第42話
「スケアリーランス、か。それは災難だったな」
アールエンとかいう女の最初の感想は、そんな言葉だった。腰よりも長い髪は深い海のような蒼。目鼻立ちはかなりはっきりしていて、綺麗には違いないが少しだけ
一緒に教会に住んでいるらしいシスター・アルモニカが女性、いや、聖母とされるような理想の女性像を現実に落とし込んだみたいな人だったから、余計にそう見えてしまう。ちなみに、俺はアールエンの裸を直接見たわけではなかったが、近い状態の彼女をここ、彼女の私室まで運んできたのは俺なので、そこまで分かっているのである。気絶していたので彼女は覚えてはいないだろうが、そのことを話しても特別、嫌がる素振りも恥ずかしがる素振りも見せはしなかった。
「スケアリーランス。そういう名前なのか」
「そのまんま、“怖い槍”という意味だ」
「槍。持ってたな」
俺とティアフは、ベリオール・ベルへ来る途中、ある魔者に襲われていた。全身緑の毛に覆われた、大きな翼を生やした人間。人間と言っても姿は鳥の方に近く、人間の女の顔に胴体を持ち、そこから鳥の翼と足が伸びている、そんな化け物だった。冒険者たちの言っていた“鳥の化け物”、いわゆる
「ハルピュイアってのは、槍まで使うもんなのか? マカイってのは器用なんだな」
「いいや。普通は使わない。スケアリーランスの特殊なところは、その槍を使うってことと、“槍を使うために人間の手が一本、片方にだけ生えている”ことなんだ」
そう、俺たちを襲った緑のハルピュイアには、一対の翼の他に、人間と変わりない右手だけがとってつけたみたいに備わっていて、これがぶんぶんと槍を振り回していた。鳥にしてみれば、翼というのは人間でいうところの腕に当たるはずで、つまり緑のハルピュイアには“三本目の腕”がある格好だ。見た目からして奇妙なマカイだったが、もう一つ、そのマカイには特筆すべき能力があった。
「あの回復魔法も、ハルピュイアの得意技か?」
「中にはそういう種もいるだろうが、スケアリーランスの回復魔法は図抜けている。どうせ、身体の一部を簡単に再生されたんだろう?」
まるで俺と緑のハルピュイアとの戦いを見ていたみたいに、アールエンがずばりと言い当てた。全くその通りだ。俺はハルピュイアの右腕と右の翼を粉砕している。確かにぐしゃと飛び散ったのを確認したが、壊れた箇所が眩い光に包まれると、瞬く間に元通りになっていた。そんな回復魔法を有しているとはつゆ知らず、右半身を失くしたハルピュイアにトドメを刺そうとしたら、即座に復帰した右腕に反撃を喰らった。俺を吹き飛ばす傍らで槍まで再生したハルピュイアは、そのままティアフの腹に槍を突き刺した。俺がハルピュイアの回復魔法に驚いてガードし損ねたのと同様、ティアフもまさかと思った一瞬の隙に攻撃を捻じ込まれたのだ。その後で何とか追い払いはしたが、後の祭り、ティアフの傷は深かった。何しろ、刃が貫通して腹に穴が開いていたのである。俺は自分の服を破って、傷を抑え止血するようにティアフの腹部に巻き付けてやった。
それから、おおよそ五時間後。
俺はベリオール・ベルのシスター・アルモニカを訪ねて、ティアフの傷を治してもらうよう頼んだ。その際、シスターの根城である教会を襲撃していた暴漢を残らずぶっ飛ばし、アールエンを助けている。そうしなければ、おいそれとティアフの療養にも入れなかったからだ。
「しかし、五時間とは。よくもったものだな」
「ティアフが自分に魔法をかけて、傷を治していたらしい。いや、進行を遅らせていた、か。身体強化のマジュ、それの応用だとか」
「優秀だな。年端もいかぬ少女だろうに、驚異的だよ。普通は痛みのせいで、魔法を使えるほど集中できない。大の大人でも難しいことだ」
「ま、こんなところで死ねないからな」
ティアフは今、シスター・アルモニカの治療を受けている。部屋の壁掛け時計から計算するに、かれこれ二時間にもなるか。側にいてやりたかったが、魔法の通りを良くするために裸にするから男子禁制だとシスターに追い出され、もう一人の怪我人であるアールエンと、こうして話し込んでいるのだった。
そのアールエンの怪我も、決して軽いものではなかった。特に頭部に受けたらしいダメージはひどくて、気を失ってから回復するまでは一時間もかからなかったが、それから更に一時間近く立つというのに、まだろくに起き上がれもしないようだった。それでも、意識ははっきりしているし、俺との会話にも何ら問題はない。何でも、頭を思いきり蹴り上げられたとかで、それが本当ならよくもまあ首から上が吹き飛ばなかったものである。教会を襲っていた男たちは全員、人間離れした怪力の持ち主だった。当然、これに寄ってたかって殴られていたアールエンの受けたダメージも相当なものに違いなかったのだ。
「だっていうのに、シスターは良くティアフを優先してくれたよ。気を失ったおまえを見た時は、それはもう取り乱したもんだけど」
「彼女は高位の治癒術師だ。一目見れば、患者の容体がどうなっているか手に取るように分かる。わたしよりもその、ティアフという娘を優先すべきだと彼女が判断したのなら、本当にそうだったのだろう」
「でも、おまえはシスターの身内か何かだろ?」
「身内だから、身内でない死にそうな人間を放っておいてもおかしくないって? それは、彼女に対する侮辱だ」
「いや、そんなつもりはないけど……」
アールエンの声が少しだけ怖くなった。それ以上の侮辱を続けるのなら斬って捨てるぞ、という無言の圧力。彼女は今、ろくに動けやしないのだ。しかし、例えそうだったとしても、アールエンは本当にベッドから飛び起きて、瞬く間に俺を斬り刻んでしまう様子がありありと想像できた。
「感謝してる。シスターにも、それを許してくれたおまえにも」
「わたしがシスターの邪魔をしてどうする。おまえは、わたしも侮辱するのか?」
今度はちょっと冗談めかした調子だった。アールエンはかすかに微笑んでから、すまない、少し寝る、と断って目をつむった。話し過ぎただろうか、こっちを邪険に扱うような言い方ではなかったが、彼女とて怪我人には違いない。俺は素直に部屋を後にし、さてどうしたものか、ティアフのところに突撃するわけにもいかないしと少し悩んでから、教会の屋根にあがって時間を潰すことにした。
俺とティアフが
とはいえ、襲撃が去ってみれば静かなものである。この教会が建っているのは、ベリオール・ベル北東の一角、旧市街と呼ばれる廃棄された区画の中で、どうも人が住んでいない場所らしい。人気がないのでは静かなのも当たり前。屋根の上から見渡してみても、豪奢で背の高い建物がずらりと並ぶ中心街の様子に比べれば、足元の廃棄区画はまるで灰の山のように生気がなく、荒んでいる。人が住んでいないというのが事実であることは、そうやって目で見ても容易に確認できた。
が、どういうわけか、その内の真ん中にある小さな教会には人が住んでいるわけだ。理由は分からなかった。なぜ、あの人の良さそうなシスターとちょっと
まあ、下世話な話だが、身体そのものが目的だと言うなら頷ける。シスター・アルモニカは、俺が今まで見てきた女性の中では……両手で数えられる人数の内の比較とはいえ、最も美人だった。顔のつくりは言わずもがな、肌の露出が少なく、極力身体の線を出さないようにデザインされた修道服の上からでも分かるぐらい、身体つきも貧相ではない。全身筋肉、鉄の人間みたいなアールエンよりはよっぽど貰い手がいるだろう。アレは、傭兵か門番向きだ。
我ながら失礼なことを考えているなあ、とちょっと自己嫌悪に陥っていると、教会の正面の扉が開く音がした。屋根の上から覗き込むと、ちょこんと顔を出して外の様子を伺うシスターが見えた。どうしたんだ、と声をかけると、びくっと驚いてからシスターがこちらを向く。まさか、頭上から声が降って来るとは思ってもいなかったのだろう。別に、驚かせるつもりで
「ああ、リノンさん。そんなところに」
「ティアフは?」
「今は眠っておられます。治療も終わりました」
どうやら、最悪の事態は回避できたようだ。ひょいと屋根から降りると、シスターはいかにも感嘆しているという風にしみじみと、すごい方ですね、と評した。もちろん、ティアフのことを言っているのだ。
「並大抵の精神力ではありません。死にたくないという思いは当然強いものですが、これに正しく向き合い行動できるほど、人の心は強くはないのです」
主に従い、子らに説く。いかにもシスターらしく説法くさい言い回しだ。
「痛みのせいで集中できるものじゃないって、アールエンも言ってたよ」
「その上、死に際しては焦りが出てくるもの。痛みによって焦りが増幅し、焦りによって冷静さが失われていく。時間が経てば痛みが増し、更に焦りに拍車をかける。そういう悪循環と、あの方はずっと戦っていらしたのです」
並大抵ではない。噛みしめる様に繰り返し、シスターはそう讃えた。痛みを感じない俺には、シスターの論に言うところの死に際する焦りもまた存在しないわけで、実際理解も同情もできない感覚ではある。が、そうなのだろうな、と頷けない話でもなかった。俺は死に際していない。しかしながら、死に直面する多くの人間を見てきた。彼らがどんな顔をして、何を叫び、どう奔ったのかを思い返せば、痛み焦りの螺旋とはいかなるものなのかと想像することは難しくなかった。
「それにしても、まるで死んだことがあるみたいだな、シスターは」
聖書をただなぞるだけのようではなく、シスターの言葉は妙に具体的で実感がこもっている。まあ、こんな世界では、一度死にかけたぐらいの経験があっても珍しくはない。あまり深い意味を込めて言ったつもりはなかったのだが、しかし、シスターは何かとんでもない事実を知らされたみたいに、ぽかんと口を開けて固まってしまった。冗談……になっていなかっただろうか。
「シスター?」
改めて呼びかけると、シスターはふわりと頬に手を当て、ちょっと困ったように笑った。
「死んだことなんてないはずなのに、おかしいですよね、そんなこと。どうしたのかしら、わたしったら」
邪気のない笑顔だった。自分がどうしてそんなことを……そんなに真に迫って言葉にできたのか、何やら自分でも良く分かっていない、そんな笑顔だ。わたしたちだけでもお昼ご飯にしましょう、と思い出したように言って教会の中へと戻っていくのを、その時の俺は笑顔にほだされ、大した引っかかりも持たずに追いかけたのだ。
そう。その時は。
シスターは根が真面目だから、きっと俺の冗談を真摯に受け取ってしまったのだろうと思って、深く考えることをしなかった。もちろん、そこでじいっと考えを巡らせてみたところで、未来は何も変わらなかったのだろうし、変えられもしなかったはずだ。ただ、あの女冒険者に注意されたように少しぐらいは自分の無関心さを反省して、シスターのちょっとぎこちない笑顔にはどんな意味があったのか、気にかけておくぐらいのことはしておいても良かったのかも知れない。俺は後に、そう反省するのであった。
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