第9話
「服が汚れちまった。何でこう出口が狭いんだ、時計塔ってのは」
「良くここだって分かったな」
「バカかおまえ。こんな夜更けに時計塔に登っているやつなんて、どうせまともじゃねえ。そもそも、外に出ること自体も正気じゃねえのに」
「そうなのか?」
「セイバー殺しが近くにいるんだぞ。怖くて出歩けるか」
「俺は別に、この都の人間を全部殺そうって気はさらさらないけど」
「そんなことは昼間に大通りで申し開けよ」
もっともな話だが、誰が信じるのか怪しい話でもある。何にしたってセイバーが飛んできて俺を捕えようとするだろうし、余計に騒ぎを大きくするばかりであまり意味はなさそうだ。
使者が俺の横に立って、同じ景色に目をやった。月明かりに浮かぶ昨晩の襲撃者の姿を、俺はそこで初めてまともに目にするのだった。
肌寒い夜だというのに、露出の多い軽装の少女。リエッタよりも更に幼く、年はおそらく十四、五歳。目を引くのは横顔だけでも十分に分かる冷め切って感情のない表情と、頭と腰に生えた人間ならざる黄金のふさふさ、狐の耳と尻尾だった。
ケスタやメイルクと同じ種類の人間。こういう人間を、何と言うんだっけ。
「人をじろじろ見るなよ、ヘンタイ」
「その耳と尻尾、きれいだな」
「……」
少女の目つきが鋭くなって、俺を睨んだ。ヘンタイと言われもない罵倒をされたから、反発してわざと空々しい言葉を選んだのだが、どうにもそれが気に食わなかったらしい。
けなしたわけじゃないのだから、そんなに怒らなくても良いだろうに。
「一応確認しておく」
ぷいと俺から目を逸らし、少女はまた、アルマリクの景色を望んだ。
「この話は昨日の続きだ。理解してるな?」
「してるよ。おまえは昨日、俺を襲った“最初の”方。夕方に会った男二人はおまえの仲間だな。ま、辿り着いたのは偶然だったんだけど」
「確証もなく自分がセイバー殺しだなんて、よくもまあ言えたもんだな。やっぱり狂ってるよ、あんた」
「かも知れない。その狂ってるやつに、おまえらは何の用事があるんだ?」
「昨日も言ったはずだ。仲間になるのなら教えてやる。その気があるからここに来たんだろう?」
もちろん、その通りである。考えを改め、発言を撤回するつもりでなければ、自分で突っぱねた話をわざわざ蒸しっ返しに来るはずはない。
「仲間に入れてくれ」
「見返りはないぞ」
「分かってるって。……いや、やっぱだめだ。欲しいものはある」
少女がいかにも面倒くさそうに、俺を見た。
そんなものはないと言い切ったやつが、昨日の今日で手のひらを返しているのだから、それはそれは気味悪く聞こえたことだろう。
だが、仕方がない。一日過ごして俺には欲しいものができていたのだから、ここでねだらずいつねだる。少しだけ、自分の思考の整理をして、俺はその
それは。
「知識」
「……知識?」
「この世界のことだよ。俺はあまりにもこの世界のことを知らなさすぎる。そうさ、今気付いたけど、俺はこの都の名前を知らなかったどころか、“この世界が何て呼ばれているのか”も分かっていないんだ。そういうものを教えて欲しい」
少女はきょとんとして、俺を見つめた。人に見つめられてはヘンタイと罵っておいて、自分は隠そうともせずまじまじと、だ。この反応には覚えがある。つい先日にも見た光景だ。俺の質問にすぐに答えなかった、あの追手の隊長と同じ、自分に向けられた言葉を咀嚼し終わるまでの短い空白。
硬直が解けたかと思うと、物凄く大きなため息を吐かれた。幸せのせの字までが逃げていくようだ。吐息に滲ませたのは呆れか疑念か、夜の都に溶けていく感情の正体は分からない。
「狂っちゃいるとは思っていたが、道理で」
何やら納得しているが、何が“道理”でなのかは話してくれなかった。
「他には何を知らないんだ?」
「コウセイ、セイバー、魔法、魔者、マイナー、目が覚めてから聞いた言葉はこの辺だな。後は、そう、自分が何なのかも」
「何って、人間じゃねえのか?」
「人間はあんだけ首を切られたら死ぬだろ。大体な、俺はあの後、追手のセイバーの隊長みたいなやつに首を落とされているんだ」
すっぱりとな。
けれど、生きている。
木の実をもぎり取るみたいに軽々と首を落とされても、こうして何の支障もなく平然としている。
「あの傷から生き残ったんだ、きっとバカみたいな回復魔法が使えるんだとは思っていたよ。それぐらいぶっとんでなきゃ光聖とは渡り合えないしな。けどまあ、考えてみりゃ、追手のセイバーから逃げ切ったってのもむちゃくちゃな話だ。相手は五人、しかも“あの”隊長までいたんだろ? セイバー五人と戦って無傷だなんて、ぶっ飛び過ぎだ」
首一つに腕一本を落とされながらも最終的にノーダメージで済んでいるというだけで、それを無傷と言い張るのは傲慢だろう。そもそも、一方的に斬られはしたが、エストっちやリエッタとの間にあったような、いかにもな戦闘行為はあの晩には欠片もなかった。こっちは一瞬だって手を出していないのだ。
ていうか、首を落とされたことはスルーなのか?
「……いや、だって嘘だろ? 適当言っているだけで」
「そんな嘘をついて何になるんだ。本当だよ。俺は人間じゃないんだ」
人間とは何であり、人間でないとは何であるのか。ミノタウロスぐらい分かりやすく人間離れした姿であれば簡単だが、生憎と、俺は外観だけは真っ当人間らしい。ローブに身を包んでいたとはいえ、街をあれだけ歩き回って騒ぎにならなかったのが良い証拠だ。
これがミノタウロスなら、同じ結果とはいかなかっただろう。サイズからして違うわけだし。
「エストっちやリエッタには化け物だと言われた。マイナーだとね。昨日の追手も同じさ。それで、わけも聞かずに襲い掛かって来た。でも、それはついでだ、俺が俺を
人間は、もっと簡単に死ぬ生き物である。
俺の数少ない記憶、記録? 歩き方や呼吸の仕方と同じようなレベルの知識として、俺の頭は人間をそういう生き物だと定義している。
「首を切られる。首を落とされる。そんなものは序の口だ。俺はエストっちやリエッタには、もっと決定的な破壊を受けている。比喩じゃなく、全身が吹き飛んで塵になるような攻撃を何度も喰らった。比喩じゃないから、俺は何度も吹き飛んで塵になったよ。でも、その度に元に戻った」
しかし、エストっちやリエッタはどうだ。腕を折れば折れたまま、目を潰せば潰れたまま、心臓をほじくり出せば死に、首をねじり切れば死に、元が何だったのかも分からないほどぐちゃぐちゃにするまでもなく、彼らは元に戻ることがなかった。俺は、そういう致命傷に対して無力な生き物をこそ、人間だと認識している。
とすれば、俺は人間ではないのだ。致命傷を負っても生き返ってしまうから。
……いや、この再生を“生き返る”と表現するのも少し違う。
感覚的な話になってしまうが、“それだけのダメージを受けても死なないから、死んでいない以上は元通りに治るのが自然だ、筋だ”、そういう理由で俺の身体は再生している……ように思える。
死を不可逆な怪我や病とするのなら、再生可能な俺はいまだ、“死ぬほどの傷は一度たりとも受けていない”というわけだ。
あえて言葉にするのなら、致命傷未満の範囲が異常に広い。普通の人間なら即死しているような傷も、俺にとってはかすり傷ですらない。かすり傷ですらない傷が、命に関わるだろうか?
否だ。故に俺は
「昨日の追手にそれだけの力はなかった。隊長と呼ばれていたやつは結構むちゃくちゃだったけどな」
剣の届いていない空間までを一緒に斬り伏せる。氷を出したり光を放つ魔法に比べれば、ただ斬れるだけの隊長の剣は単純明快で、大したことがないのかも知れない。どっちにしてもこっちにダメージがあるという点では同じだが。
これは、少女が問うた“どうやって逃げ延びたのか”に対する解答でもあった。負ける要素がない、だから捕まる要素がない、だったら逃げ延びてもおかしくはない、と。
少女は特別、疑問が解消されたからと言ってリアクションをくれたわけではなかった。答えるかいのないやつだ。くだらないほら話と思って聞き流しているのか、素直にまじめに聞き入れてくれているのか、アルマリクを望む横顔からは何とも判断がつけられない。
少女は冷たく、短く。
「確かに、それは人間じゃない」
本当ならな、と俺を睨んだ。
「証拠を見せてやろうか」
「首を落とせって?」
すらり、とどこからかナイフが出て来る。ためらいがなさ過ぎるんじゃないか、と制止したくなる自然さだが、既に一度は俺の首を掻っ切っているのだ、二度目ともなれば抵抗もないのだろうか。
「それでもいいけど、例えば、こういうのはどうだ?」
ナイフの提示をスルーして、肩の高さに腕を上げる。遠くの景色を掴もうとするように。
「……何だ、魔法でも使うのか? あんまり派手なことは……」
ぐしゃ。少女の忠告を待たず、俺の右腕が変形する。
腕の至るところから、新たに指のような細さの肉の筋が生えて来た。隆起する肉は、皮膚を突き破り、血を滴らせて前方へどんどん伸びていく。縦横構わず扇状に広がっていく肉の筋は、さながら腕が樹木となって、その生長を早回しにしているようだった。だが、その赤黒い肉木が纏うのは生命の神秘や感動ではなく、夜よりも暗いおぞましさであった。
冒涜や、邪悪の類だ。
十秒もすれば、俺の腕の原型はもはや残っていない。右肩から先にあるのは絡み合って宙へと伸びる肉の枝。かすかに鼓動し、血液で濡れ、月明かりに鈍く煌めく剥き出しの生身、その集合体。
「何だ、……これ」
「俺の力。能力って言えば良いか?」
目を覚ました瞬間から自覚し、認知していた不思議な機能。
そう、俺は始めから、この機能が自分に備わっていることを知っていた。あるいは、そういう機能の塊こそが自分であることを知っていた。
あんなに巨大で恐ろしい、分かりやすく死神の姿をしたミノタウロスを相手に、恐れを覚えず、逃げようと考えず、目前に迫る死を他人事のように眺めていたのは、心のどこかではこのミノタウロスに殺されることはない、何をどうしたってここでは死にっこないと確信していたからなのだ。
意識が気づいていなくても、無意識の方はしっかりと気づいていた。
「……これ全部、おまえの腕なのか?」
「そういうことだな。一本一本細かくは動かせないし、詳しくも分かってないが、簡単に言えば、俺は自分の身体をいくらでも増殖して、再生できるんだ」
「じゃあ、首がどうのってのは……」
「本当だよ。なくなったら首だって増やせば良い」
「魔法……か? いや、こんな魔法は見たことも聞いたことも……」
それは俺にも分からない。だから、俺は知りたいのだ。
少女はしばし考え込んで、何の答えも口にせず、代わりにため息を吐いた。何か分かったようであれば是非とも聞きたかったところだが、その様子では彼女にも、俺という奇怪な現象についてはお手上げだったのだろう。
「エストやリエッタは、あんたをマイナーだと言ったんだな」
「ああ、言われた」
「なら、あんたは本当にマイナーなんだろう。魔法ってのは“そういう力”のことを言わない。マナの集散がなかったからな、あんたの増殖や再生とやらは、魔法じゃないんだ。それだけは間違いない」
「マナ……ってのは、魔法を使うための何かか?」
「大雑把に言えば、この世界の素だよ。……まあ、その辺りの話はまた追々してやる。とりあえず場所を移そう。ちょっと長居した。ここじゃ誰に見つからないとも限らない」
踵を返す少女。中から降りて外に出る、ということだろう。さすがにこの高さを飛び降りて、とはいかないようだ。
「着地はできるが、魔法を使っちまう。目立つんだよ」
少し言い訳がましかったのは、俺の言葉が、こんな場所からも降りられないなんて、と責めている風に聞こえたからだろうか。そんないじわるな意図はなかったのだが、弁解する前に少女は床のドアを開けて、さっさと頭を引っ込めてしまった。
かく言う俺だって、ここから飛び降りればただじゃ済まないのだから、他人をとやかく揶揄するような真似はしない。ただでは済まないとはつまり、結果的に無事には違いないが、スマートな着地とは程遠い、凄惨な現場となること請け合いである、という意味だ。
ドアから降りる前に、俺はもう一度、周囲の風景に目をやった。何となく辿り着いた展望だが、離れるとなると少し惜しい。同じ高さの屋根が並ぶ景色は美しく、整然としてまさしく人工的、人の情熱と歴史を感じずにはいられない。その感慨は、迷路のように入り組んだ地上の路地裏を這いつくばるようにさまよっていては、きっと決して手の届かなかっただろう、得難い感動だ。
「何してる、早く行くぞ」
塔の中から急かす声。月夜に沈む平べったい赤煉瓦の街並みに別れを告げて、味気もない石塔へと降りていく。
螺旋階段の少し先で、少女が足を止めて待っていた。もたもたするな、と小さな背中が語っている。
がちゃん。鉄のドアを下ろして閉めると、月明かりがなくなって途端に暗くなった。吹き抜けの眼下には別の灯り。歯車とコップが置かれていた部屋の灯が、ほのかに塔の中を照らしている。
「一つ、聞き忘れてたよ」
出口の狭い空間を出て、やっと階段に立ったところで、少女がそんなことを言った。外と違って、塔の内部では声が響く。
「俺に何か聞いたって無駄だと思うぜ」
「自分の名前もか?」
「自分の名前もだ」
「得意気にするなよバカ」
間抜け、ヘンタイに続いて、今度はバカと来たわけだ。ひねりがない分、ストレートに心に刺さる。
「そうか、名前がないんじゃ不便だな。とりあえず、今のところは『ロー』ってことにしておけ」
「ロー?」
「あんたに良く似た魔者だよ。その名前の一部。もしかしたら親戚かもな」
どこまで本気か分かったものではない。が、歩き出した少女に意味を問うても無駄だろうということは、今までのやりとりで何となく予想できてしまって、俺は素直に与えられた名前を受け入れることにした。
ロー。
何とも投げやりな名前だ。
けれど、目覚めて何日も経っていない俺にはうってつけの、取って付けたような名前だとも思えた。取って付けたようにこの世界に生まれ落ちた俺の体を表すに、そんなに上等な響きもない。
俺はそこで初めて、彼女の名前を知らないことに気づいた。
「なあ、おまえの名前は?」
少女が足を止める。こっちを見る彼女の眼はいつだって、刺すように鋭い。そういう目つきなのか、人を睨む癖でもついているのか、単に俺が嫌いなだけなのか。……まあ、好かれてはいないのか。答える代わりに罵倒が飛んで来ることまで覚悟したのだが。
「ティアフ・ケイ・エコン」
存外素直に、返してくれるのだった。
「てぁぃあふけい……あー、どこまでが名前だ?」
「ティアフで良いよ。ったく、ケイの意味まで知らないんだな、あんた」
だからそうだと言っているだろう。記憶ぽんこつの俺に何を期待していたのか、いや、期待通りだったからその返しなのか。かつんかつんと階段を降り始めた少女、ティアフの真意を問うことを、やはり俺はしなかった。
返してはくれないと分かっている。俺の質問は彼女を素通りして、きっと薄暗い吹き抜けの底に落ちていく。“追々”という言葉を信じて、今はその背中について行く他に道はない。
矢先、ティアフが足を止めて、こちらを振り向いた。もう階段を半分も降りた辺り。
「もう一つ。忠告しておかなきゃいけないことがあった」
それは、俺というものが一体何であるのかを強く知らしめるものだった。
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