第37話
当然ながら、木は地面に対して垂直に生えている。これを倒そうというのだから、真正面から縦に切り掛かってはしようがない。刃を幹に対して直角に入れ、横一文字に切り抜けるイメージ。すると、構えは自然と決められるのだった。
右足を引き、木に向かっては半身の姿勢。剣は右脇、腰の位置から後ろに尾を垂らすように切っ先を下げて握る。後ろで見ていた男は、「それを脇構えというんだ」と少し感心したように説明した。
「知っててやったのか?」
「いいや、全く」
俺が首を振ると、へえ、とやはり感心したような声が返って来た。しかし良く思い出してみると、俺はこの構えを見たことがあるのだった。かつて、なんて昔ではなく、ごく最近、カナタが戦いの最中に同じ構えを取っていた記憶がある。それは、いくつかある構えの内の一つで、あるいは連発される斬撃の中で流れるように、あるいは戦いの節目でぴたと攻撃を止めた瞬間に、カナタはこうして立ち、俺に相対していた。あれほど綺麗に、まるで全身が一つの刃になったように
「よし、とりあえずやってみろ」
実際に剣を使う段になっても、男は一切の助言を口にする様子はなかった。こうなれば、一撃で倒してやって、男の鼻を明かしてやる他にない。めらめらと意地のようなものが湧いてきて、俄然やる気になって来た俺は、ぐいと腰を落とし、全身に力を込めた。
何、難しく考える必要はない。素手でも木をへし折れるぐらいの力がある俺が、その上でモノを斬るために作られた剣をもって、これを成そうとしているに過ぎないのだ。真っ当に事が運べば、簡単に斬り倒せるはずである。剣技など習ったこともない俺が、そういう何とも根拠のない自信を込めて剣を振ってやると、がっ、と情けないくらいの鈍い音を立てて刃が木に刺さった。
くっくっく、と後ろで男が笑っている。そうなることが最初から分かっていたような、意地の悪い声だった。
「何で斬れないか分かるか?」
「剣がなまくらなんだ」
がん、と容赦なく頭を叩かれた。痛みは感じない身体ながら、その衝撃を見るに結構本気で殴って来たようだった。
「剣のせいにするのなら剣を使いたいなんて言うな」
「……悪かったよ」
「存外素直だよな、おまえは」
いいや、存外でもないか。呆れた風にして、木の側に歩いて寄りながら男が言った。
「手を離して、食い込んだ刃を見てみろ。何か気づくか?」
刃はそれほど深く木に入ったわけではないが、手を離しても落ちてくることはなく、ぐっと幹に噛みついていた。言われた通り、その刃と幹の接地面に目をやったが、食い込んでいる、以外のことは良く分からない。だが、同時に不思議でもあった。刃は弾かれたのではない。きちんと幹に入り込んでいるのだ。しかし、その半分にも到達する間もなく、ちょっと噛りついたぐらいで剣が止められてしまっている。そのまま力任せに押し切れば、言ってみればケーキのスポンジに包丁を当てて、文字通り押し切るようにして剣を貫通させることはできたかも知れないが、それは“剣を使っている”とは到底言い難い不格好であった。
「自分が剣を振った様子をきちんと思い出してみろ」
いかにも教師振った調子だったが、人の頭を叩いて見せたぐらいである、彼はきっと生半な気持ちで先生をしているのではない。その熱意に応えるよう木の側に立って、さっきまで自分がいた空間を睨む。脳裏に映すのは、さきほど剣を振った自分であった。何分も前の出来事ではないので、思い出すことに苦労はない。それで、割と格好良く(と思っているが、外からはどう見えていたかは分からない)剣を振った自分の姿をリピートしていると、なるほど、気づくことがあった。
俺は、同じ場所に立って、剣を握らず、ゆっくりと同じ動作をした。すると、その気づきがどうやら正解であるらしいと知った。男の方も、この一見すると奇妙な行動から、俺が正解に辿り着いたらしいと察したようだった。
「刃が真っ直ぐ入っていない?」
「イエス。優秀じゃないか」
男が笑って、剣を鞘から出し、片手でぶっきらぼうに構えた。そうして、まるで子どもがだだをこねて棒切れを振り回すみたいに、腕だけで水平に剣を振って見せた。その軌道には幹があったが、何の引っ掛かりもなく素通りしたみたいに行き過ぎて、流れるようにもう片方の手に持っていた鞘へと剣が収められる。収めた後に、鞘でこんと幹を叩くと、剣が素通りした場所から上が傾き、ぎいと遅まきな悲鳴を上げながら倒れていった。
「剣が違うと言うのなら、この剣でやってみるか?」
「いや、いい」
さっきの言い訳が戯言にもなっていないことは、……そう、言い訳にもなっていないが気づいていたのである。最初に使った剣、幹に噛み付いたこの格好の悪い剣は、男が最初から携行していたも。つまり、今までの彼の旅を支えて来た剣なのだ。無骨で飾り気のない、見た目には全くつまらないという他にない剣だったが、その隅々には誇りとも言うべき気高い意志が刻まれている。それはあるいは修復の跡だったり、あるいは直すまでもない細かな傷であったりした。
この世界は決して安全ではない。人を喰う化け物どもがうようよとしていて、光聖の庇護から一歩外に出ればあっさりがぶ、と噛み殺されるような状況にあるのだ。そういう世界を彼は剣一本で渡って来た。そういう世界に彼を生き残らせてきた一本の剣が、なまくらなわけはないのである。それを侮辱されれば頭の一つも叩きたくなるだろう。無礼者! と斬り殺されたって文句は言えなかった。
俺が適当な木をみつくろって、もう一度構えるまで、彼は何も言わなかった。辿るべき垂直な剣の軌跡と刃の方向とを一致させる。ほんの少しでも浮いたり沈んだりさせてはいけない。だが、そう意識して見ると、自分の振りたい方向に刃を向け“続ける”ことがいかに難しいのかを、俺は思い知らされるのだった。
二度目も、同じような失敗を繰り返す。男はあっはっは、とけたたましく笑って、そのくせ何の助言も寄越さなかった。いや、やっぱりこいつは、俺がさっき心の中で思っていたような大した人間ではないのかも知れないぞ、と思いながら、しかしそれを言えばまたもや頭を叩かれそうだったので、黙って剣を引き抜き、また脇に構えた。
剣を振る。
始動から到達までは一秒の半分にも満たない、短い動作だ。
だが、たったそれだけの時間でも“剣を最初に決めた向きから水平に保っておくことがこんなにも難しい”とは、俺は思ってもいなかった。
最初に構え、刃を向ける方向はおそらく間違っていない。だが、それは剣を振っている間に少しばかり浮いたり沈んだりして、斬りかかる頃には大きなずれになっている。刃の食い込んだ跡を見れば一目瞭然の誤差。幹に刃が入るまでと幹に刃が入った後とでは、明確に角度の差がある。俺の場合は刃が浮いてしまうのか、入射角に対して上向きに刃が進んでいた。そうなるとどうして斬れないのかと言えば、俺が斬りたいと思っている方向、力の入れている方向から、実際の刃の向きがずれてしまうことで、正しく力が伝わらなくなってしまうからである。そのずれが極端になれば、幹に対して“刃の側面を押し付けてしまうような形になる”わけで、とすれば斬れなくなるのも当然のことだった。俺が抱えている“ずれ”はそれほどでたらめなものではなかったが、何にしても満足に切断を行えない程度にひどいずれであるには違いなかった。
男が一言だけ、アドバイスをくれた。
「意識して振っていればいずれ、どんぴしゃに当たる。その感覚を忘れず、確実に再生できるようにする。自分の思った通りに自分の身体を動かすためには、自分の身体がいかにして動いているかに向き合って、少しずつ修正していくしかないんだ」
剣を振る時に、どこかで無意識に肉体が動作して、刃の向きを変えてしまっている。それは小さな、感覚と実際とのずれである。とんてんかんとハンマーで釘を打っていて、その何度目かにひょいとずれてしまったハンマーが自分の指をしたたかに打ってしまうように、肉体と精神というのは思ったほど精密にシンクロしているわけではないのだ。もし、自分に限ってそんなことはないと豪語する豪の者がいるのなら今すぐに立ち上がって両腕を横に真っ直ぐ、自分の腕を見ないようにして地面と水平の高さに伸ばしてみると良い。それを誰かに確かめてもらえばきっと、実は腕が浮いたり沈んだりして、よほど水平からは遠ざかった場所に腕を置いていると気づかされるはずだ。かように、意識というのはそれほど緻密に肉体を動かしてはいない。
が、これは訓練で修正できるずれである。ぴ、と即座に自らを綺麗な十字架とすることも、訓練さえ積めば難しいことではない。この、剣を振るという単純な動作にしても同じだ。地を踏みしめる足より始まって、腰、銅、肩、腕、手首、どこかで余計に捻られた分が重なりに重なって刃の向きに収斂し、大きなずれという事象になって表れてくる。
おそらく、百や二百の試し切りではなかったはずだ。だが、俺の剣はついに、一本の樹木をすっぱと斬り倒して見せた。斬ってなお斬られたことに木の方が気づいていない様な、男が見せた華麗な技には到底及ばなかったが、しかし一太刀の下に幹が切断され、どうと倒れたには違いなかった。
男の拍手が背中に降りかかった。とうとうやったのだという満足感が湧き、体に染み渡っていく。これは、人を殺したり、カナタに勝利した時にも覚えなかった新しい感覚だった。
「そう何本も木を倒しても持って帰れないからな。次は倒れた木を斬って見せろ。角度が変わっても、やることは同じだ。今の感覚をそのまま、回転させてやれば良い」
簡単に言っているが、そう簡単には再現できるものではない。それでも、倒れた幹に対して一心不乱に刃を振り下ろしている内、再現に必要な試行回数は着実に減っていった。やがて、一本の木を丸々“木材”にしてやった辺りで、良し、と男が手を叩いた。
「後は実践だ。相手がなんだろうと、今と同じことが再現できれば同じように斬って倒せる。ま、後は自分で何とかするんだな」
男の方もいつの間にか、自分で斬り倒した木を丸ごと木材にしていた。幹の断面は中心から十字に四等分、几帳面に計ったように揃えられており、いかにも薪というような格好の木材だった。一方、がむしゃらに斬っていた俺の木材は形も大きさも不揃いで、これが薪として使えるのかは全く不明であった。男は、まあ、どうせ燃やすからいいんじゃないの、と適当に請け負うようなことを言ったが、心配でならない。もしこれでアウトだったら、薪拾いの
それにしても。
「これ、どうやって持って帰るんだ?」
地面に散らばった木材たち。一挙に抱えて行くのは物理的に不可能である。俺なら可能だが、それは俺が人間ではない状態を晒さなければいけないので、現実的ではなかった。
男は、心配しなくても良いと言いながら、近くの丁度良い大きさの岩に腰を下ろした。
「頃合いを見計らって網を持って来るように伝えてある。頃合いに、来るだろうさ」
多分それは、彼の連れの女性への言伝だったのだろうと、俺は勝手に解釈した。そして、それが間違いではないと分かるにはそれほど時間を要さなかったのだが、しかし、一種の驚きと共にこの正解は森を駆け抜けてきた。
男と同じように適当な場所に腰を下ろしてくつろいでいた間のことである。
最初に気づいたのは俺だった。人間よりもずっと性能の良い身体は、視力や筋力もそうだが、むろん耳も良い。それが遠目に、騒がしくしている何かを補足した。あんまり小さな音を拾ってしまうと不自然だったし、本当に遠いようだったので黙っていたが、これが近づいて来ると男の耳にも入って来て、二人の間に緊張が走った。
「何だ?」
「迫って来る……」
男の言うように、ここへ頃合いを見計らってやって来るのは、連れの女であるはず。だが、単なる人間である彼女では、こんなにどたどたと騒がしく、地鳴りのような足音を響かせることはどう考えても不自然だった。走ったって跳んだって無理な音の大きさ。やがて、これが複数であると分かる頃には、もう俺も男も何も言わず、剣を構え、音のする方を睨んでいた。
昼間でも、陽光は木々の折り重なった葉に遮られてろくに地上に降りてこない。ましてや、森のちょっと向こうとなるとまるで視界が利かないのだった。近づいて来る音に合わせて、障害となっているらしい木々がばったばったと倒れている。いよいよだ。そう思って剣を握り直した直後に姿を見せたのは、まずは男の連れの女冒険者と、ティアフだった。
何でティアフが? と疑問がよぎるのもつかの間、わーだのきゃーだのと悲鳴を上げながら全力疾走でこちらに駆けてくる二人の後ろに、俺はこの騒音の原因をついに見つけるのだった。
「……いや、あいつ、何したんだ?」
男が呆れている。何だか緊張感の削がれるぼやきだった。二人の女を追いかけるそれ、それらは、何十というマカイの群れであった。
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