第70話

「――――」

 ティアフではなく、シスターでもなく、まだ見ぬ槍の使い手でもない。それは死んだと決めつけたばかりのアールエンであった。

「まさか!」

 思わず駆け寄って、しゃがみ込む。腕がゆっくりと持ち上がり、指が何らかの形を作ろうとしていた。当然だが、傷が治ったわけではない。自然治癒では到底治りようのない怪我を放置しているのだから、悪化するばかりである。それでも動く姿を形容するのなら、腕だけが糸で吊られて操られているかのようだった。

 何しろ、致命を遥かに通り越したような有様で指の一本でも動かす気力があるなんて、にわかには信じ難かったのだ。

 かたかたと震えながら、やがてアールエンの人差し指は、力なくある一方を示した。言葉はなく、その作りも頼りなかったが、言わんとしていることは明確だった。俺の言葉に反応して、彼女が指したのはおよそ北東の方角、草原を越え、更に暗い森へ。そうと分かって間もなく、ばさ、とアールエンの腕から力が抜けて地に落ちた。

「…………」

 礼を言うべきが、圧倒されて言葉も出ない。

 これが人間の生命力なのか。人というよりは、むしろ側に近いのではないかと考えてしまうほどである。しかしその献身は、粉うことなき人のための人の精神に違いなかった。

 この託宣を無駄にしてはいけない。俺はすぐさまに立ち上がって、アールエンの示した方へと向かい、そこにいるのだろうティアフとシスター・アルモニカを救いに……向かわなかった。

「アールエン……」

 おそらくは一刻の猶予も残されていない。分かっていて、俺は立ち上がりもせず、ただ血を流すだけのアールエンを見つめていた。奇妙な話である。彼女が一切の動作を見せなければ、俺はあっさりと彼女を棄て置き、あてもなく周囲を探し始めたのだろう。しかし、アールエンが俺を導いてくれたが故に、俺はこの導きに従ってこの場を離れてしまうことをためらってしまった。

 そうだ。“アールエンは死んでいない。”

 外からの音を聞き入れ、言葉の意味を理解し、適切な答えを返す。立派に生きていなければできない芸当だ。こうしている今も、ただ命が溶け出しているだけのように見えて、アールエンは刻一刻と迫る死に抗っているのである。これを知らされて、俺は彼女を見捨てられなくなった。

 人類に敵対するマイナーが、その手で既に何百という人間を殺している化け物が、なぜたった一人の女を見捨てられない。一時的に協力関係にあったとはいえ、仇敵足るセイバーを。

 俺は、その理由がことに何となく気が付きながら、“処置”を開始していた。彼女の抉られた脇腹に手を伸ばし、触れる。これは、ヴィントに全身を穴だらけにされるよりも前にあった傷である。表面はすっかり硬くなって、かさぶたのようになっていた。治癒が始まっていた証拠だ。むろん、死にかけの今となっては傷の一つが治ったところで意味などないし、治すだけの気力も既にないはずだった。

 自らの手を崩して拡げ、かさぶたを覆う。俺が行おうとしている“処置”にかさぶたは邪魔であり、ばりと乱暴にはがしてしまっても良かったのだが、弱った彼女がその痛みに耐えられるかどうかは定かでなかった。わざわざ無理をさせる必要もない。だから、小さな穴を開けて細く紐状にした手を潜らせ、かさぶたの裏、生の肉へと伝わせる。

 普段なら触れることのない、人間の内側の部分。触ってみると、俺は俺がやろうとしていることがおそらくは成功するのだろうという予感を得ることができた。もしかすると、アールエンは望まないのかも知れないが、それならそれでも良い。

 俺は魔者で、彼女は人間なのだ。長い時間をかけて築き上げられてきた敵対関係の本質とはつまり、相対する全てを慮らないこと。この処置は、……死にかけの彼女を蘇生しようという試みは、故に単なるエゴでしかない。生き返った後に俺に剣を向けるのなら、その時はその時だ、気の済むまで殺し合えば良い。

「耐えてくれよ、アールエン」

 槍に手をかけ、一気に引き抜く。その表情に変化は見られなかったが、痛みへの反射か、ぴく、と四肢の末端が反応した。槍先に、ちゃ、と粘ついた血液がまとわりついて糸を引く。新たに流れ出てくるものはほんの少しだった。それだけ、体内を流れる血液が少なくなって来ているということだ。

 俺が伝わせた肉は順調に、アールエンの中に入りつつあった。“同化”しているのだ。自分の肉体をアールエンの肉体へと変質させている。そんなことができるだなんてことは今の今まで知らなかったが、しかし、“再生”という能力を何度となく経験している俺は、能力の延長として自分の肉の変質が可能であること、ひいてはこれによってアールエンを救えるのだと直感していた。

 単純な肉の譲渡……ではなく、俺の能力を使った“アールエンの”再生である。

 つまるところ、再生とは、原本の複製をつくる能力だと言って良い。手掛かりになるものが一片でも残っていれば、そこを始点として再生し、やがては完成品たる原本と全く同じものを複製する。例えば普段なら、俺自身を手掛かりとして再生能力が働くので、当然の結果として俺が再生されると、そういう理屈である。

 とすれば、“俺ではない別の原本の手掛かりを始点とした場合”はどうなるか。これも当然、“手掛かりとなっている別の原本が再生され複製される”。再生能力の始点となる俺の身体てがかりを、“アールエンの身体べつのてがかり”へと変更することで、再生される原本も同様に俺からアールエンへと変更されるわけだ。

 元の再生能力が反則であることを考えれば、この医療の真似事は遺骸でさえ復元し得る万能な治療行為にも見える。が、世の中はそんなに優しくはなかった。想定していた通りと言えばその通り、実際に処置を始めると決して万能ではないと分かる。

 第一に、俺の肉がアールエンの肉へと変質するに従って起こる“特性の欠損さいせいのうりょくのランクダウン”が避けられない、ということ。“肉体の消滅さえ克服する反則的な再生能力”は、あくまで俺の存在に宿った特性であり、これが変質するのなら能力もまた変質することは道理である。そもそも、空間的な距離によってさえ能力使用・仕様に制限が加わってしまうのだから、その存在の変質に耐えられないのは言わずもがな、だろう。

 もし、むりやりに能力を維持しようとすれば、そこにあるのはアールエンの肉ではなくリノンの肉ということになって、再生されるのもまたリノンとなってしまう。行き過ぎた再生能力はアールエンをたやすく改変まるのみして、俺を再生するのである。

 第二に、能力の低下に伴い、俺の場合と違って“対象が生きていなければ再生が働かない”制約ができる、ということ。俺の能力を肉体ごとアールエンの肉体へと移すに当たって、その能力はアールエンの肉体に適合した形へと“縮小”させなくてはならない。先述の通り、“肉体の消滅さえ克服する反則的な再生能力”は人が扱うにはあまりに過大。これを、言ってみれば人間にも扱えるよう常識的に改変ダウンサイジングして、アールエンに持たせるのである。

 程度はおおよそ“致命傷を克服できる反則な再生能力”といったところ。制約がついたとはいえ、それでも人間では持ち得ない驚異的な能力であるには変わりない。“生きてなければ再生が働かない”代わりに、“生きてさえいれば再生してしまう”。この力を宿した肉がアールエンの肉体として固着してしまえば、後は勝手に再生を始めて、身体中に穴が開いていようと元通りに修復してくれるだろう。

「……と、思ったけど、やっぱりそう簡単にはいかないか」

 ぶっつけ本番の治療ながら、こちらに落ち度はないように思える。ただ、彼女がセイバーであり、その内に“聖属性”を宿しているが故に、マイナーである俺の肉をすんなりとは受け入れてくれないようだった。抵抗しているのは今や弱りきった光だが、黙って喰われることを良しとするほど萎えてもいない。あまり、時間をかけてはいられないのだが……。

 何か、突破する策はないだろうか。要するに、受け入れさせれば良いのである。表面上でも、俺の肉を受け入れたと彼女の肉体が認識してくれれば良い。この場合なら、本来は触れられない場所から無理に肉を突き入れているからダメなのだとすれば、……“そうではない場所から肉を入れるならどうだろうか?”

「試してみるか」

 閃きは何とも悪魔的で、冒涜的だ。彼女にとってはやはり、あまり良い閃きではなかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る