第82話
啓歴千六百十七年、春。
アルモニカ・ヤナシンは、ヴィント・エーナスに殺された。
そう、アルモニカが頼んだからだという。殺した側のヴィントの証言では鵜呑みにもできないが、しかし、彼の言葉をちっとも信用しないと言うのであれば、これから話すことの全てがウソになってしまう。
だから、彼が真実だけを口にしていると信じて、今は先へ進むとする。
そもそも。
二人は恋仲であった。
同じ光聖に属するセイバーであり、一騎当千の実力を持つ勇者でもあった。
“接触”という不利な絶対条件ではお釣りが来る“防御不能”な魔法を行使するセイバー・ヴィント。
槍術の達人にして治癒術の熟練者、攻防相反する“二刀流”を最高の状態で行使するセイバー・アルモニカ。
男は鬼神と恐れられ、女は聖女と称えられた。
その出会いは、どこそこの戦場であった。仲間が死に、敵が死ぬ。血と鉄と砂に塗れた、ロマンのかけらもない地獄であった。先に惚れたのはヴィントだったのだろうが、しかし、先んじて愛を囁いたのはアルモニカだった。
曰く。
本当の愛を知らぬわたしでは、全ての人を愛する役割に耐えられません。どうか、燃えるほどに愛してください。壊れるほどに抱いてください。そうすれば、わたしは聖女でいられるのです。
情熱的な
愛のためではなく聖女であるため、ひいては“光聖”のためにこそ愛がいる。臆面もなく“恋愛を手段にまで貶めた”告白は、同時にヴィントをも踏み台にしようという意図に他ならなかった。ヴィントは感銘を受け、一も二もなく恋人になると決めた。精一杯に愛することを誓ったのだ。
一人の男として、皆に愛され皆を愛さなくてはならない、そんな宿命を背負った聖女の片割れを自分の好きにできる、その優越感がなかったとは言わない。だが、ヴィントの愛した女性とはまさに、どれだけ愛に飢えようとも“自らが聖女であることを忘れることのできない”哀しくも誠実な、まさしく、氷の棺に納められた鉄の槍めいて冷たい
愛は集えば嘘になる。彼女を見れば瞭然だ。
アルモニカは、そういう聖女としての肖像を裏切らなかった。断る理由などあろうはずがない。一切の疑義を挟む余地もなく、自分にできることをしなくては。
彼はその日、苦せずして二つの愛を手に入れたのである。
アルモニカ・ヤナシンという、一人の女性。
アルモニカ・ヤナシンという、大衆の聖女。
その恋路は決して平坦なものではなかったが、生半に生きてきたわけではない二人にとって見れば平易なものでもあった。
例えば、聖女の色恋という性質上、二人の恋愛は秘匿されなければならなかった。愛に偏りがあってはならない聖女がたった一人の男に入れ込んでいるとなれば、その意味が剥奪されてしまうからである。
むろん、聖女でなくなったとて個の戦力に変わりはない。しかし、数の上では常に劣勢である光聖の士気は、彼女のような存在……目に見え、地に立ち、燦然と輝く希望によって支えられ、どうにかこうにか成り立っているようなところがあった。これが失われ士気の低迷を招けば、もはや彼女個人の問題には留まらなくなる。何千、何万という戦力の減衰、あるいは喪失にも繋がってしまうのだ。未来を掴むため、それだけは絶対に避けなくてはならなかった。
故に、逢引だけが許された。密会だけが頼りだった。誰にも目撃されぬよう、口の端の噂にものぼらぬよう、まるで罪を犯すかの如く(事実、それは罪にも等しかったのやも知れないが)、細心の注意を払わなければ手を取ることもままならなかった。ただでさえ忙しく前線に駆り出されている二人にとって、その“秘匿されなければならない”という枷は致命的であり、二人きりの時間はほとんど取れなかったと言って良い。
影の重なる日は、月に二度あれば良かった。
それでも、二人の仲は冷めるどころか火勢を強め、ますます順風であった。死地の克服が日常となり、二人で織る安らぎが非日常となる。恋とは、障害があればあるほど燃えるものらしい。誰が言ったのか、そういう分かった風な格言は真実であったのだと、ヴィントは初めて体験したのだった。
幸せの絶頂にあり、転機は唐突に訪れる。
例に漏れず久しぶりの逢瀬となったある日に、付き合ってみれば案外とわがままであったアルモニカが、いつもの調子でこんなわがままを口にしたことが始まりだった。
曰く。
わたしは弱い人間でした。もう生きることに疲れました。ですが、一人で死ぬことはあまりに恐ろしい。ああ、愛しいヴィント、どうかわたしを救ってください。
詳しい理由をアルモニカは話さなかった。しかしヴィントには何となく、その真意が伺い知れていたから、聞くこともしなかった。
なんの装飾もない無骨な、しかし一眼に切れ味の鋭いと分かるナイフを手渡されて、目をつむる。
セイバーの肉体は生半な刃では貫けない。例え女の柔肌であってもだ。分かっているからこそ、そのナイフは重い。
光聖の人間として、ここでアルモニカを殺すことは許されなかった。当然だ、それが魔者との戦争において何の益にもならないことは自明である。セイバー足る者、一も二もなく拒否しなくては。無益な行いを重ねている余裕など人類にはない。そう頭では結論し、ヴィントはこの結論をこそ否定した。
抵抗できなかった、と言うべきか。
アルモニカに逆らおうなどと、最初から無謀だったのだ。彼女の愛が全ての人間に受け入れられるのは、アルモニカという人間の在り方が“他者の抵抗をすり抜けてしまう”ようにできているからである。魔法でも技術でもない、アルモニカはそういう
言われるがままにアルモニカを刺し殺し。
子どものように泣きながら、自分だけが逃げ出した。
血を流して倒れる愛しい人を振り切って、彼は初めて知ったのである。その、死に際してうつろう瞳に映った情けなく、必死の形相をした己を見て初めて気づいたのである。
自分という人間が、今日この時まで生きてこられたのは、自分が生に執着していたからに過ぎない。
彼の戦いは世界のためでなければ、人類のためでもなかったのだ。ひたすらに、死にたくない一心で戦場を駆け、剣を振るい、魔法を放っていた。彼が求めてきたものは安穏だ。恋い焦がれてきたものの正体がついに露見する。アルモニカの死は、そうやって、とうとう手に入れることの叶った安穏を自ら放棄したに等しい。
この場は逃げ果せても。
彼にはそれが、自分という視野狭窄、無知蒙昧で矮小な人間が行き着く結末であるように思えた。
自らの安全に固執する以上、どんなに親しい人間であっても、それが自分の安全に必要なら切り捨ててきた、ただそれだけのエゴが光聖の理に適っていたように錯覚していただけではないか。
恐ろしくなると、もう逃げ出すしかなかった。
古巣を背に、当てもなくさまよい、やがて一つの都へと辿り着く。
それが、ベリオール・ベルであった。
光聖の威光から逃れる異端の都、歓楽に陥落する地獄、その有り様はヴィントの映し身のようであった。
他人の温もりを求めて踏み入り、彼は一人の女性に出会う。
ナシャーサ・ナイトアリンという名の、ほとんど同じ時期に流れてきた
傷の舐め合いに始まって、二人は何となく一緒にいるようになった。ヴィントはアルモニカのことを悔いていたし、ナシャーサは昔の男のことをいまだに引きずっていた。付かず離れず、だから二人はうまくいっていたのに、ある日になって忽然と、ナシャーサが姿を消した。
また愛する人を失うのか。既に一人の女を切っておいて虫の良い話である。自覚はしながら、しかし孤独に耐え切れず、ヴィントはナシャーサを探してベリオール・ベルを出立した。
もはや、セイバーとしての責務など捨て去っている。世界を守るために得た力を、己の欲のためにだけ振るう。背信の報いなのか、成果は一つとして上がらなかった。
二年も経って、ヴィントは
死んだはずのアルモニカの姿。
勇猛な甲冑姿から清貧な修道服へと変わっていたが、燃えるほどに愛し、壊れるほどに抱いた女の姿を彼が見紛うはずもなかった。
ああ! 何という運命!
すぐにでも彼女の目の前に出で、膝をつき、あの過ちを懺悔しなくては!
そうして、今度こそ願いを果たすのだ!
荒みながら過ごした数年で、ヴィントの心はすっかりと様変わりしていた。果たすべきは果たさなくては、その機会は何かに奪われる。果たすべきは果たさなくては、その機会は自らに棄てられる。大切なのは迅速な判断だ、迷うなとは言わない、ただ、可能な限り速く決断すること。時は容赦なく景色を変える。たった一つの足踏みが、うつろう景色に後悔だけを残していく。どれだけの遠回りをして、その真理に辿り着いたのだろう。
その、光聖に属して最初に教わる教理に。
これも報いか。
本当なら取り返しが付かなかったはずの失敗を、今ならやり直せる。
ヴィントは急いた。アルモニカの傍らに別の誰かがいたのだから、なおさらに焦った。だが、その肩を掴んで引き留める者がいた。
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