第78話
森から、何か、黒い影が飛び出した。空に向かって真っ直ぐに昇り、遠目の月に重なった。
ば、と広げられた一対の翼は、地に這う者を威圧するようであり、また、自由を手にした喜びを謳うようでもあった。
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
浮遊する影から発せられた、綺麗な音。けれど、それは既に生き物から鳴る音ではなく、管楽器のようであり、打楽器のようであり、温もりを秘めながらも透明に澄み切った氷を思わせる、鋭く甘ったるい音だった。
「リノン。……魔者ってのはさ」
ぺたと座り込んだティアフが、この音の余韻も消えない内に俺の背中に話しかけて来た。声が震えている。美しくも恐ろしい、その音に
「一説によれば、あたしたちを恨む気持ちの集合体なんだって。世界を覆うほどに大きな恨みは、とうとうそれを晴らすためだけの者を生み出したんだ。だからそれは、その存在の全てが恨みを晴らすためだけにある。あたしたちを否定するためだけにそれはあるんだ、と」
「分からないでもない話だ。俺が
「そうかい? あたしはさ、今初めて、その俗っぽい説を信じる気になったよ。恨むと言っても、じゃあ、“最初は誰の恨みだったかも分からない”んじゃ、下らなくて論じる気にもなれないって思ってた。でも、そんな次元の話じゃなかったんだな、きっと。理屈を通り越してる。その説を最初に唱えた奴は、今みたいな気持ちでそう言い表すしかなかったんだ」
「今みたい?」
「心臓が止まりそう」
気持ちと前置きしておいて、ティアフが口にしたのは感情ではなく現象だった。けれど、当人にしか把握できない感情のあれこれを説明されるよりもずっと、俺にはすとんと得心がいった。
音さえも、ということだ。
“その存在の全てが
それは現実に、音を聞いただけのティアフに負荷をかけた。単なる例え話だと言われればそうなのかも知れない。けれど、その鼓動が、命を刻む大切な脈動が止まってしまうのではないかと心配になるほどの負荷は、ティアフの心臓に確かに圧し掛かって来たのだ。
信じるしかない。錯覚であっても、体感させられてしまっては否定するにも遅すぎる。
同時に“アレ”はもはや別物になったのだと、ティアフの震える声から察さざるを得なかった。アレは、そんな凶器じみた音を出してはいなかったはずだ。
月を背にする影が横に薄くなった。次第に大きくなっていく。頭をこちらに向け、開いた翼を星になびかせ、月を隠しながら、堕ちるように近づいて来ている。
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
それまでが絶叫であったなら、今のそれは歌唱であった。
突きつけるのだ。
ティアフの存在深くにまで否定の音を響かせる圧倒的な表現力。身体的な負荷ではなく、精神にこそ加重される悪意の音色に、だからティアフは抗えず、恐怖し、震え上がるしかなかった。
影の正体が目視できる距離に来る。
と言っても、今更確認する必要などまるでなかった。どんな化け物が来るかは分かり切っていたのだ。それに、目視できたと思った直後にはもう、猛スピードで突っ込んできたソレと俺とは交錯していた。
「よお。さっきぶりじゃないか」
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
同じ楽器を、同じ音階で、同じ調子で鳴らすように。
その、スケアリーランスの発する音は最初から
否定、否定、否定。それ以外の全部を森の中に置いてきてしまったかのように繰り返される、愚直なまでの否定。
けれど、そうまで
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
三本の槍が襲い掛かって来る。こちらの腕一本では防ぎようがないが、防ぐつもりもなかった。全てが俺の肉体に突き刺さると同時に、槍を伝って肉を這わせてスケアリーランスの三本の右腕を覆い、槍ごと潰す。
ぐしゃん。スケアリーランスは
厚く堅く展開した肉は貫通を許しはしなかった。代わりに、突き刺さった槍の全てが爆裂し、俺を粉微塵に吹き飛ばした。爆風までは抑え切れず、ティアフがごろごろと向こうへ転がっていくのが見えたが、まあ、あの様子なら打ち身に擦り傷ぐらいで済むだろう。きちんと、頭を丸めて防御できている。
むしろ、防御できていないのはこちらの方だった。
やれ! と号令すれば、塵になって弾けた肉片一つひとつから何百もの触手が飛び出す。縄のようにたわみながらも鉄のように硬いそれは、捕縛ではなく串刺しのため、枝葉のごとく展開する刃だった。
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
まともに喰らえば全身が虫食いになる。しかし、聖なる光を操るスケアリーランスにかかれば、周囲に聖属性の魔法を展開するだけで防げてしまう。たったの一声が、無数の触手を粉砕する。どれだけ肉を凝縮して固めても、俺が魔者である以上は避けられない理不尽なまでの属性差だ。スケアリーランスを中心にして同心円に広がる光の波は、実体のない俺の意識にさえも作用して握り潰そうとする。
だが、耐えられないほどじゃない。ヴィントに喰らわされた
やがて、歌のような魔法が終わる。
意識は残した。ぎり、と俺の意識がある方を四つの目で睨みつけるスケアリーランスに応えて、俺は自分の姿を再生するよりも前に二の矢を放った。
ざく。
【――――!?】
鳥と人を掛け合わせたような異形、その二つの顔に声もなく苦悶が滲んだ。突如、全身に触手が生える。背中から正面に向かって、無数の触手が貫通したのだ。攻防を終え、全ての触手を弾いたと安堵した隙を狙っての死角からの奇襲だった。二の矢は大成功で、頭も胸も穴だらけ。普通なら死んでいてもおかしくないが、その常識を難なく覆す驚異的な生命力は“こんな姿になろうとも”健在のようだった。
【リ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ン】
しばしの間を挟んで、スケアリーランスが
これでは、先ほどまでの不毛な争いを繰り返すだけだ。いや、より凶悪な姿になって帰って来たスケアリーランスを見るに、戦況は向こうに有利に傾いている可能性さえあった。
そう、スケアリーランスは今や、森の中で戦った姿をほとんど残していなかった。
身体が一回り大きくなっているだけでなく、右腕は本数がおかしいし、頭は一つから二つに増えていた。一方は今までと同じスケアリーランスの顔。そしてもう一方が、シスター・アルモニカのソレ。血走った目を見開き、牙のようになった歯を剥き出しにする様は、もはや優しく微笑む
本当に、彼女が変異したものなのだと実感するには十分な変わり様だった。
俺の戦意が鈍ることはない。魔者を殺すのも人間を殺すのも、一様に“何とも思わない”。だが、その変異によってスケアリーランスが強力になっているかも知れないのは気がかりだった。より不毛になるならばより一層、勝負の切り上げ時と、ティアフへの流れ弾防止を考えなくてはならない。その懸念から慎重になり、傷を癒すスケアリーランスをひとまずは観察しようとして、俺ははたと気付くのだった。
“観察”、だって? 悠長に、そんなことをしている暇は一度目の時はなかったはずでは?
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