第44話

 男は、灯りの入れていない礼拝堂の途中まで歩いてくると、力尽きたように座り込んでしまった。ばたん、と乾いた音がこだまする。まるで、恐ろしい風貌の悪魔に何千里と追いかけられながらも、旅を続け、ようやっとこの場所まで辿り着いたように、やつれ、疲れ果てていた。

 奥に隠れていたアルモニカが彼の下へ駆け、膝をついて寄り添い、優しく声をかける。少しだけ、男の身体に巣食っていた震えが収まったように見えた。礼拝堂の正面に立つ主たる女神が、現世に顕れて子を慰めているように優しく、絵になる光景だ。

「シスター……いや、いや、あんたじゃない。あんたたちに話がある。ウィンドチャイムがやられた」

 これを口にするなり、わ、と男は泣き出してしまった。シスターは躊躇なく彼の頭を抱いて、悪夢に怯える我が子をあやすように声をかけ続けた。アールエンはきっと、気が気ではなかっただろう。シスターが彼を可哀想に思う気持ちからこうすることは分かり切っていた。故に、この男が今にも変な気を起こせばシスターに害が及ぶ。

 分かっていても、このシスターの慈愛を止める者は誰もいなかった。アールエンでさえ、奥歯を噛みしめながら見守ったのだ。彼女の高潔な行いを踏みにじれる者など、この場には一人といなかった。

「聞いています。ゴングがやったと」

「そうだ。それで、あいつらは次はおまえたちだと言ってきた。終わっちゃいなかったんだ。今度こそあいつらは、ベリオール・ベルを完全に手に入れる気でいる」

 シスターは心配そうに、傍らに立つアールエンを見上げた。うん、と声なく頷くと、アールエンが俺を少し離れた所に呼び出した。近くで話せば彼を刺激してしまう、さりとて二人切りにはしておけない、その妥協点が、神父が立って参列者に説教する壇の上、女神像の足元であった。

「浅はかだった」

 彼女は最初に、頭を抱えてそう悔いた。

「わたしを追い詰めておいて、すぐに追撃がなかった時点で考えておくべきだったんだ。教会を諦めたんじゃなくて、標的が移っただけだって」

「分かっても、俺たちは教会を空けられなかった。仕方がない」

 気休めだが、事実でもある。早くから向こうの真意に気づいていたところで、教会を空けてこれを探ろうという決心がつけられたかどうかは微妙だ。おそらくだが、俺たちは変わらず教会に引きこもって、備蓄がなくなるまで凝然じっとしていたはずである。

 そんな、本当かどうかも分からない話に付き合って、この教会を危険には晒せない。増してや、こちらのアールエンを一度ぼこぼこにしているギャングが相手では軽はずみな行動は慎まれるべきだった。

「あいつはどうして、ここに来たんだ? 懺悔か?」

「わたしを頼って来たんだろう。ゴングとまともにやり合ってたのは、最近じゃわたしぐらいだった」

「ギャングったって、普通の人間じゃあ、あのむちゃくちゃな怪力は相手にできない、か」

 普通と言っても、アルマリクにだって平然とケンズのような使い手がいたのである。あれは果樹園を守るための戦力だったが、同じようなことはベリオール・ベルにも言えたので、ケンズ並みの使い手がこの都にいたとしてもおかしな話ではなかった。が、四日前に教会を襲った連中を相手にするのなら、ケンズ並みの使い手を同じ数は用意しないとだめだろう。それができなかったから、ウィンドチャイムは潰されたのだ。

「……それで、おまえの力を頼りにしてきた。自分たちハンドベルだけじゃ対処できないって悟ったわけだ」

 ぐずぐずとシスターの胸の中で泣いていた男が、やがて、すっくと立ち上がって俺たちの方に歩いてきた。身体の震えは止まり、足もしっかと地を踏み、目にも戸惑いや涙がない。元々のいかつい風体もあって、それはいかにも暴力を生業にしていますというチンピラの成りだった。そのチンピラが、ぐい、と頭が取れるんじゃないかと心配になるほどの速度で頭を下げ、泣くように言った。

「お願いだ! あんたがいなけりゃ、俺たちはお終いだ!」

 腕っぷしで道理を押し通して来たような人間が、恥も臆面もなく深々と腰を折っている。いや、ような、ではない。ハンドベルも、ウィンドチャイムも、そしてゴングも、“そうやってベリオール・ベルに地位を確立してきたやつら”なのである。苦々しい顔で、アールエンはこれを見ていた。暴力組織に頼られたことを嫌がっているようにも、自分の名がそこまで知れていたことを嫌がっているようにも見えた。だが、男にはそんな事情はおかまいなしである。一年前まではベリオール・ベルの覇権を争って殴り合っていたライバルチームが、欠片も残らぬよう徹底的に処刑されたのを目の当たりにしたのでは、それも当然の態度だった。同じだけの戦力の自分たちが無事である、なんて都合の良い解釈は、どの方向から試してみても無理な話。付け加えるなら、見逃してくれるラッキーもまるで期待はできない。ベリオール・ベルを手中に収めることを視野に入れるとすれば、ウィンドチャイム同様に、競争相手になるハンドベルを潰しておかない理由がないのだ。あるいは、単なる怨恨だとしても、やはりお目こぼしは期待できなかった。彼らは、自分たちが同じだけ恨まれていることを知っている。

 自覚があるから、これほど恐れているとも言えるのだ。

 大体の話を聞いているため、部外者の俺にもその気持ちは十分に理解できた。同じギャングでありながら、弱小として臥薪嘗胆の日々を送り続けて来たゴングの立場になれば、下克上の叶った今になって暴れ出すのは無理からぬ話である。

「アル、どうしましょう」

 シスターは、口ではそんなことを言いながら、かなりはっきりとした意志を込めてアールエンを見つめていた。シスター・アルモニカの中に答えは出ている。それは、彼女の性格を鑑みれば全く、蓋を開ける前から想像できる結論だった。アールエンはむろん、それを分かっていて、首を横に振った。

「わたしはここを離れられない」

「アールエン!」

「そんな、姐さん!」

 男のアールエンの呼び方が変わっている。やめろ、と言外に目で訴えながら、アールエンはこう続けた。

「だから、リノンが行く」

「は?」

 素っ頓狂な声を出してしまった。アールエンを睨むと、彼女は力強く、うん、と頷いた。いや、誰も、そんな俺の背中を後押しするような返しは望んでいないんだけど。状況を把握できていないのか、目を白黒させて俺とアールエンとを見ている男の姿は哀れ以外の何者でもなく、その奥で、なるほど良い案ですね! とでも言いたげにそっと手を合わせて笑ったシスター・アルモニカを見れば、ああ、この人は何て図太きれいなんだろう、と軽いめまいを覚えさせられた。

 アールエンが提案し、シスター・アルモニカが賛成する。教会の支配者がイエスと言うことに、居候の俺がノーを突き付けて通る道理はどこにもなかった。成すがまま巻き込まれ、未来を憂う以外の選択肢など残されていない。けれどそれは確かに、退屈に摩耗して砂になってしまいそうだった俺の心を滾らせる展開でもあったのだった。

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