第74話

「あの傷が、もう治ったのか?」

「全快じゃないだろうが……。……つくづく、化け物だな」

 呆れる他にない生命力である。息があった時点でどうかしているという致命傷を、俺の助けがあったとはいえ十数分で動けるまでに治癒してきたわけだ。俺やスケアリーランスとは並び立たないにせよ、その生命力は人間が留まっておくべき範疇を立派に逸脱していた。

「こっちに来るのか?」

「触手を辿って来てる」

「くそ、敵に回られたら厄介だな」

 ティアフの懸念は当然である。命を預け、共同体として戦ったのも今は昔。現在の状態を問わなければ、シスター・アルモニカの奪還は既に成っているのだ。その上で、セイバー足るアールエンがマイナー足る俺に協力する理由は何一つなかった。

「アダになったな、リノン」

 呆れるティアフにも、返す言葉など有りはしない。同情が刃になって返って来る、むろん、その可能性も承知した上での処置だったのだ。

 だが、もし敵が二人ということになれば厄介には違いない。アールエンの生命線である触手を切り離しておくぐらいの手は打っておいても良いかも知れなかった。ある程度まで回復しているのなら、俺の補助などなくとも後は勝手に治していけるだろう。ここに来ても戦うまでには回復していなければ、いないも同じ、邪魔にはならない。

 と、アダの穴埋めを考えている俺とは別に、非難がましく他人をつついておいて、ティアフは全く違う風にアールエンの復帰を受け取っているようだった。曰く。

「けど、うまくすれば突破口にも成り得る、か」

 アダではなく。

 言葉通りに解釈するのなら、アールエンがあるいは俺たちに利すると、そういう意味である。

 だが、それは最も有り得ないシナリオだった。協力関係は終わっているし、“あの”アールエンが俺たちの側につきシスターに手を出す様は想像もできなかった。その槍に抵抗せず貫かれたような人間が、どうして今更手の平を返そうか。

 ハルピュイアだろうが、ティアフを狙っていようが、それはシスター・アルモニカなのだ。アールエンはきっと、彼女の全てを肯定して守ろうとする。

 それだけの想いがあってこそ、腹を抉られるような怪我を負い、マイナーとさえ手を組んで彼女を助けるために力を尽くしたのではないか。

「そう。そこにこそ穴がある。……どうせ、今のままじゃ手も足も出ない。こうなったら腹をくくって、アールエンが現状を崩す鍵になってくれるように祈る方が前向きだろう」

 自分に言い聞かせる意味合いもあったのか、ふうと深く息を吐くと、ティアフはそれきり本格的に腰を据えてしまった。大した度胸である。その“鍵”であるアールエンが来る前にスケアリーランスが動き出すことだってあるだろうに、まるで、その可能性をばっさりと捨ててしまったみたいだった。

 もちろん、腰を据えようが据えまいが、ティアフの体力は底をついているのだから同じことである。いざとなれば守れはせず、避けられもしない。分かっていても、その現実を受け入れ、観念して潔さは普通の人間には持ちえないだろう。

 それもこれも、彼女を支配する独特の価値観の成せる業。生き残る可能性があり、かつ、自分の命を賭けた方が後の状況が良いと判断できたのなら、平然と博打に打って出れる強い心臓。良く言えば、命の使いどころを弁えているのだ。戦いを予感してナイフを構えるのと同じように、抜き身の命を扱える。

 しかしそれは、悪く言うのなら……。

「リノン」

「何だ?」

「アールエンの説得はあたしがやる。おまえはあたしを守っていれば良い」

「説得、ねえ。通じるのか、そんなの?」

「やるしかない。戦ったらあたしが死ぬんだ」

 全く、ティアフの言う通りだった。

 アールエンもスケアリーランスも、聖なる魔法を使える以上は俺を無力化し得る。俺を無力化し得る以上は、その剣が、その槍がティアフにまで届く可能性が大きくなる。戦いはなるべく避けなくてはならなかった。

 今はただ、待つのみだ。この夜は長いようで、明けるにはまだ時間がありそうだった。風のない森は静かに過ぎる。棲んでいるはずの動物たちの気配さえなく、まるで墓場のようだった。あるのは、ばさ、ばさ、と調子を崩さずに続くスケアリーランスが羽ばたく音だけだ。

 この魔者は何を思って、こう着を破らずにいるのだろう。俺たちと同じようにアールエンの登場を待って、こちらを牽制しているのか。

 そんなことはまず有り得ない話……とも言い切れなかった。頭や心臓を潰されても回復してしまうほどの高度な回復魔法を使うのだ、言葉は解せずともそれなりの知能を有していてもおかしくはない。その思考が、不毛なやり取りの末に辿り着いた均衡、破るためには第三者の力、外的要因が必要だと、俺たちと同じ判断を下していても不思議はなかった。

 で、あるならば幸いだ。真実はともかく、スケアリーランスは本当に、その時が来るまで一切の動きを見せなかったのである。

 ひとまずは、第一関門を突破した。

 息を吐く間もなく第二関門が現れる。息を切らしたアールエンは、俺とティアフに対しスケアリーランスが向かい合う、そこから少し離れた位置までやって来て足を止めるのだった。

 言葉はなかった。破れた服の隙間から伺うに、表面上、傷のほとんどは癒えているように見えた。出血の全てが止まっているわけではないが、先の怪我の具合から比べれば微々たるもの、命どころか、少しぐらいの激しい動作にだって関わりはしないだろう。

 つまりは、簡単な戦闘を行える程度の体力を蓄えてきた。半死人でも、セイバーの脅威は変わらない。

 スケアリーランスは俺から目を離さず、俺もまた目の端にアールエンを捉えながらも、その意識の大半はスケアリーランスの様子に割いていた。構うことなく目をつむって時を待つティアフは、まるで眠っているかのように穏やかだ。アールエンだけが、最初は事態の把握に努めようと方々に目を向け、それからやっと、口を開いた。

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