第二部 ベリオール・ベル編
第40話
「おはよう」
わたしは、その声が好きだった。窓から差し込む陽の光よりも暖かく透き通った声は、わたしを何よりも充実させてくれた。母親の腕に抱かれるように安らいだ気持ちがして、声に応えせっかく上げたまぶたを閉じたくなってしまう。わたしは、その瞬間のわがままな自分が好きで、二度寝への誘惑に抗おうなんてやましい気持ちはちょっとだって起こさなかった。言い訳のように、声は眠れと命じているのだ、とわたしはいつも自分に言い聞かせていた。大切なのは聞こえてくる音や言葉ではなく、感じられる意味の方をこそ汲み取らなくてはいけない。探らねば、自分から手を伸ばさねば真実には辿り着けないのだ。だって、こんなにも優しい声音が、このひと時の安穏を終わらせようとしているだなんて信じられない、考えることさえ忌々しい。
「もう、おはようって言っているでしょ!」
……などととろけたことを考えている内に、ば、と掛け布団を剥ぎ取られてしまった。一年の終わりが近づくにつれ、この辺りもついに寒くなって来ていたから、ベッドの周りもすっかり冬仕様になっていた。羽毛の布団に遮られて部屋の中を漂うばかりだった冷たい空気が、待ってましたと言わんばかりにわたしの身体にまとわりついて、冷やしていく。
「あーん、寒いよー」
「朝にしゃんとしない子のお話なんて聞きませんからね!」
わたしは、その声が好きだった。飴玉を優しく丁寧に転がすような甘い声も、そんな飴をばりと噛み砕いてしまうように厳しく叱る声も、分け隔てなく、分けられる訳もなく、ただ愛おしかった。
ぎい、とベッドに腰掛けて、その人はわたしの顔にかかった髪の毛を避け、頬を撫でる。
「良い天気ですよ。さあ」
幸せだ。わたしはどんなにだらしのないにやけ顔を晒していることだろう。うん。十分ではないが、今日はこれぐらいにしておくとしよう。わたしは、自分の頬に添えられた細く小さく、けれど何より愛しく暖かい手を握って、ゆっくりと身体を起こした。
目を開けると、思わず、その人の顔が間近にあった。どきりとして、わたしは噂にだけ聞く石化の魔法にでもかかったみたいに動けなくなってしまう。違う、そんな、やましいつもりはなかったのだ。ただ、頬に触れている愛しい感触を少しでも長く、深く楽しむために、目を閉じて全神経を頬を集中していただけ。これでは、起き抜けにその人に襲い掛かる、節操のない暴漢のようではないか。
その人は、かちこちと固まったわたしの反応がおもしろかったのか、ふふと吹き出して笑った。
「朝からお痛が過ぎますね? 今日は、何か特別な日だったかしら。それとも、石か槍でも降るのかしら?」
すらり。わたしの手からその人の手が抜けていく。お互いの長い髪が触れあって、もう少し前に出れば鼻先がぶつかってしまうような距離から、その人がゆるやかに遠ざかっていく。ふわりと甘い香りが鼻孔を撫でた。いたずらっぽく笑うその人を見て、わたしは、ああ、どうか嫌わないで、今のは違うんだよと、まるで子どもみたいにみっともなく弁解した。けれど、そうやってわたしを放って遠くへ行ってしまうかのように振る舞う姿さえ、わたしには愛おしく映るのだった。きっと、いいや、必ずや、わたしを嫌うその人はやはり、美しいに決まっている。まだ、そんな姿は見たことがなかったなと思うと、見てみたいという気持ちがふつふつと沸き上がって来た。だが、嫌われてしまったらわたしはきっと、いいや必ずや、今生をあっさりと諦めてしまう。まるでぱっぱと服に着いた埃を払うみたいに放棄してしまうに決まっていた。
どちらも、本心だ。わたしには制御ができない。それで良いのだと、わたしはもう随分前に諦めていた。信じていたと言っても良い。
「すぐ朝ご飯に来なければ、本当に嫌ってしまいますよ」
さらっと死刑宣告。ばたん、と戸を閉める音が、まるでわたしの脳天を打ち抜く銃声のようにも聞こえた。その人は、わたしと違ってとても厳格で、清廉なのだ。だから、その人の“すぐ”には、もはや一刻の猶予も残されていなかった。
急がなければ。朝のまどろみにうろんとしている場合ではない。雷に打たれたみたいに、わたしは一瞬の内に目を覚ましていた。すぐ、とその人は言ったが、しかし下着のまま部屋を飛び出して追いつくことは簡単でも、それでは更なる怒りを買うだけなのは目に見えている。その人は、厳格で、清廉なのだ。だらしのない恰好が許されるのは、起き抜けと寝入る時の、ほんの短い間だけであった。
その日の朝の支度は、きっと
朝ご飯はいつもの通りパンとスープ。教会の人間は贅沢をしない。光聖の傘下に下る形で、教会という組織の在り方が光聖の常識に取り込まれていった後の昨今において、質素倹約、古臭くカビの生えた慣例を守っている教会はほとんどないはずだった。理由は単純で、慈善事業に近かった教会に、金が回るようになったからである。大概の聖職者なんてのは、現金がちらつくと簡単に慣習から離れて行った。木のスプーンより銅のスプーン。銅より銀へ。銀より金へ。金も飽きれば宝石に手を伸ばす。人間なんてそんなものだ。彼らを否定できるほどわたしは偉くも質素でも倹約家でもないが、けれど、彼らのようには決してならないその人は、本当に気高かった。
「アル。今日はね、何だか良いことがありそうなの」
小口にちぎったパンを飲み込んで、持っていたパンをわざわざ皿に戻してから、その人は嬉しそうに微笑んだ。
「君が良いことがありそうだと思ったなら、神様がきっとそれを用意してくれるよ、アル」
わたしがちぎるパンの大きさは、その人、シスター・アルモニカよりもずっと大きい。その人のようにおしとやかにありたいと思うのは、憧憬を抱いてしまうのは、女性であればきっと誰もがそうなのだろうが、わたしはついつい食欲に負けて大口に分けてしまうのだ。何なら、直接かぶりついてしまいたいぐらいだが、彼女の前でそれはできない。
「ナイト・アールエン。そうしてみだりに主を働かせるものではありませんよ」
め、とわたしを叱りつけて、スープを一口飲む。たったそれだけの所作にも品格があり、たまらなく美しい。見惚れていると、お行儀が悪いですよ、とまた怒られた。
矛盾するようだが、アルは厳格で、清廉で、気高い聖職者ながら、人の食べ方にいちいち口を出すような野暮な女性ではない。例えば、食べかすが四方に飛び散り、無暗やたらと音を立て、物を口に入れたままべらべら喋くるような下品極まる作法であれば話は別だろうが、個性の範囲ならアルは笑って受け入れてくれ、可愛いですね、とお世辞までくれた。
わたしは、どちらかというと粗野な方である。少なくとも、アルに比べれば知性に劣る獣も同然だ。けれど、最低限のマナーを守るわたしを、アルはにこにこと女神のように笑って眺めるだけで、たしなめるようなことは一度もしなかった。そうやって見つめられるだけでも昇天しそうなぐらいにわたしは幸せで、けれど一方で叱って欲しいとも思っていた。もちろん、そんな身勝手でアルの手を煩わせてはいけないので、わたしは必死で、何を注意されたわけでもないのに、アルの気高さへと近づけるようにたくさんの努力をした。
ご飯は好きなように食べなければ、おいしくありませんよ。無理をするわたしを、とうとうアルがたしなめたことがあった。わたしは、アルと一緒なら炭みたいになったパンだって、どんな一流のシェフの料理よりも御馳走だよと、偽らざる心を正直に訴えた。すると、先日うっかりパンを焦がしてしまったアルが、そのことを皮肉られたのだと勘違いして、もう知りません、と頬を膨らませてしまって、しばらく口を聞いてくれなかったことがあった。わたしには、それがもうたまらなく愛おしかった。アルの成功も、アルの失敗も、アルの笑顔も、アルの侮蔑も、わたしには天恵以外の何物でもない。アルはそれきり、パンを焦がさなくなった。焦がすと言ったって、パンのほんの一部を炭にするくらいなものだ、元々捨てるまでもないような些細な失敗。気を張らなくても良いのに、とわたしが気を遣うと、だって食べられないものをあなたには出せないわ、とアルは少しだけすねたみたいに唇を尖らせた。その優しさは何にも勝るはちみつのように、苦みさえ甘味へと変え、わたしの身体に染み渡り、かけがえのない記憶として刻まれている。
朝食を終えると、アルは教会の仕事に手を付け始める。といっても、のどかな教会にはロクな仕事がなかった。荒れた庭に手を入れたり、ボロ屋の教会の修繕をしたり、礼拝堂で談笑したり。わたしにも特段、仕事があるわけではなかった。けれど、大事な使命がある。わたしは朝食を終える頃から、寝る時以外はずっと鎧を着込み、盾を背負い、剣を提げるようにしていた。一日に何時間かは必ず、稽古の時間をつくって腕がなまらぬようにもしていた。アルは、そんなわたしのおもしろくもない一人稽古の時間を座って眺めているのが好きなようだった。理由を聞いても、秘密です、とアルは笑ってはぐらかしたけれど。
アルは、良いことが起こるかも、という自分の予感を信じ切っていて、その“良いこと”の訪れる瞬間を今か今かと待ち続けていた。わたしは、彼女を信じていないわけではなかったけれど、しかし良いことよりも悪いことがやってくる予感、いや、予測をしかと立てていた。これには根拠がある、だから、わたしはそうと思われる時間に教会の正面へと出て行って、その来るべき悪いことを待ち構えた。外へは出ないように、間違ってもじいと隠れているようにと言い渡すと、アルはいつもの通りに心配そうな顔をして、わたしに請うのだった。
「帰ってきて」
心配はいらない。わたしはアルを安心させるために、なるだけ大丈夫そうな笑顔をつくって、はっきり言い切ってやる。
かくして、予測は当たった。ほとんど予期していた頃合いになって、そいつらはやってきた。下卑た笑みを浮かべる男ども。数は五。背格好に共通点はないが、全員が同じ組織に属する人間なのは、わたしにはもうとっくに分かっていた。
「今日で終わりだぜ、クソ騎士」
男の内の一人が言った。アルが聞いたら卒倒しそうな口の悪さだ。
「終わり? また、おもしろいことを言うな。一度だって突破できたことがないくせに」
ばかにしたつもりだったが、男はうんうんと、わたしの悪口を素直に呑み込んだ。
「だから、それも終わりなんだよ。終わったんだ」
様子が違う。いつもなら血気盛んに噛み付いてくるところを、まるで気にもしていない風に流された。他の連中も、にやにやと薄気味悪く笑っているだけで、罵声の一つも返してこない。何か、動いたものを牙を剥いて追いかけるだけの知能しかなかった畜生に、人並みの理性が突如として宿ったかのような、そういう気持ちの悪い
「行け」
五人の中心にいた男が指示すると、他の四人が一斉に飛び掛かって来た。目に見える違いはないものの、空気がいつも通りでないのなら用心しておくに越したことはない。わたしはいつもよりもずっと集中して盾を前面に構え、これを迎撃した。
「エル・バーンズの御手をここに」
わたしの魔法は、そのほとんどが防御に使われる魔法である。半身ほどもある大きな盾は、特に防御型の魔法を強化してくれる触媒のような役割があった。自身の周りにドーム状の防壁が展開され、飛び掛かって来た敵がこれに触れた途端に表面が炸裂、敵にダメージを与えながら、ぱん、と四人の男を景気良く弾き返した。
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