幕間 助言

第35話

 ランツロイ川。

 東大陸ズィモアの最北端にそびえる世界最高峰、噴水山ミスケトから降りてきて、分岐しながら大陸を縦断し、内海・外海へと流れ出して行く大陸最大級の河川。ズィモアの誇る肥沃な大地は、ミスケトより大陸中に血液のように行き渡るランツロイ川によって形成されていると言って良く、大陸とそこに住まう全ての命にとって、ランツロイ川はまさしく生命線である。

 四百年前。“エバン”によって世界中の気候が変動した際、長大ながら穏やかであったランツロイ川は、ミスケトの大噴水の煽りを受けて瞬く間に大氾濫を起こした。怒り狂う大蛇のようだったと伝えられるランツロイの水害は、大陸中をのたうち回ってめちゃくちゃに破壊し、根こそぎ押し流してしまったという。何十万という人が犠牲となり、巻き込まれ跡形もなくなった都や町村は十や二十ではきかなかった。

 その爪痕は、本川であるランツロイ川から分かれていった多くの派川から見て取れる。今に残るランツロイ川の派川の内のほとんどは、氾濫によって新たにつくられた流れ、言ってみれば“若い河川”なのである。

 そして、派川という形でランツロイの水が大陸中に行き渡ったことで、東大陸は一層、肥沃な大地へと成長していった。噴水山の上流からよりたくさんの栄養を含んだ土壌が下流へと運ばれ、ひっくり返された土壌と混ざることで、大陸中の土壌の質が上がった。加えて、大陸の隅々にまでランツロイの良質な水が供給され、その質を保ち続けている。

 歴史的な水害は同時に、大いなる恵みでもあったのだ。

 むろん、そこに息衝く命もまた恩恵に与り、繁栄を約束されたようなものだった。人の住める場所ではなくなったエバンの地、西大陸を置いて、以降は東大陸が人類の中心地となったのも、こうした災害があってこそだった、と言える。

「エバン、ってのは?」

「先代にして初代の勇者ケイネンが、世界で最初のマイナー・バゼと戦い、相打ちに持ち込まれた決戦がある。ケイネンが優勢だったんだが、最後にはバゼが自爆して、西大陸の北半分ごとケイネンを道連れにしたんだ」

「大陸の半分……」

「バゼが初代にして最強だったと言われる所以さ。その際に多量のマナが消費されて、世界のマナのバランスが傾き、気候にまで影響が出た。例えば、ここ東大陸ではランツロイ川の氾濫。ただ、川が氾濫したぐらいは序の口さ。エバンの舞台である西大陸はマナが異常に濃くなって人が住めなくなったし、逆に気温が高すぎてとても住めたものじゃなかった南大陸なんかは、平気で住めるぐらいにまで気候が穏やかになった」

 大変革である。それまでの世界の常識が、マイナー一人の力によってがらりと変えられた。住めていた場所に住めなくなって、住めなかった場所に住めるようになった、なんて、もうほとんど常識の逆転現象だった。

 尽く尽く、死なないだけの俺は、エバンという大層な事象を引き越したマイナーに比べれば虫けらみたいなものだと実感させられる。

「アルマリクで暴れた女のマイナーも、あの都壁に穴を開けるぐらいの攻撃力があったらしいしな。死なないってのも相当だろうが、まあ、インパクトには欠けるよな」

「え、穴? あの分厚い壁にか?」

「そうじゃなきゃ、他の魔者がアルマリクにまで入って来るわけないだろ。カナタはそれの対処に追われたのさ」

 確かに、あの少女のマイナーに誘われて魔者がやってきたという話は聞いていたが、どうやってあの壁を超えたのかについては疑問に思っていなかった。

 あの壁を壊す……いや、無理だろうな、俺には。ひびを入れるぐらいなら何とかなりそうだが、あんな分厚い壁にひびが入ったからといって何だと言うのか。

 一方、カナタならすぱっと切ってしまいそうだ。マイナーと戦っていた勇者だって、アレを退治したってことは当のマイナーより強いのだろうし、壁を壊せるぐらいの力は持っていてもおかしくない。

 それでも俺は殺せないが、だからこそ俺の方が強い……と、そう簡単に結論できないのが戦いの難しいところである。

「死なないことと戦えることは別だもんな。カナタともまともにやり合ったわけじゃないんだろ?」

「スタミナ切れを狙った」

「不死ってのは案外、姑息だよな」

 嘆息するティアフ。狙った、と言うと何やら戦略的なようで聞こえが良いが、実際は“それしか手がなかった”とするのがより真実に近いだろう。あるいは、究極のその場しのぎの形こそが不死なのかも知れなかった。

「明日は早くに出るのか?」

「まあな。ていうか、ロー……リノンは疲れないんだし、こりゃ休む必要なかったかもな」

「おまえは疲れるんだから、いるだろ」

「荷物ごとあたしを運んでもらえれば、それでいいじゃないか」

 疲れを知らない俺は、昼夜を問わず歩き続けられる夢のような移動手段である。……と、理屈はそうだが、どういう手段で運ぶにせよ、移動しながらではティアフが十分な休息を取れるかどうか微妙なところだった。俺はそんなに器用じゃない。歩いたり走ったりすればどうしたって揺れるだろう。不死ってのは大雑把なのだ。

「ま、それは次に考えよう。今日はとりあえず休む。次もベッドに有りつけるとは限らないんだし」

 ぼふ、と真白なシーツに横たわるティアフ。スプリングが景気良く彼女の身体を跳ねて揺らした。

 俺たちはアルマリクを発ってその日の内に、次の都へと着いていた。正確には都ではなく衛星都市と言って、アルマリクのような、いわゆる公都以上の大きな都ではなく、それら大きな都の周囲にくっつく形で存在する、小さな都である。

 例えば、村や町なんて名前で表される生活集団を、一般的には衛星都市と呼んでいる。

 ちなみに、俺たちがその日の宿に選んだのはマリーエルルの村の宿屋だった。アルマリクから西、舗装された森の小道を進んでランツロイ川に突き当たる、その橋のほとりにある小さな村だ。

 住民は百人ほど。護衛としてセイバーが一人。アルマリクから歩いて半日という便利な立地のため、アルマリクから他の地方へと旅に出る俺たちのような人間や、あるいはよそからアルマリクへやってきた人間がマリーエルルに立ち寄って休息を取る。そうして次の朝には、アルマリクから出て来た者には本格的な旅が待っており、アルマリクへ向かう者は最後の旅程を迎えるのだ。

 村自体は小さいものの、多くの旅人が足を止める宿場町のような役割を持っているため、村民は訪問者に優しく開放的だし、宿泊施設もさすがに充実している。アルマリクのような大きな都と比べて喧騒とも無縁であり、心身を休めるには最高の環境だと言えた。

 この日、マリーエルルには俺とティアフ以外に、もう一組の冒険者がいた。宿屋の食堂でたまたま一緒になったついでに話を聞くと、彼らはアルマリクへ向かう旅の途中なのだという。何でも、噴水山の観光が目的で、アルマリクを経由する算段だったようだ。

 これも何かの縁だろうと、ティアフはアルマリクが今大変な状況にあることを、自分たちの素性を隠しながら伝えてやっていた。彼らがアルマリクに留まるにせよ留まらないにせよ、それぐらいの事情を話しておくのは当事者として当然の責任だと、ティアフは考えているようだった。幸い、アルマリクの西側は被害を受けておらず、冒険者一組を受け入れるぐらいの余裕はある。それに、この男女二人組の冒険者は少なくとも魔者の類ではないし、話した限りでは人も良い。アルマリクにとって不利益になるような訪問者なら、何か理由を付けて引き返させたのかも知れないが、ティアフはそういう判断を下さなかった。

「旅は道連れ世は情け、ってね。俺たちは一宿一飯の恩を着て歩く代わりに、そいつを旅先の誰かに返してやる。それが、冒険者の矜持ってもんさ」

 少しばかり酒に酔っているのか、グラスを掲げ、芝居じみた調子で男の冒険者が語った。傍らでは、女の冒険者がうんうんとしみじみ頷いている。

 気分が昂って来たのか、男は朗々と話を続けた。

「旅ってのは一人じゃできねえんだ。一緒に歩く誰かがいなくても、きっとどこかで世話になってる。大体、その服も、その剣も、その薬も、自分一人で用意したわけじゃないだろう」

「そういう完璧な奴だっているかも知れないじゃないか」

「あはは。そうだな。いないとは言わねえ。けどよ、そういうやつは多分、旅なんてしないのさ」

 決まった、と心の中ではポーズでも決めていそうなぐらい、その台詞を言い切った男の顔は得意げだった。おそらく、それは彼の哲学なんだろう。どれだけの時間を“旅”という行為に捧げて来たのかは知れないが、俺たちよりも一回りは年上に見える冒険者の言葉は重く、そして、熱かった。

 彼らが酔い潰れるまで続いた楽しい会話を終え、こうして自分たちの部屋に戻って来てもまだ、その言葉を良く覚えているぐらいには印象的だったのだ。

「なあ、リノン」

「何だ?」

 掛け布団にくるまって就寝の態勢に入っていたティアフが、こっちに背を向けて横になったまま、声をかけて来た。俺は、ティアフが寝ているベッドの隣にある、もう一つのベッドに腰掛けている。

「名前以外に思い出したことはあるのか?」

「あるよ」

「言ってみろ」

「マイナーってのは、この世界を壊すためにいる」

「何だよ、それ」

 常識じゃないか、と。

 聞いて損したと言わんばかりに布団をかけ直すと、ティアフはそのまま寝入ってしまうのだった。

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