移す。プールに潜るようなもんだと思えばいい。プールの底にいるのがネット仲介者だ。この職業は、依頼者と実行犯を直接結びつけないことで、依頼者のアリバイを作る意味で重要なわけだ」

「そう言う意味ではアンダーワールドだな」

「そう。それらに付随して金も動く。経済的にはさほど大きな要素はないが、どのようなジャンルでも必ず存在すると言っていい。間接的にはネット経済の大きなポイントマーカーだろう。そこを見張れば、アンダーネット経済の一端が見えてくる」

「その人間が誰かってことは……、もちろん、別料金だな」

「別料金だね」

「じゃあ、それも伝えておくか」

「お役所の裏金でも、足りなくなるんじゃないか?」

 グロスターは含み笑いで言った。

「それはまあ、兄貴が決めることだからね。他には?」

「いままで言わなかったことがひとつある。実のところ、これが一番重要なことなんだが、アンダーネット経済でもっとも強大な力を持っているものがある」

「それは?」

「電脳国家だよ」



 電脳国家のことは、僕もいくらかは知っている。

 ネット上に作られた疑似国家で、国民はネットユーザー。リアルワールドの国家、すなわち地球上にある既存の国家とは無関係に存在する。国境も関係ない。世界中に繋がっているネットの上にだけあるのだ。だから、正確に言えば電脳ネットワーク国家であろうが、みな電脳国家と呼んでいる。

 電脳国家にもいろいろあり、たとえば、地域のコミュニティサイト的な「国家」もある。僕の住む立川市には「三多摩電民共和国」というのがある。三多摩地区とよばれる東京都市部(23区外の地域)に住むユーザーが参加する巨大なサイトで、イベントをやったり、防災訓練をやったり、情報交換の場を作ったり、お見合いの仲介までやっている。地域通貨の発行を請負い、コミュニティバスや商店街で利用できる。そう言う意味では自治体的な要素もあるサイトだ。

 だが、グロスターが言う「電脳国家」とは、そう言う「国家」の名称が付いたコミュニティサイトではもちろんない。

 完全なネット上の組織で、国家の体制を持っているものだ。

 たとえば「三多摩電民共和国」は、リアルワールドの三多摩地区をエリアとし、リアルワールドの上の活動情報を扱うもので、ネットにあるとはいえ、完全なリアルワールドの市民共同体だ。その電脳部門というに過ぎない。

 だが、真の意味での電脳国家(以下、単に「電脳国家」とする)は、リアルワールドに関わる部分は、「国民」が普段生きている場所と、ネットに入るための各種端末が存在するという意味だけで、基本的にそれが電脳国家の政策とは関係がない。リアルワールドの問題には一切関係なく、勝手に存在する「国家」なのだ。

 グロスターの説明を僕なりにまとめてみよう。

 電脳国家の最大の特徴は次の点にある。


1、君主、もしくは政治的代表がいる。

2、登録された「国民」がいる。

3、国家としてのルール、すなわち「憲法」がある。

4、国家活動のための各組織、すなわち「省庁」がある。

5、国民は税金を納め、国家は納税者に権利を与える。


 リアルワールドに領土がない、すなわち地球上の表面に領地を持たない、と言う点を除いて、きちんとした国家組織である。リアルワールド上の国家から承認されているわけではないが。

 特徴を順番にまとめてみる。

 1の「君主」、もしくは「政治的代表」、というのは、電脳国家の運営者である。

 君主の場合は、完全な管理者であり、電脳国家に対する権力を持つ。政治的代表の場合は、国民から選ばれて就任する国民代表か、明確な肩書きを持たない君主の場合がある。合議制の場合もあり、政策代表、とか、議会代表という意味の場合もあった。この辺り、普通の国と同じだ。

 2の「国民」は、所属するリアルワールド国家の国籍は関係ない。その電脳国家に登録されたユーザーを意味する。普通、ネットユーザーはネットの特性上、ハンドルネーム(単にハンドルともいう)を使うことが多い。電脳国家では、国民の名前はリアルワールド上の戸籍に使われる名前でなくてもよい。ただし、電脳国家には、きちんと自分の使う名前を登録しなければならない。登録名を偽って他の「国民」に対し犯罪などを行えば、電脳国家のルールを破るものとして処罰される。これは単に電脳国家の国籍を解除されるとか言う意味だけでなく、本当に罰を受けるのだ。どういう罰かというと、たとえばあらゆるネット上のアクセス権を制限される、あるいはネット上にその人物のプライベート情報(もちろんリアルワールド上の)が公開されてしまう、といったことだ。直接刑罰をくわえるものではなく、あくまでネット的な処罰であるところは特徴的だ。ただし、その結果はリアルワールドに影響を与えるという意味で効果的だし、ネットワールドから追放する意味合いにもなっている。

 3と4は、電脳国家が何をするか、と言うところにかかってくる。

 電脳国家は、2つの収入源で動く。

 1つは、直接的な経済活動。ものを売ったり、流通管理、情報管理、金融業、先物取引、ネットワークの有料利用権などで得られる収入だ。

 もう1つが、国民の税金である。それは、それぞれの国民が収めるものだから、その財源は人それぞれによる。

 その両方から予算を組むが、もちろん、足りない場合は、債券を発行することもある。

 電脳国家の活動は、ほぼその経済活動がメインで、あくまでネット上で出来るものが中心だが、それに伴う技術開発や、ボランティア、ネットを守るための電子軍の編成などもある。

 つまり、電脳国家とはネット上に作られた、リアルワールドには形のない企業集団と見ても言い。言うまでもなく、彼らの活動は、リアルワールドのためではない。自分たちのためにしかやらない。

 電脳国家の国民は税金を納める。実際にお金をネットを通じて電脳国家の指定口座に振り込む。そうすることで彼らは何を得られるのか。それはネットワークにおける特別なサービス。他では得られないプログラムや、そこでしか体験できないオンラインソフトの参加権利、他のオンラインでの特別扱い、特別なオークションへの参加、利用優先権、珍しいものの売買、電脳国家の技術や電子軍に守られ、回線速度やセキュリティでの安定したネット利用が可能。

 そして、リアルワールドの既存国家の規制や圧力を受けない電子的保護。自由性。

 ネットでしか得られないいろんなサービスの中でも、さらに特別なものだけが得られる、そう言う見返りがあった。

 でも、彼ら電脳国家の国民が、電脳国家から得られる特権は、そこの「国民」であるという証明、それが一番であった。すなわち、ネット上で活動する際に、「自分はどこそこ電脳国の国民である。国家登録番号は何々」と言うことを示せば、ネット上ではそれが一種のステータスになるのだ。あこがれの目で見られるのだ。その意味では、所属する電脳国家以外でこそ真に意味を持つものだが、しかし、あくまでネット上でのことでもある。

 電脳国家の領域外にあるオンラインゲームや、ソフトでの利用における特別サービス、ネットオークションなどでの優先権など、元々それらの特権があこがれになっていたという事情もある。

 つまり、電脳国家は、企業のサービスから始まった例が多いのだ。

 今ほど一般人がネットを利用していなかった時代に、利用促進と顧客確保のために始めたプロバイダーサービス、有料会員にサービスを付加したネットショッピングモール、広告収入を増やすためにアクセス数を高めようとしたサイトなどなど、それらの中から多くの電脳国家の原型が生まれた。

 ただし、単に企業のネットサイトと言うだけでそのまま電脳国家になったわけじゃない。

 電脳国家はあくまでネットだけで結びついた、アンダーワールド的な存在である。表社会であるリアルワールドとは一線を画している。

 ネットサービスをしていた企業から別れ、独自にサービスするようになった組織や、その関係者が自らそう言うネットサービスに特化して始めたもの、なにより、その運営者、管理者に、一種独特の、人を引きつける魅力があったということである。もちろん、ネット上で見せる魅力であって、実際の本人がどういう人物かはわからない。しかし、利用者、登録者に見せる、サービスの仕方、組織の持って行き方、そして文章やチャット、サイト内ビデオでのおしゃべり、演説、そういうものが利用者に魅力を感じさせ、その人の言うことに従おうという雰囲気を作らせていった。

「そもそも、国家というのは、人がいて、はじめて建設されるものだ。先に国家の枠が自然に存在していて、国民がそこに入っていくわけじゃない。電脳国家というのは、ネット上に人があって、そこから始まった新しい国家なんだな」

「どれくらいの規模があるんだ?」

「電脳国家の中でも、リアルワールドに対してすら力を持ってきているものがおよそ10ある。どれも、多言語で運営されているし、どこかの国だけに限定したサービスというのがない。まあ、ネットワークの未発達なところでは利用できないサービスというのはあるけどね。電脳先進国では平等にアクセスできるレベルに達していると言うことだ。だから、そのどの国に本拠があるのか、どの国の人がやっているのか、それは一切わからないのが、特徴的だろう」

「サーバーマシンの存在する場所はわからないのか?」

「国家情報機関並みのセキュリティがかかっている。ダミーも多いし、ネット上で探すのは難しいだろう。分散してリスクも回避しているしな」

「もちろん、日本にもそう言う電脳国家があるわけだな」

「ある、というのは、ネットのサービスを受けられる、と言う意味じゃなく、運営者がいる、と言うことか?」

「そう」

「それはある。俺も全部知っているわけじゃないが、運営者が誰か知っている組織もあるよ」

「たとえば、その人を紹介してくれるか頼んだら、受け付けてくれるか? 別料金だとしても」

「そうだな……。こういう情報はへたに明らかにしないからこそ、意味を持つ。俺の信用にもつながり、さらに重要な人物とのコネクションも出来るようになる」

「じゃあ、無理か……」

 僕は無理強いするつもりはなかった。彼の言っている意味は良くわかるし、それは僕と彼の間の信頼関係に当てはめることも出来る。グロスターの立場を守ることで、僕は彼からの信用を高められるのだ。単に昔からの友人という立場に甘えていたら、こうまで関係は続かなかっただろう。

 それでも、僕が少しガッカリしていると、グロスターは口元に小さく笑みを浮かべた。

「おまえって、ほんと、不思議な人間だよな」

「なんだよ、いきなり」

「お前自身は気付いていないのか、わざとなのか、よくわからんけど、お前には良いところがある」

「良いところ?」

「人に、もっとしゃべりたくさせる、もっといろんなことを教えたくさせる、そしてもっといろんな人に紹介したくなるような所だ」

「それって……」

「もちろん、誉めている。お前はつくづくエリンターに向いている。決しておしゃべりがうまいわけでもないし、人当たりがいいわけでもない。むしろ逆だろう。何となく、お前よりは俺の方が上だと思わせるような所がある。それが人をして口を軽くさせるんだ。昔から知っているこの俺ですらな」

「誉められたようには思えないんだけど」

「ははは。だが、それは良いことだ。人に、自分を大きく見せる必要がない。油断もさせられる。それに何より、人がお前により多くの情報を提供するようになる。結果的に、お前の中に、どんどん情報が流れ込むことになる。誰よりも多くのものがね」

「うーん……」

 考えようによっては良いことのように思えるものの、なんだか人々にバカにされていることを指摘されてるようでもある。

「少し時間をくれないか。そしたら、お前にある人間を紹介してやろう」

「え? それは」

「慌てるな。誰かはあとでのお楽しみだ。ま、俺でも簡単にアポが取れるわけじゃない相手だから。まして誰かに紹介するなどと言うのはね。後で連絡を取る。それでどうだ?」

「いいよ。任せる。でもそれ、別料金だよな」

 グロスターは一瞬黙り、それから笑い出した。

「わかったよ。俺のサービスだ。こいつはタダにしてやろう。あとはおまえ次第」

 グロスターとの話は、そこでほぼ終わった。それから、話のあったデータを確認するための情報について、いくつかのアドバイスがあった。より情報収集が難しいものは、グロスターに頼むことになるが、その料金についても見積もりを出してもらった。たとえアンダーワールドであっても、信頼は大事だ。むしろ、ヤクザなどがよくやる、表の一般人を標的にするようなせこい犯罪と違い、アンダーワールドでの本当の取引は、信頼がなければダメであった。これは犯罪というよりも、単に法律の目をかすめている「ビジネス」なのだから。

 そして、グロスターから連絡が来たのは、その9日後だった。

 面会の方法がこと細かく指定されたメールが送られてきた。

 10月1日、午前11時。

 僕は指定の場所に着いた。僕はスーツ姿だ。

 新渋谷クロスタワーホテル。駅の東側、坂道を少し上がったところに、大きな交差点をまたぐように支柱が立ち、その上にそびえる巨大なビルだ。

 EMMBをホテルの人の指示で地下駐車場に入れ、受付へと向かった。

 内外の人でにぎわう豪華なロビーを縦断し、受付の人に声をかける。

「8001号室の入谷氏と会うことになってるのですが」

 受付のホテルマンは素早く予約検索をすると、うなずいた。態度が変わった。

「承っております。御案内いたします」

 とやけに丁寧な対応だ。

 入谷氏、というのは、グロスターの話では、その人物がリアルワールドで使っている偽名の1つだという。

 コンシェルジュに付いて高速電磁エレベーターへ。主要な階にしか止まらない急行タイプだ。

 80階に到着する。このホテルでもっとも高い宿泊フロアである。大きなフロアに3つの宿泊ルームだけがある。

 コンシェルジュは8001号室の前まで行き、ノックした。中から声がする。

「お客様をお連れいたしました」

 再度声がして、ドアが開く。どうぞ、とコンシェルジュが手で示した。チップをやった方がいいのだろうか、と思っていると、

「お入りなさい」

 と女性の声がした。すぐに30くらいの女性が現れた。秘書か何かだろうか。我が姉貴よりも若く見える。僕とさほど変わらないのでは?

 スーツ姿でキャリアらしい雰囲気だ。

 女性がコンシェルジュに、お茶の用意を頼んだ。

 複数の部屋があり、落ち着いていながらも、調度などは非常にお金のかかっている高級品なのが一目瞭然だった。まず一生泊まらないであろう。入口から続く部屋には、家具やソファがあり、シンプルなデザインのテーブルがふたつあり、両方ともなぜか上にタワー型の大きな電脳が置いてある。企業の大型サーバークラスの筐体だ。ちょっと場違いな感じがした。

 僕は部屋を見回したが、誰もいない。まだ来ていないのだろうか。奥の部屋にいる気配はなかった。

「お待ちしてたわ。あなたがエリンターの市来英介さんね」

「は、はい。あの……」

 女性が手を出した。

「はじめまして、私が『大公』よ」

「えっ」

 女性は婉然たる態度で、笑みを浮かべた。このあたり、姉貴とは偉い違いだ。

 僕が握った手を離すと、彼女はソファを示し、

「私が女性なんで驚いたかしら?」

「え、ええ」

 素直にうなずくと、彼女は笑った。

「じゃあ、改めて自己紹介しましょうか。わたしが、電脳国家『レルム大公国』の君主、電脳大公レルム3世よ」

「驚きました……」

「正直ね。私も驚いたわ。グロスターから取材したいというエリンターがいるって話を聞いた時は」

「驚かれましたか」

「そりゃあね。私に取材を試みようって人はいないわけじゃないけど、グロスターに頼んで取材を依頼してくる人は珍しいわ。彼は、この私でも影響下におけない存在。その彼を動かすんだからね。彼とは親しいわけ?」

「ええ、まあ」

「そうなんだ。で、私に取材して、何か記事にでもするつもり?」

「いえ。……正直に言いますが、実は、貿易省に勤めている兄が、アンダーネットワールドの経済規模を調べてまして。その情報を集めているわけです。なので、直接電脳国家のことを何処かに発表する、あるいは規制をかける、といったことの調査ではありません。あくまで参考として、ということでして」

「なるほど。それで、電脳国家の経済規模を知りたいわけね」

「ええ。でも、これも正直に言いますと、他にも理由はあります」

「どういう?」

「個人的な興味でして、電脳国家って言う形態をどうして作ったのか。何か目的みたいなものがあるのか。まあ、そう言ったところを」

「なるほど。そういうことなら、経済規模から説明した方がいいわね」

「お願いします」

 ちょうどそこに、お茶とお茶菓子が運ばれてきたので、先にそれをいただくことにした。お茶も菓子も豪華だ。この部屋にしても、相当金がかかっている。それだけ収入があるのだろうか。

 一息つくと、自然に説明が始まった。

「基本的な情報から説明しましょうか。レルム大公国は、人口が約300万人。形式上は国民のリアルワールドの国籍は100カ国以上あるわね。数字上で単なるサイトとユーザー数を比較すればさして大きくはないけれど」

「でも、単なるユーザーじゃなく、国民ですよね。その300万人は」

「そうよ」

「その国民は、税金を支払っているんでしょう」

「そうよ」

「どれくらいの額になるんですか?」

「そうね、年間1億円ほどよ。そんなに大した額じゃないわ」

「では1人あたり……30円ちょっと……」

「一律で見ればね」

「違うのですか?」

「ネット上とはいえ、国民の収入に差もある。税収は最低額だけ決めてあって、上限は定めてないのよ。だから多く収める人もいる。年によっても異なるし」

「自主性ということは、余剰分は寄付的な感覚ですか? それとも、増額分に応じて権利が変わるとか?」

「後者ね。税金の額だけじゃないけど、国家に貢献すればそれだけの身分を与える。大公国は民主主義じゃないわ。貴族制度があるのよ。貴族議会で意見をいう権利があるの」

「なるほど。でも、1億円ではいくらネット上の国とはいえ、運営は大変でしょう」

「まあ、収入の大半は経済活動の方からのものだから」

「経済活動の収入源はどれくらいあって、どういうことをやっているわけですか?」

「大まかに言うと、年に800億円くらいかしら。ほとんどがいま言った経済活動で、一部債券を買ってもらったお金があるわ。でも、債券は限られている。借金経済がどんなことになったかは、戦前の日本でわかるでしょう。国家予算の4割が国債償還費だった国なんて、人類史上、日本くらいだったんじゃないの?」

「そうでしょうね」

「それも、1990年代のバブル崩壊から、世界大戦までのおよそ20年間の話よ。呆れたものよね」

 彼女はちょっとだけ感情をあらわにした。歴史上の出来事に憤慨してもしょうがないように思えるが。

「その800億円は、もちろん、政府には内緒なんですよね」

「日本政府?」

「そうです。税金として収めてはいないわけでしょう」

「まあね。私は日本人だけど、国籍は無関係の組織だし」

 と平然と答える。これでも一応、貿易省の依頼で取材しているのだけど。

「その経済活動の内訳を教えてもらえますか?」

「流通仲介費、情報管理費、ネット上の様々な有料の権利、物品の売買契約、金融取引や、先物市場。でも、特に大きいのは、権利の使用料ね。それも流通、情報管理、市場取引の3種類。また売買で扱うものは様々。高級品から武器・ドラッグに至るまで。ああ、モラルのことで批判は無しよ。私たちは誰かのためにやってるわけじゃなくて、自分たちのためにやってるだけ。リアルワールドでのことは無関係。ネット上に場所を提供しているようなものだしね」

「批判はしませんよ。いいことだとは思いませんけど」

「それでいいわ」

 と、特に気分を害した様子はない。

「情報管理というのは?」

「企業や個人の情報を有料で管理すること。企業のセキュリティなんてあってなきがごときだけど、私たちの場合は、技術もさることながら、規模が大きいから。私たちに対して情報犯罪を行おうものなら、相応の目に遭うことになる。だから信頼も得られる。それはすなわちエクサネット上での情報保護、活動上の安全、そして自由を得られるのよ」

「では、リアルワールドにも関わってるわけですか?」

「情報の中味がどうかはどうでもいいの。私たちは、単にネット上で管理していると言うだけ。なんの活動をしているかも関係ない。依頼もネットで受けるし、そもそも情報は数値と記号で出来ているのよ」

「そうでしょうが……。国家予算としては、その直接的な収入として、大体800億円と言うことはわかりました。それで、その動かせる経済規模はどれくらいあるわけですか。影響範囲も含めると」

「そうねえ」

 と彼女は、あごに指を当てて考えた。

「2兆5000億円くらいにはなるんじゃないかしら。計算の仕方にもよるけど、国民が得る収入や、関連する組織の収益、情報管理などで企業が得る利益、流通先の経済など、影響する範囲は広いから」

「2兆5000億円……」

「大企業の利益に比べたら大したことないわ」

「そうでしょうか……」

 世界の電脳国家でも10本の指には入るレルム大公国であるから、当然かも知れないが、その規模のものが10はあるのだ。小さいものも含めたら何百とある電脳国家。つまり単純に計算しても数十兆円規模の市場が動いていると言うことである。いかに大きいか。そしてリアルワールドの国家に関係なく、それらをまたがって機能し、収入から国家に税金が収められるわけじゃない。全く放り出されたような巨大市場なのだ。

「でも、うちの収入はたかだか800億円だからね」

 たかだか、といえるほど800億円は安くはないはずだ。

「レルム大公国のことは、これまで名前だけしか知らなかったのでお聞きしますが、どういう国家制度なんですか? あなたは君主なわけですよね」

「そうよ。レルム大公国は立憲君主制。自主憲法に明記されているわ」

「国民の税金や経済収入はあなたの手元へも入ってくるわけですか?」

「収入は基本的に国家の運営費に使われるの。そのデータもちゃんと公開される。そこの電脳に入ってるわよ」

 とテーブルの上の電脳を指す。

「もしかして、ここで国家管理をしているわけですか」

「まあね。ここだけじゃないし、管理というのとは違うけど」

「どういう政治システムなんですか?」

「私の元に、7人の大臣がいて、それぞれが担当を持っているのよ。具体的には財政担当、技術担当、国民担当、経済担当、防衛担当、外交担当、政策担当の7人。この7人と私で最高運営議会を行う。その下にはさらに専門家がたくさんいる。電脳国家だからネット技術が中心だし、専門家も技術者が多いけど、それが国家体制の基本ね。それに貴族議会の輔弼があるの。政策面などでのね。もちろん、システムは電脳同士の連携で動いているわ」

「じゃあ、国民が納入する税金は、その担当者の人件費やシステムの運用費、機材費などに使われるわけですか」

「そういうことよ。使い道はちゃんと公開されているわ。それが国民から金を取るための国家の取るべき態度よ。国民なくして国家無し。実体がない電脳国家は特にね」

「では、あなたご自身は、そこから収入を得ているわけですか?」

「いくらかはね。給料みたいなものだけど。大した額じゃないわよ。世のサラリーマンと同じくらいかしら」

「そうですか? ずいぶん、豪華な部屋で活動しているようですが」

 やや皮肉を込めて聞くと、大公は、部屋を見回した。

「ここはね、私の部屋なのよ。大公国の管理ではないの」

「それはそうかもしれないですけど、でもあなたの収入で借りているわけでしょう?」

「そうじゃないの。繰り返すけど、ここは私の部屋、私の家なの」

「でも、ここはホテルですよね。私の家というのは?」

 すると彼女はちょっと不思議な表情をした。微妙に、寂しげな感じの表情だ。

「この部屋の所有権を持っているの。電脳国家とは関係なく、リアルワールド上でね。ここはまあ、私を閉じこめておくための部屋、そんな所ね」

「閉じこめておく……?」

「わたしはね、ある事情から、ここにいることを定められたのよ。もちろん外出は認められているし、買い物も自由に出来る。けれど、私の住む場所は、リアルワールドの中で、ただ1つ、ここだけ」

「……」

 どういう意味だろう。誰かの命令でここにいるという意味だろうか。何か深いわけがあるように思える。

 しかし、その点には触れてはいけないようなバリアが彼女から感じられた。

「私は、ここで暮らし、ここからネット世界の一部を支配している。大公は、もう一人の私……幻なのか、理想なのかわからないけど」

 それは、僕に言っているのではなく、独り言のようだった。何となく、彼女の孤独を感じた。

 ふ、と笑みを浮かべて、僕を見る。

「それ以上は、プライベートね」

「は、はい……」

 有無を言わせないような言葉に、僕はうなずかざるを得なかった。

「経済の基本的なところは大体そんな感じかな。今話したようなことは資料としてあとで渡すわ。他に大公国で聞きたいことは?」

「えーと、ちょっと本題からそれますけど、あなたの、その称号は、3世となってますけど」

「大公国の3代目だからよ」

「では、あなたが建国したわけじゃないのですか?」

「私が建国したの」

「……? 建国したのに、3代目なのですか?」

「初代も、2代も、3代も、私なの。ただし、ネット上は代替わりがあったように見せているわけ。大公の地位を守るために、あえて代替わりのイベントを仕掛けたのよ。でもこれは秘密よ。知っているのは部外者でも限られてるし、国家内では7人の大臣だけ。大臣は代替わりしてないし。肩書きとハンドルは変わったけど。でもリアルワールドの肩書き、形式、名前も国籍も年齢も性別も電脳国家とは無関係のもの。そう考えれば変ではないでしょ。ネット上で大事なのは、リアルな私ではなく、ネット上で形作られる私なのだから」

 電脳国家の奇妙な体質のように思える。君主も国民もそこでは確実に存在するが、外から見れば幻のようなものなのだ。

「なるほど……。では、いつ建国したわけですか。また、その理由は?」

「いまの形で建国したのは12年前ね。その前段階の組織はもっと前からあるけど。理由は、ちょっとした実験、という所かしら」

 12年前、と言うと、僕はまだ高校生だった。この人は同じ年頃に見えるが、いくつくらいなのだろう。落ち着いた雰囲気や物言いから見ると、もう少し年上なのかも知れないけど。

 そのことは質問せず、別のことを聞いた。

「実験というのは?」

「そうね、ネット上に国家を作れるのかどうか、社会体制とはなんなのか、人と社会の関係とはどういうものなのか、そう言ったものを知るための実験」

「なんだか社会学的な話ですね」

「そうね。社会学、政治学の実践的な演習をしたようなものかしら」

「というと、どこかの大学とかで?」

「まあ、そんなところかしら」

「今も、バックに何かの組織があるわけですか?」

「ネット世界のことでリアルワールドの部分について聞くのは、野暮って言うものよ」

「はあ……」

「もっとも、これは言えるけど、運営に直接関わっている組織はないわ。レルム大公国は私たちだけで運営されているのよ」

「では、間接的には関わっている組織があると?」

「どうかしら。私たちに興味を持っている組織はいくらでもあるでしょう。あなたに依頼した貿易省だってそうじゃない?」

「それはまあ、そうですけど」

「私たちは、ネットだけで経済活動をしているのよ。だから、当然我が国の債券を買う組織や企業体もある。株主みたいなものだわ。そう言うのは間接的な組織といえるでしょう」

 何となくはぐらかされたような感じもする。

「では、今も運営している理由はなんでしょう。その実験というのを今も続けているわけですか?」

「実験という意味ではそうね。国家や社会に終了予定日なんてないでしょう。そう言う意味ではいつまでも続く実験よ。いくらでも新しいことが出てきて、データ収集にきりはないわ」

「それが運営している理由、ですか」

「理由の1つではあるけど、じゃあ、あなたに聞くけど、仕事をするって言うことに、理由付けがそんなに必要かしら?」

「それは……」

「いくらかの理想もあるでしょうし、こういうこともしたい、という欲もある。収入だって欲しい。でも、世の中の働いている人に、果たして、その仕事を続けているということに意味をきちっと考えている人が、どれくらいいる? 成り行きみたいなものじゃないの?」

「確かに、そうだと思いますが。では、成り行きでやってるわけですか?」

「成り行きも理由の1つよ。一旦、始めたものを、途中で放り投げるほどの理由はそうはないでしょう」

「そうですね」

 でも、この女性から感じられるのは、どこか義務感のようなものだった。好きでやっているのだろうか、そう言う疑問が浮かぶ。

「電脳国家の有り様についてお聞きしますけど」

「どうぞ」

「国家ってのは、領土、国民、組織があって成り立つものですよね」

「そうね」

「そのうち領土がないわけですし、既存の国境も関係ない。電脳国家というのはたとえばリアルワールドの国家からの解放、みたいな意義付けはあるわけですか?」

「領土ではないけど、ネットワークそのものが仮想的活動領域だから、擬似的な領土と言えなくもないわね。その範囲は無限に広がっている。リアルワールドの国境も関係ない。でも、だからといってリアルワールドに対してのそこまで思想的な理屈はないわ。そういうことを言う人がいるのは知っているけど、所詮、机上の理想よ。評論家が電脳ネットワークに抱く幻想は、現実のものじゃないわ。真の平等だとか、真の民主主義だとか、そんなのは人類にはあり得ない。人間は個々の能力、立場、その他諸々が異なるからこそ、意味があるのであって、それは、ある面では民主主義に繋がっているかも知れないけど、平等ではないでしょう。平等ってのは、敗者の不満。いや、それを口にすることが敗者になったことかもね。たとえ苦況でも、たとえ失敗しても、自分を敗者だと思わない限り、平等主義なんて考えは浮かばないわ。勝者と敗者が決まるからこそ、次のステージも生まれる。勝者でもいつかは敗北するし、敗者でも勝機は訪れる。でも平等主義にはそんなものはない」

「そこら辺の考えははっきりしているようですね。では、共産主義といったものは否定されますか」

「否定もなにも、無理でしょう。あの思想を人間がするのは。生物をやめろといっているようなものじゃない。遺伝子を否定しているようなものよ」

「それはまたずいぶんと……」

「でもそうじゃない? みなで同じように共有するのは、個体が全て同じである場合に限るのよ。でも、同じであるなら、生物である必要はないじゃない。石ころですらいろんなものがある。まして生物は多様性の存在なのよ。単細胞生物でも同じ種で競い合うのよ。まして知能のある人間に同じになれなんて」

 彼女はそこまで言うと苦笑して黙り込んだ。

 自分を少しさらけ出してしまったことを恥じるような、そんな表情が伺えた。

 彼女の考えはなんとなくわかる。

「では、電脳国家は、既存の国家と一線を画す、と言う考えはないと?」

「ないわ」

 と明確に答えた。

「そもそも、そんなことに意味があるのかしら。例えば、地球と火星でそれぞれに国家を作るのと同じことよ。地球と火星じゃ行き来できるから、他の恒星に国家を作るほうがわかりやすいかしら。たとえお互いに交流ができなくても、国家の概念に大きな違いはないでしょ。リアルとネットの国家の違いも同じ。さっきも言ったけど、これは実験なのよ。国家とは何かのね。大体、電脳国家というのを、ちょっと特別視しすぎよ。あなたに対して言っているわけじゃなくて、世のすべての人に言いたい所ね。あなた方は気付いていないってことを」

「気付いてないというのは、何をです?」

「既存の国家自体、電脳国家と似たり寄ったりだってこと」

「それはまあ、システムとしてはそうなるでしょうけど。日本も今は内閣と電議民政院による電子政府ですし」

「そういうことじゃないのよ、私の言いたいことは」

 少しいらだっているようだった。

「といいますと?」

「国家というものは、それがどういう形であれ、やってることは同じだってこと。それに、電脳国家は新しくも何ともない。むしろ既存国家の方が革新的だわ」

「そうですか? 電脳国家の方が新しいもののように感じますけど。まあ、政府は09革命とかやってますが」

「そこよ。あなた方は、09革命がなんなのかわかってない。わたしが、ここでやっているようなレベルじゃないのよ。もっととんでもないことなの。あなた個人に聞くけど、09革命はどういうものだと思う」

「社会の構造改革でしょう。肥大化した政府をコンパクトにし、さらに電子化する。必要な規制を敷き、必要でないものは廃止する。あとは……、科学と経済で国際的な競争力を付ける。環境問題に取り組み、人間の住む場所を限定し、その代わりに都市を高層化する」

「その通りよ。では、なぜそんなことをするの?」

「なぜって……、そうしないと、人類に未来はないから……」

「どう未来がないというわけ」

 なぜか次々と僕が質問を受ける羽目になってきた。

「それは、複雑化した行政組織を整理しないと様々な面で停滞が起こるでしょう。規制は経済活動を邪魔するし、でも野放しにしても秩序は乱れて安定した経済発展は望めない。……高齢化は社会を衰退させるから、ある程度年齢制限制度を設ける必要がある。それに……、科学研究を進めないと、出来ないことが多くなるし、すでに温暖化でいろんな所に問題が出ているから、環境対策も急がないと……」

「つまり、人類のための革命をしなければならない」

「そう言うことじゃないんですか?」

「そこまで考えている人がどれくらいいるかしら。単に不具合が出てきたから方針を変えている程度にしか思ってないんじゃないかな、国民の大半は」

「そうかもしれないですけど、それが普通の反応でしょう。普通に生活している人の感じる問題から見れば」

「その程度じゃない問題が近づいてきていることにも気付かないということよ」

「……? それは、どういうことですか?」

 この人はなにを言おうとしているのだ?

「いい機会だから、あなた、09革命がなんなのか調べてみるといいわ。そしたら、わたしがなぜ電脳国家の君主として、こんな部屋でネット世界に君臨しているのかわかるから」

「え? 待ってください。それじゃあ、レルム大公国は、09革命と何か関係があると?」

 彼女は口をつぐんだ。余計なことを言ってしまったような感じだ。

「……」

「答えていただけますか。今の話はどういうことなんでしょう。09革命とどういうつながりがあるんですか」

「実験よ。あくまで実験。私はただ、実験をしているだけ。レルム大公国は、私の国なの。私が好きでやっている国なのよ」

 僕は唐突に、謎の1つが解けたような気がした。

 この人は、電脳大公レルム3世となっている彼女は、政府の人間として、実験をしているのではないのか。一見、政府と無関係の彼女が、リアルワールドとは対称にある彼女が、政府関係者だったとしたら。

 さらに、このホテルの高層階にある、この豪華な部屋が、実は社会学の実験室だったとしたら。彼女は科学者で、電脳国家という実験をし、それは彼女の意志でやっているのかも知れないが、一方ではそれを背中越しに見つめる政府があるのだとしたら。

 彼女は、僕の表情の変化を見たのだろうか。それとも、何か思うところがあったのか。

 唐突に言い出した。

「政府の中に……、極秘の計画があるわ」

「極秘の計画?」

「M計画」

「M、計画……?」

「すべてのことは、そこに繋がっているのよ。……大公国は、私が勝手にやってることだけど、それも結局はM計画のため。ありとあらゆることが、あらゆる政策が、そして09革命も、本当はその計画のためにある」

「それは一体……」

 彼女は静かにほほえんだ。

「1人くらい、外にいる人間がそのことについて考えてみるのもいいかも知れない。もう、そういう段階に来ているから。あなたがその役目を担えばいいわ。M計画のことは、自分で調べるのよ。他人から教えてもらうのではなく、自分で調べるの。そしたらわかる。なにもかもわかる。私の正体すらわかるでしょう」

 正体? どういう意味だろう。彼女は僕に何かを求めているのだろうか。

 大公は立ち上がった。優雅な動きは変わってなかった。無言で僕を見たので、僕も立ち上がらざるをえなかった。

「楽しかったわ。私はなかなか生身の人間と直接会える機会がないのよね」

 部屋の入り口まで来た。ドアを開け、廊下に出る。

「今日話した大公国のデータは、グロスターに送っておくわ。彼によろしくね」

 僕は振り向いた。

「最後に1つだけ聞かせてもらえますか?」

 彼女は表情でうながした。聞いていいのかわからなかったが、

「あなたの……、その、お名前はなんて言うのですか? リアルワールドでの本名は」

 彼女は拒絶するような笑みを浮かべた。「それじゃあね」と言って、ドアを閉め始めた。僕は止めることも、重ねて聞く事も出来なかった。

 扉が閉まる少し前、彼女は手を止めた。

 やや躊躇するように、

「岸谷量子。それが、私のこの世での名前よ」

 ドアは静かに閉じられた。

 僕はドアの扉を眺めながら、得体の知れないものに見られているような異様な感覚が、少しずつわき上がってくるのを感じた。

 何か自分の知らないことが存在する。

 M計画……。

 それは一体なんなんだろう……。

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