第8話

「高え」

 屋根に上がって仰いでなお高い建物だった。高くなるにつれ細くなる色白の身体に、真っ青な三角帽子の尖塔。頭には大きな鐘をぶら下げた鐘楼があって、そのすぐ下に時計板が張り付いている。

 全長はミノタウロスより更に大きい。比べ物にもなっておらず、二、三十メートルはあるように見えた。同じ高さの民家が並ぶ中でぽんと頭抜けているので、一層大きな印象を受ける。これでは、背の高い方とされている東の時計塔は一体どんなに大きいのだろうか。

 人影がないことを確認して、広場に降りる。中央に時計塔を据える円形の広場に軒を連ねるのは種々の商店だ。住居と商店が一体化した家屋が、広場を壁のようにして囲んでいる。まだ灯りのついている店もあって、堂々と広場を歩けば見つかる可能性もあったが、そうしなければ時計塔には辿り着けなかった。一足飛びに広場を横断する手もなくはないが、空高くに浮かぶ人影、万が一見られでもすれば、かえって怪しまれるに違いない。

 時計塔の足元をぐるりと巡って、どこで時間を潰そうか悩んでいる内に、俺は内部へのドアを開けていた。一体何をそんなに拒もうというのか、鉄製の重厚なドアから入ると、何の音もしなかった夜の静寂から一転、時計を動かす機械仕掛けの音が密やかに降って来た。

 人に見られることも、これであるまい。後ろ手にドアを閉めて、フードを脱ぐ。

 壁掛けのランプが煌々と、天井低く区切られた空間を照らしている。音は頭上から聞こえているが、見上げても木板があるだけだ。塔の高さに対して低すぎるから、塔内はいくつかの階層に分かれているのだろう。

 一階から二階へは、入口の突き当たりにかけられた梯子から。

 一階の天井裏に当たる二階は作業部屋らしく、細々とした道具が雑多に一カ所にまとめられ、後はシンプルな作業台がどんと置かれていた。何やら小難しい文字や数字の詰まった、時計塔の骨格を描いた製図が所狭しと広げられている。一階のランプの灯りが漏れているから何とか目が利くが、二階には最初から動いているランプがなく、この薄暗さでは図面も完璧には読み取れない。

 ただ、文字は読めるし、意味も分かった。俺はそこで、自分にまともな読解力が残っていることに初めて気づくのだった。近くのペンを借りて勝手に製図に落書きをしてみると、文字を書くのにも困らず、すらすらとペンが紙の上を走る。

 識字よみかき能力は失っていなかった、というわけだ。

 製図に印刷された言葉の内で意味の分からないものはおそらく、一般常識から大きく外れた専門用語なのだろう。それは知らずにいても問題はない。将来、時計技師にでもなろうというのでなければ。

 一つ、自分について理解が深まったことで、俺は満ち足りた気分になり、意気揚々と次の階を目指す。

 二階から先は吹き抜けで、螺旋階段が円周の壁の内側を伝う造りになっている。おそらく全体の半分も上がった位置に二枚目の天井があって、螺旋階段も一旦、そこで終わりだった。

 都合三階。

 かん。がちゃこん。

 ランプが照らすのは、背の低い天井に区切られた空間、時計塔を制御しているらしい機構が詰まった小さな部屋だった。

 かん。がちゃこん。

 機構と言っても、それは俺と同じぐらいの背丈しかない、空中に固定された一枚の円盤と、二個のコップに過ぎなかった。

 かん。がちゃこん。

 大小無数のゼンマイが折り重なって形作られたいびつな円盤。そのゼンマイの集団の中心にガラスのコップが二個、上下に離してはめられている。

 かん。がちゃこん。

 下にある方は口を上向きに、上にある方は口を下向きに、対になったコップだ。

 かん。がちゃこん。

 コップには何も入っていない。雫の一滴もついていない。

 かん。がちゃこん。

 けれど、上のコップの底――口が下向きだから底は頭にあるのだけど――からは定期的に一粒の水滴が沸いて、真っ直ぐに落ちては下のコップの底を叩く、ということを繰り返していた。

 かん。がちゃこん。

 下のコップの底を叩いた水滴は乾くのではなく、吸い取られるといった風にすうと消えてなくなり、代わりに上のコップの底にまた水滴が現れる。

 かん。

 と水滴がコップを鳴らすと。

 がちゃこん。

 と円盤に組み込まれた全てのゼンマイが動くのだ。

 何か一つのゼンマイに連動しているのだろうが、コップと直接繋がれたゼンマイがない以上、どれが全体の引き金となっているのかは分からない。

 かん。がちゃこん。

 見ていると見入ってしまう、不思議な光景だ。規則正しい水滴の音。折り目正しいゼンマイの動き。何十、何百と繰り返したところで変わり映えのしない水滴とゼンマイのコンサートは、退屈なほどに研ぎ澄まされて、美しかった。

 かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん。かん。がちゃこん――――――――。

「あ」

 どれだけ意識を奪われていたのか、ふと、それが時を刻んでいることに気づいて、俺は現実に戻って来た。

 かん。がちゃこん。

 は、一秒を知らせる時計塔の鼓動。

 俺と同じぐらいの大きさの、このゼンマイの円盤と二対のコップは、何十メートルにもなろうという、この巨大な時計塔の心臓なのだ。

 かん。がちゃこん。

 言ってみれば、俺は今、時計塔の内臓を渡り歩いている異物である。明らかな外来者。けれど時計塔は物言わず、それを傍観する。

 後ろ髪をひかれるような思いを振り払って、俺は心臓部を通り過ぎ、更に上あたまを目指す。円盤の脇、梯子を伝って低い天井を抜ける。板一枚を隔てたばかりで、もう、“かん。がちゃこん。とけいのこどう”は遠くなって聞こえていた。

 また吹き抜けだ。高度が上がるに従って細くなっていく時計塔の内側を、二度目の螺旋階段が巡っている。今度は、次の天井までそれほどかかるわけではないようだった。

 薄暗い螺旋階段は天井すれすれまで続いている。その最後には、人が座って入れるぐらいのごく狭い空間が残されていた。行き止まり、ではない。天井にくっついた、空に向かって開くドアが見える。

 隙間に身体を畳み込んで、うんとドアを押し開けた。

「ははあ……ここに出るのか」

 まず目に入るのは、ぜつを垂らした巨大な鐘の口。四方にはアルマリクの街並み。ここは時計塔の頭部、時計板より更に高い場所にある小さな鐘楼だ。

 ドアを閉めもせずに這い出ると、外に足を投げ出して縁に腰掛ける。風は冷たくて、高所だからか少しだけ強く吹いている。気を張っていないとあおられて落ちてしまいそうだ。石畳に激突したところで死にはしないが、また登るのは面倒くさいし、騒ぎにもなるだろう。

 遠くにはもう一つの時計塔が見えていた。故に東……おおよそ東の方角に向いて、俺は座っているはずだった。辺りの足元を覗いて見ても人影はないから、ケスタの言っていた迎えはまだ来ていないようだ。というか、こんなに高いところにいて使者は気づいてくれるだろうか。最悪、こちらが気づけば良いか。こんな夜更けに出歩く人もそうはいまい。

 灯りの消え始める夜景を眺めてぼんやりと、時間を過ごす。

 天地の間から見渡すアルマリクという都の有り様は、屋根上から見渡す景色とはまた違って見えた。高度が違うのだから当然だが、とにもかくにも、アルマリクがいかに巨大な都なのかをまじまじと思い知らされるという点においては、今日一番の衝撃が時計塔からの景色には潜んでいた。昼間はこの中を、まともに顔も確認できなかった一人の娘を探して歩いていたのだから、無謀というか、我ながら呆れる無茶無策である。

 そりゃあ、見つからないわけだ。

 都がこうまで大きくなるのに、一体どれだけの時間がかかったのだろう。見た目の印象もさることながら、目にすることのできない時間の積み重ねにも思いを馳せると、何だか厳かな気持ちになってくる。

 都からすれば、俺という化け物は取るに足らぬほど小さいに違いない。

 人間は化け物を嫌うし、化け物は人間と戦うが、都にはどちらも同じように見えているに違いない。

 突きつけられる自らの矮小さを誤魔化すように、こうやって高所に陣取ってなお、だからこそ心底から、こうして広がる街並みが把握のしようがないほどに大きく、遠いのだと知る。

 ああ、そうか。

 エストっち、リエッタ、昨日の追手の隊長。

 彼らが守っているものの正体なのだ、これは。

 時計塔から望んでみたところで視界に収められない巨大都市。数え切れない人の集まりと、想像もできない時間の積み重ねを、彼らは背負っている。

 だから、命を賭けて俺に向かって来た。命を賭けなければ到底、こんなに大きなものは背負えないのだろう。

 途方もない話。何て現実感のない。けれどあの隊長は、それをきちんと自らの価値観の中に落とし込んでいた。

 凄まじい人間だ。俺なんて、眺めているだけで心が押し潰されそうなのに。

「開けたら閉めろよ、間抜け」

 そうやって感傷のようなものに浸っていると、背後から覚えのある声がした。可愛らしくも刺々しく冷たい音、一言目には罵倒して来る失礼な態度。確認もせず、振り返るまでもなく、俺はそれが使者なのだと理解した。

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