第73話
俺とティアフの置かれている状況は先刻から変わっていない。翼をはためかせて低く滞空するスケアリーランスが、こちらをじいと睨んでいる。方策を巡らせているのか、何かの機会を伺っているのか、星のない夜を落とし込んだような真黒の双眸からは読み取れやしない。
分かるのは、その冷たい色からは、シスターの瞳に宿っていた慈愛、その一片だって見つけることができないということ。名残がなく、面影もない。人と魔者では当たり前なのだろうが、顔つきも全く違っていた。ティアフが口にしたことはつまり、道端の石ころを指して、それがシスター・アルモニカだと言っているのと何ら変わらないぐらいに現実味を帯びて聞こえなかったのだ。
「冗談……」
そう、悪い冗談じゃなければ何なのか。続くティアフの声にはしかし、少しもふざけた様子がなかった。
「おまえが死んでいる間に、ヴィントがシスターを連れて行った。わたしが後を追いかけて、その後にアールエンが追いついた」
俺が肉体ごと意識を失っていた間の話である。
無謀にも、ティアフはヴィントの足止めを買って出た。それから、アールエンが追いついてくるまでは彼女の描いた通りだったという。構図としては二対一、ヴィントがあっさりと降伏しないにしても、二人がかりなら負けはしないだろう、そういう状況を作ることがティアフの目的だった。アールエンが死にかけているマイナスは、ヴィントが死にかけているマイナスと無傷の自分で相殺。ベリオール・ベルを出てすぐ、丁度アールエンたちが倒れていた場所でヴィントに対峙した二人が、後はシスター・アルモニカを取り返すだけという段になって出鼻をくじかれた。
最初に動いたのは誰あろう、シスター・アルモニカ自身だったのだ。
「自分で逃げたんだって思ったよ。ヴィントの手から抜け出して」
ばた、と地面に落ちたシスター・アルモニカが、見る見る内にあんなになる。
まるで、満月の夜に変身する
緑の羽毛に覆われたハルピュイアは、驚いて立ちすくむヴィントの心臓を一突きにし、アールエンの喉にも槍を突き立てた。二人ともが無抵抗だったのは、大怪我のせいで防御さえまともにできなかったからか。それもあろうが、しかし、どんな姿になろうとも、彼らにとってはそれがシスター・アルモニカだったからという方が大きかったように思われた。
「すぐに逃げたよ。あの時みたいに」
父親の死の惨劇を思い起こさせる殺し。ティアフはそのトラウマを振り切って逃げ、何とか、俺が助けに来るまでの時間を生き延びたのだった。ぎりぎりである。彼女もアールエンも死なせかけたが、それでも今のところはぎりぎりで救えている。後はスケアリーランスを……シスター・アルモニカをどうにかすればハッピーエンド、憂うことは何もなくなるのだった。
「でも、手立てと言ったって……」
戦うこと自体にはちっともためらいはない。こんなになっても元はシスター・アルモニカだ、ティアフの命の恩人には違いないが、恩情をかけてティアフを殺されては元も子もなかった。それでアールエンの怒りを買うのも仕方のない話である。最初から水と油、セイバーとマイナーは手を取り合う運命にはないのだ。そんな心配は今更だった。
問題はむしろ、もっと単純なところにあった。つまりは、まともに戦って勝てる相手ではない、という覆しようのない事実だ。俺がいくらスケアリーランスと互角に戦えるからと言って、その戦いに勝ちも負けもないのでは何の意味もなかった。故に、真正面から殴り合って状況を打破する、いつものように単純な作戦は採れない。
であれば、作戦の方向性は逆に向かなくてはならなかった。立ち向かうのではなく、一も二もなく脱兎の如く逃走する、真っ向切っての戦闘放棄こそ最善である。要するに、今の俺の目的はスケアリーランスを斃すことではなくて、その脅威から逃れることにあるのだ。ティアフを守り通す、その一点に主眼を置くのなら、ただ連れて逃げ出せればこの戦いは終わりだ。
それが簡単にできるのなら、俺はとっくに逃げ出していただろう。しかし残念ながら、敵は空を飛べるのだった。地を這うだけの俺たちが、飛行する追っ手を撒いての逃走を成功させるのは困難であると言わざるを得ない。
次点としては、状況の半放棄。俺が囮になってティアフだけを逃がす策だ。重ねてになるが、彼女を守りながら戦い続けることは、彼女に危害が及ぶ可能性がゼロでない以上は好ましくない。アールエンの命を繋ぐ触手の管が斬られる危険もあった。しかし裏を返せば、ティアフさえ逃げ出してくれたのなら、俺が気にかけるのは“最悪失っても良い”アールエンの命綱だけとなる。救いの手を差し伸べて置いて見捨てようと言うのだ、虫の良い話だが、それでスケアリーランスとの泥仕合を始めるには十分な条件が整うのだった。決着がいつになるかはさて置き、持久戦ならこちらに分があるだろう。
だが、肝心要のティアフがこれらの案について、首を縦には振らなかった。前者については、やはり逃げ切りを図るには不利が過ぎるから。後者については、彼女は自嘲的な笑みを浮かべて。
「あたしは、もう一歩も動けないぜ」
と、その理由を口にした。
死は既に目の前にある。というのに悲壮感はなく、すっかり諦めてしまった風にも取れる無気力さだった。実際足が動かないのでは、自分だけで逃げることは不可能だと認める他になかったのだろう。しかし、命まで捨てたわけではないのが、その疲れ切った瞳の内にも見て取れた。
「何とかなるか、リノン」
なぜなら、俺という矛にして盾がここにあり、まだ戦えるから。死ぬと決めつけるには早いという、それはいかにも打算的な結論だった。ある程度の信頼もあるのだろうが、歯痒いことに、今の俺には彼女の要求に応えるだけの方策が見出せかった。負けはしないが勝てもしない。俺が掴み得る勝利とはつまり、“結果論としての勝利へとわずかに傾いた不均衡を地の果てまで続ける”だけの地味な作業に過ぎないのだ。端的に言えば、“敗北がないから最後には勝つ”という乱暴な論理。一見すると無敵だが、そこにはいくつかの穴があった。例えば今回のように、“
“負けはしない”……その前提が崩れるからである。
答えあぐね、口を噤み、俺はスケアリーランスと睨み合っていた。視線を逸らして来ない辺りから察するに、戦闘意欲を失ったというわけではなく、単に俺と同じ状況にあるだけの話のようだった。いっそこのままにらめっこを続けて、その内にスケアリーランスの方が飽きてどこかに行ってしまってくれれば事は楽なのだが。
まあ、望み薄とはいえ、それも有り得ない話ではないだろう。致命傷まで回復する“
ということは、最善は逃げることでも逃がすことでもなく、“現状維持”なのか……?
「ん?」
そんな他力本願な解決に頼ろうとした最中、背中から伸びる触手がぴくと動いた。手に取るように、その向こうで何が起こったのかを把握する。
「リノン?」
「アールエンが目を覚ました」
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