第3話
後には、牛が持っていた巨斧が残った。逆さまになって地上に突き刺さり、ぷすぷすと煙を上げている。光の柱の攻撃を受けながら、持ち主であるミノタウロスよりは軽微なダメージで済んだようだった。使い手を失った巨大な斧は、それだけを眺めても空から三日月が落ちてきたのかと思うぐらいに大きい。いわゆる、人が持つサイズの斧を知っていればこそ余計に、規格外の規格を見上げると目の眩む思いがした。本当は小さな斧が大きく見えているだけなのではないか、そんな風に遠近感がおかしくなったような気分にさせられる。
冗談みたいに巨大なそれ。
使い手がいなくなっては武器ではなく、ただ大きなだけの悪趣味なオブジェである。
あるいは墓標か。あまりに攻撃的な形だが、猛進するミノタウロスにはおあつらえ向きだろう。
リエッタは空中でくるくると回転しながら、すた、と華麗に巨斧の柄の先に着地した。
その表情は険しく、端的に言って不機嫌だった。
「エストっち! これ、壊れなかった!」
とんとん。足元を踏み鳴らして叫ぶ。見れば分かることをわざわざ口にするのは、それが異様で不可解だったからだろう。
エストっちは斧を仰ぎながら少し考えて、後回しだ! と返した。抗議の素振りもなく、軽やかに斧の柄から降りるリエッタ。二人が合流して、こちらに歩いてくる。
あれだけの戦いをしておいて、終わってみれば目立った怪我がない。一度目の
おそらく、回避不能な衝撃波か何かの跡。ミノタウロス(仮)が振り回していた武器は大きさからして普通じゃなかった。間近で受けていたリエッタなら、直接的なダメージを負わなくとも何らかの被害を受けていなくてはおかしな話である。
エストっちとリエッタは、離れたところに座って戦いを眺めていた俺の側まで来て、まだ腰を下ろしたままの俺に手を差し出した。
「無事か、兄弟?」
差し伸べられた手を取らず、斧を見つめて問う。
「なあ、アレは壊さなくて良いのか?」
「リエッタの魔法を喰らってアレじゃあな。壊せはするが、マキナがすっからかんになっちまう。あんまりうまい話じゃない」
魔法? マキナ? すっからかん?
「業物なんだろうね。ミノタウロスより頑丈だなんて。あれ、ゴールダが欲しがるよ」
「もう少し小さければ持って帰っても良かっただろうが、……まあ、でかすぎるし、それに……」
二人に手を引いて、起こしてもらう。立ち上がるのには何の抵抗もなかった。あれだけの勢いで吹き飛ばされて、受け身も取らず地面に激突しておいて、痛みの一つも残っていない。そもそも、落下の衝撃は全身に感じても、痛みなんてものはちっとも、最初から、感じていなかったのだ。
「さあ、帰ろう。さっさと仲間を呼んで来て……おい、兄弟!」
俺の肩を、エストっちが掴んで引き戻した。彼の話を聞かず斧の方へ歩き出したからだ。
「セイバーでもないのに、あんなのに近づいたら死ぬぞ」
「何だよ、武器だけじゃないか。牛の方は死んでるし。それとも武器だけで動き出すとでも言うのか?」
「動きはしないが、魔者を生む可能性がある。持ち主より硬い武器だ、ミノタウロスの方が“振らされていた”のかも知れない。その通りになってみろ、あっと言う間に喰われて死んじまうぞ」
確かに、あのミノタウロスみたいなものがひょいひょい湧いて来るなんて、タチの悪い悪夢だ。
「……まあ、多分、食われる心配はないよ。それに、俺ならアレを壊せる」
「壊せるって。わたしの魔法で壊れなかったものを?」
リエッタが口を尖らせる。やっぱり、渾身の一発を耐え切られたのにはきちんとかちんと来ていたらしい。
「壊せなかったとしても、その時はあんたたちの仲間を呼びに行けば良い」
エストっちが深くため息を吐いて、俺を睨んだ。心配ないと言い張る素性の知れぬ少年を面倒臭そうに非難する、そんな目。俺が引かないと見ると、分かった、と半分諦めたようにして彼は渋々頷いた。
「ちょっとエストっち!」
「だけど一つ確認させてくれ。おまえ、腕の怪我はどうした」
ミノタウロスの斧が食い込んだ腕の傷。切断一歩手前までいった深い切り口は、エストっちたちに最初に見つかった時には半分も塞がっていて、今や見る影もなかった。腕はぴたりとくっつき、血の一滴も流れていない。ただ、乾いた血が腕に張り付いていて、確かにそこには怪我があって、酷い流血があったことを知らせていた。
夢のように消えてはいるが、夢ではなかったのだ。痛みがなくて実感がなかったとしても、嘘ではなかった。故にその大怪我は。
「治ったよ」
俺が彼らに背を向けて斧の方へ歩いて行くのを、彼らはもはや止めようとしなかった。といって放任ではなく、こちらに聞こえないように二言三言、会話をするような素振りをして、距離を取って後をついてきた。護衛だろうか。エストっちの言うことが本当なら、斧は化け物を生み出して俺を襲うかも知れない。
その、持ち主を失ってなお不気味な雰囲気の消えない斧は、近づい見てもやはり呆れるほどに大きかった。刃だけでも俺より大きい。柄まで含めればもっとだ。沈黙する鉄塊に向かって、俺は半身に構えた。化け物が出て来る気配はない。心底をちくちくと刺す寒気のような気味の悪い感覚はあったが、今すぐに化け物が出てきて噛みついて来るだろうという差し迫った危険は察知できなかった。
代わりに確信する。
俺はこの斧を壊せるんだ、と。
根拠を問われれば言葉に詰まるが、自信は溢れて止まらなかった。
寸分先も見えない霧の中で、その先にある見えない何かの存在を直感して主張するようなもの。心もとなくあやふやでありながら、“で、あるからこそ”今は何よりも信頼できると肯首し得る正体不明の確信が、胸の中にあった。
希望的観測ではない。そうなって欲しいという願いでもない。
そういう事実を知っている、そうなる未来に決まっているという疑いようのない必定。
根拠もなく突拍子もない、“壊せる”という回避不能の未来が今、俺の手の中にある。
目を覚ますよりも前のことが何も分からない俺にしてみれば、そういうまっさらで中身のない、今の自分と同じ境遇にある“不確かな確信”だからこそ、不思議なぐらいにすうと飲み下せるのだった。
自信は、ひるがえって自身であったのかも知れない。
「でえええやああああ!!!」
思い切り振りかぶって、右の拳を突き出した。があん、と斧の刃の側面を叩く。何もおかしなことはない。誰も止めなかったし、障害物だってなかった。
だが、それだけである。当然だ。普通に考えて、人間の腕力が何トンになるかも分からない鉄塊を打ち砕けるわけがないのである。エストっちは“魔法”と言った。エストっちが出した氷、リエッタが出した光。人間はあの、腕力や体重以上の結果を生み出す“魔法”をもってやっと、化け物や、化け物の振るう武器と対等なのだろう。
俺に魔法の心得はない。何せ、彼らのそれを魔法だと気付かなかったぐらいだ。やればできるのかも、という予感さえない。
故に、俺の自信は魔法に因るものではなかった。
斧を叩いた右腕に力を込めると、肩から先が炸裂する。木っ端微塵に吹き飛んだのではない。一本の腕が無数の肉の筋となって分散し、放射状に広がったのだ。血を撒き散らして迸り、瞬く間に斧を掴む剥き出しの肉。さながら、あのミノタウロスよりもずっと大きなイカやタコの類が、斧に纏わりついて鷲摑みにするようである。
目の当たりにして、けれど後ろの二人は何も言わなかった。
疑問の一つ、悲鳴の一つもあげなかった。ただ、事の推移を見守っていた。ミノタウロスと戦う彼らの背中を俺がじいと見つめていたように、彼らの視線を背中に感じながら、深呼吸を挟んで、俺は元の面影もなく変化してしまった右肩から先、その全てに力を込めた。
「……砕けろ!」
イメージはまさに巨人の腕。斧を握り潰さんとする強烈で超現実な妄想。斧の刃に絡みついた肉の筋を指と思って神経を震わせる。一つひとつにまで思考は行き渡っていて、しかし全てを別々に把握するには至っていない。だとしても、動かせると確信した妄想は確かに、全ての肉の筋を現実として動かしたのだ。
ぎぎぎ、――ばこん!
斧が砕ける。割とあっさりと。
刃の部分が粉々になって、粉々と言っても一つひとつは人の頭よりも大きな鉄塊だったが、がこんがこんと地面に降り注いだ。
「なるほど。おかしいとは思ったけどね」
ばらばらにされた刃より少しおくれて、鉄の冠を失った長柄が地面に落ちる。一際大きな地鳴りと地響き。地面が窪んで、砂埃が撒き上がる。鉄製にせよ木製にせよ、あれだけ大きければとてつもない重さなのだろう。
こちらに倒れていれば、危うくぺしゃんこだった。そこまでは考えていなかったのだ。
エストっちは、そんな俺の心配を他所に、続けた。
「あの怪我が治る、だって? 骨まで到達していたような傷を? 高位のヒーラーでも、あの短時間ですっかり治すなんて無茶な話だ。我らが女神様ならともかく」
「うん。あんた、マイナーだったのね。普通はすぐに気づくはずなんだけど、今ならはっきりと感じる。うまいこと化けたものだわ。まさしく」
化け物ね。
鉄の雨が止む。草原の最中に生まれた、鉄塊の砂利道。
振り返るまでもなく、二人からは明確な殺意が感じられた。ミノタウロスに対峙した先ほどの二人と同じ、針のように鋭い緊張感。きっと、その切っ先をこちらに向けていることだろう。魔法を使う時、二人のどちらもが片手の剣を使っていた。エストっちは砲身のように固定して、リエッタはラケットのように振るうことで、あの化け物と戦ったのだ。
「化け物。くく、化け物かあ」
身も蓋もない言われようがおもしろくて、俺は少し笑ってしまった。今の自分を表すのに、そんなに分かりやすい表現はないじゃないかと、納得してしまったのだ。エストっちやリエッタのような人間と、彼らが戦ったミノタウロスという化け物と、どちらがより俺に近いかと言われれば、それは後者に違いない。
根拠なく、確信できる。
自分という生き物は普通ではないのだ。人間の枠内での話ではなく、もっと大きな次元の話で、普通じゃない。
「マイナー。それが俺の名前か」
「悪く思うなよ、兄弟。セイバーは魔者を殺す。マカイも、マイナーも、例外なく殺さなきゃいけない」
「そういうものなら、そういうものなんだろう。仕方がないさ」
人間対化け物。
応えて振り返ってやる。
化け物の右肩から生えた無数の肉の筋がうねうねと、血を滴らせて蠢いた。
それは多分、この世界で最も分かりやすい理なのだった。
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