第75話
「アル」
潰された喉の再生も終わっているのか、声はきちんとこちらまで届いて来た。だが、反応する者はなく、その呼びかけは虚しくも月明かりに消えていった。
「アル。アル。聞こえているんだろう、アルモニカ」
ちらりと、スケアリーランスの黒目がアールエンに向く。一度は殺したはずの女が蘇り、こうして立っているのを見て、スケアリーランスは何を思ったのだろう。相変わらず表情からは内面を読み取れない。しかし少なくとも、何らかの興味を示したようには見えなかった。
【キッ――――!!!!】
スケアリーランスが動いたのは、そう推察した瞬間だった。身体をアールエンに向けると、思い切り振り被ってから槍を投げたのである。
【ギアアアウ!!!!】
真直線にアールエンへ向かう槍。それに向かってスケアリーランスが吼えると、槍が光を放ちながら分裂した。正確に言えば、木と鉄の槍と同じ形の光が、その周囲に何十本と生まれたのである。一瞬にして、滴が雨となった。受けるにせよ避けるにせよ、今のアールエンには厳しい攻撃だろう。
ざく。
どう処理するのか。その答えは意外なものだった。
ざくざくざくざく…………。
中心にある木と鉄の槍だけを掴んで受け止め、それ以外をまともに受ける、という捨て身に近い防御。胴、手足、顔にまで光の槍が刺さろうと、アールエンは顔色一つ変えなかった。
「懐かしいね、アル。君の得意な魔法だった」
痛みなど感じていないように、……自身に刺さる光さえ愛おしいと言うように、アールエンは微笑みながら何事かを語り掛け、握っていた槍ごと自分に刺さった全ての光を消滅させた。分裂した光の槍は言わずもがな、その元となった木製の柄と鉄製の刃も見せかけ、その実は聖属性の塊である。同じ属性の扱いに長けるセイバーになら分解は容易だ、ということなのだろう。
歩き出したアールエンにひるまず、スケアリーランスが再度吼えた。投げれば飛んで、啼いては増える。二度目の投擲、光の分身の密度は見るからに増したものの、アールエンの採る行動は変わらなかった。
まるで堪えていないのか。俺が喰らえば木端微塵になっていそうな聖なる雨も、まるで岩石に打ち付けられるように何の意味も成さない。三度、四度と繰り返しても結果は同じ、やがて、アールエンは無傷のままスケアリーランスのすぐ近くにまで迫った。
「ウイクは制御の難しい魔法だ。けど、魔に身を堕としてなお、君はその魔法が使える。やっぱり、アルはすごいや」
【ギギッ――――】
何なんだ、こいつは!
きっと、スケアリーランスはそんなようなことを言ったのだと思う。死に体とはいえ一度は殺した相手だ、それも、驚くほどにあっさりと。だというのに、今のアールエンには全く歯が立っていない。大人と子ども、いや、その差はもっと酷く、壁を相手にキャッチボールをしているようなものだった。何の手応えもなく、壁に跳ねたボールは勢いを失って地面に転がり、こちらまで返って来ない。
投げた槍は受け止められ、刺さった光ごと破壊される。その身に傷はなく、それでは、最初から攻撃していないのと同じだった。
その声は、スケアリーランスが初めて見せた動揺だったのかも知れない。鳴きながら突き出した槍がアールエンの額を突く寸前、彼女に捕まれて動きが止まる。
「だから、残念だ」
掴んだ槍は消滅せず、折れもしなかった。そして、固定されてしまったかのように動かなくなった。押そうが引こうが、スケアリーランスの力ではどうにもならないらしい。
「リノン、ティアフ」
どういう理屈か、手を放すことさえ叶わないのか、スケアリーランスは槍を握らされたままあがき続けた。猛獣の牙めいた太く鋭い足の爪も、見えない壁に阻まれてアールエンには届かない。何度か繰り返して、スケアリーランスは早々に抵抗することを止めてしまった。
「これはわたしが抑えているから、さっさと逃げると良い」
「な……マイナーを、見逃すのか?」
「おまえたちを追う理由はない」
「セイバーだろ? 理由なんてそれで……」
「ないんだ」
ぴしゃり。怒鳴ったわけではないものの、それ以上の問答をするつもりはない、という明白な意思表示だった。
後は話すだけ無駄か。セイバーでありながらマイナーを追わない。俺を殺すために命を懸けたアルマリクのセイバーたちとは裏返しの態度。理解はできないが、無理に分かろうとする意味もなかった。これからも殺し合うだけの運命にあって、その対岸にいる者の理念など知ったところで何の得にもならない。会話を拒否する彼女に食い下がってまで、それを聞き出す意味はどこにもないのだ。
だから、俺はもう、このベリオール・ベルで始まった戦いにも終止符が打たれたのだと感じた。幕が下りる。照明が落ち、緞帳の裏では役者が降壇していく。劇的な結末ではなかったが、お互いに守るべきものを守り通して終わるのだ。俺というマイナーには出来過ぎた、静かで平和なハッピーエンドだった。化け物に刃向かって死んでいった数百の命にも感謝の一つぐらいは捧げておくべきかも知れない。
「行こう、ティアフ」
両手で横抱きにする間も、ティアフは押し黙って、目をつむったままだった。説得する、なんて作戦を用意していたのに、アールエンが存外に物分かりが良かったせいで、それも無事に無用となったのだ。殺す気のないマイナーと、斃す気のないセイバー。例えるのなら、往来ですれ違う見知らぬ人にも等しく、両者にはもはや何の接点もなかった。道行く人の全てに挨拶や会釈をしないのと同じ、俺は黙ってこの場を離れれば良い。
「アールエン」
心の底から……ではないにせよ、それは本心だった。だから、アールエンの名を呼んだのは俺ではなかった。
「もしあんたが敵になるのなら、その時は嫌がらせをしてやろうと思ってたんだ」
ティアフはそちらを見るでなく、うわ言のように明かした。聞こえてはいるだろうが、アールエンは答えなかった。代わりに、ギイ、ギイとスケアリーランスが啼いた。
言葉が分かって反応しているのではなく、単にタイミングが重なっただけの話だろう。人の顔をしているから、その言動には理性があるように見えてくる。羽ばたいてわずかに滞空しながらも大人しく、だが、その姿は確かに異形、人ならざる者だ。理性だなんて、たちの悪い幻でしかなかった。
返事など期待していないのか、ティアフは深く息を吐きながら、続けた。
「使わずに済んで良かった。きっと、あんたは壊れちまう。シスターも」
「いや、……何をするつもりだったんだ、おまえ」
「嫌がらせだよ。趣味の悪い」
ギイ、ギイ。沈黙を守るアールエンに代わって抗議するようにスケアリーランスが啼いた。それも、そう聞こえるだけなのだろうけれど。
しかし、それらの行動とは別に、例え理性がなくとも、スケアリーランスは今の状況をいかに脱するかを必死になって考えているはずだった。こう着の次にやって来た被制圧。俺と戦っていた時よりも分が悪くなって、スケアリーランスは手も足も出なくなっている。対峙するアールエンに何らかの魔法を使ったような素振りはなかったが、表に出していないだけで、それは密かには行われていたのかも知れない。その、俺の目には映らない“何か”がスケアリーランスを縛っている。縄も錠もなく、自由を奪っているのだ。
俺を追わずともセイバーはセイバー。特殊とはいえ、魔者を相手にして引けはとらないということだ。
ギイ、ギイ。だから、その鳥の声とも女の悲鳴ともつかぬ不気味な音は、アールエンへのせめてもの抵抗なのかも知れなかった。
「都へ戻ろう。教会から荷物を取ってこないと」
「戻るのか?」
「ゴングは倒したし、セイバーだってハナからいないそうじゃないか。何の問題もないだろう」
確かに、今のベリオール・ベルに俺たちの行く手を阻むものは何もないのだった。元々、出発はそろそろと思っていたところだ。食料その他の用意にぬかりはない。さくっと教会へ寄って、荷物を取ったら出て行けば良いのだ。
このやり取りを耳にしても、アールエンはやはり一言も口を利かなかった。ギイ、ギイと表情を凍りつかせたまま啼き続けるスケアリーランスの声を背に、俺たちはベリオール・ベルの方へと歩き出した。
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