第2話

 かけられた声のおかげで、俺は暗闇ではなく空に向かって目を開けられた。強行空の旅に加えて思い切り頭を打ったのか、視界も思考もうすぼんやりとして定まらない。

「……きょう、だい?」

「エストっち、来るよ」

「分かってるよ、リエッタ。……兄弟、腕の傷は後で治す。その分なら放っておいても死にはしない。ともかく我慢してくれ。出血多量で死ぬ前に、戦いを終わらせるからな」

 短く話したのは女性で、気を使ってくれたのは男性のようだった。ぽんこつになっていた意識がようやく戻って来ると、見えたのは、巨体のミノタウロス(仮)相手に動き回って戦う、一組の若い、普通の人間サイズの男女だった。それにしても、腕の傷は大したことがない? 切断寸前の深手だったのに?

 と思って両腕を確認すると、ぱっくりと開いて中まで見えていた傷口が半分ほど塞がっていた。それでも大きな傷であるに変わりはなく、流血の留まる様子はなかったが、なるほど、死ぬほどの血が出ていくことはなさそうだった。

 我ながら凄まじい治癒力である。まあ、腕が一本再生しているのだから、今さら驚くことでもないのだろうか。

「らちがあかない! エストっち、足止め!」

「合点!」

 威勢の良いやり取りが聞こえて、二人に視線を戻す。

 両者とも武器は剣だった。片刃の刀ではなく、両刃の片手剣である。片や人間よりも大きな刃を冠する長柄の斧を振り回しているのに比べて、男女の装備は武器に限らず驚くほど軽装だった。様式は似通っているが、趣味の異なる柄の服を着て、同じ柄のマントを羽織っているのみ。鎧や鉄板の類は一部分ピンポイントを守るようなものさえ身につけていなかった。

 当たれば一撃だ。俺の肩が落とされたように容易く。

 エストっちと呼ばれた男の方が、ミノタウロス(仮)の脇腹に一太刀浴びせて、一足飛びに距離を取る。巨体に加えて斧のリーチがあるミノタウロス(仮)からしても、その場から一歩、二歩は踏み込まなければ届かない位置だ。

「頼んだよ、リエッタ!」

「承知!」

 下がったエストっちとミノタウロスとの間に、リエッタと呼ばれた女が穴を埋めるように入ってくる。足止めをお願いした方が足止めを任せられるような形だが、その不整合はすぐに解消された。

 ミノタウロス(仮)は当然、リエッタに突っ込んで来る。もしかしたら、エストっち目掛けた突撃かも知れなかった。どちらにせよ間に入ったリエッタが応戦するには変わりなく、リエッタはミノタウロスの突撃を真正面から受けに行った。両者の身長差は二倍近い。斧の一振り、足の踏みつけ、どれを喰らっても致命傷になるだろう。しかしリエッタの動きには迷いや恐怖がなく、その細腕で豪腕のミノタウロスと対等に打ち合っていた。

 慣れているのだ、あれは。

 この手の化け物との戦いに慣れている。

 つまりこの二人の連携にも意味があった。リエッタが前に出て応戦し、下がったエストっちは突っ立って、何事かを呟きながら青い光を集めている。時間にして五秒ほど。リエッタとミノタウロス(仮)の間で十回ほどのやり取りがあって、エストっちが動いた。

「エル・バーンズの御手をここに! 突っ走れ、青白の路! リエッタ、避けろ! スーエン――」

 剣先を、ミノタウロスに向ける。もちろん、振ろうが突こうが届く距離ではない。その切っ先に青い光が集まって、刃の先端付近が周囲の大気ごと、パン、と凍った。

「――レッタ!!!」

 ば、っしゅううううん!!

 光が弾け、一瞬、世界が青く染まる。剣の切っ先から氷塊が撃ち出された。一メートル四方弱はある、少々歪な立方体。真下の地面を軌跡を描くように凍らせて進む青白の氷箱。巻き込まれぬよう、リエッタが跳躍した。その下を潜り、氷塊は高速で回転しながらミノタウロスの右脚に着弾する。

 ぐしゃ、と鈍い音がして、大木のようなそれが砕けた。

「ぎいいああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 悲鳴。天を仰ぎ、片膝を折り、ミノタウロス(仮)が咆哮する。だが、エストっちの放った氷の効果はそれだけではなかった。というより、右脚を壊した物理的な威力はおまけだったのかも知れない。

 ぱりぱりぱり。着弾した氷箱を中心に、ミノタウロス(仮)の砕けた右足が凍り始める。凍結は広がって、すぐにミノタウロス(仮)の周囲の地面と下半身とを覆った。膝をついた状態で、ミノタウロス(仮)は移動の自由を完全に失ったのである。エストっちとリエッタの言葉通り、それは“足止め”だった。

 放った氷の効果を確かめて、エストっちが剣を構え直す。リエッタの姿は見当たらないが、直前の跳躍の軌道を見る限り、おそらく彼女はミノタウロスの背後へと陣取っているはずだった。

 なるほど、ここまでが連携だったのだ。

 足止めと同時に挟み撃ち。見事としか言いようのない手際の良さ。

「終わりだ、ミノタウロス! 終わらせるよ、リエッタ!」

 向こうから、がってーん! と可愛らしい相槌が返って来た。たん、とエストっちが地面を蹴る。見えはしないが、ミノタウロスの背後では、きっと全く同じタイミングでリエッタも地面を蹴っていることだろう。少し眺めただけでも、二人の息が合っているのは手に取るように分かる。お互いが見えていなくたって、動きを合わせるぐらいお手の物だろう。この挟撃で戦いは終わりだ。エストっちがそう言っていたし、そうするつもりで飛び込んだように見えた。

 しかしそれは。

【オオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!】

 二人の都合でしかなかった。

 凍結の及んでいない上半身を仰け反らせ、猛る黒牛。雄叫びは幾重の黒い波紋となって空間へ広がり、打ち、響いた。怒号は確かに、目に見える波動だった。漆黒の突風に煽られ、飛び掛かったエストっちが耐え切れず吹き飛ばされる。悲鳴があったから、向こうではリエッタも同じ目に遭ったのだろう。剣を握る右手だけは残して、三肢で着地しながらエストっちがミノタウロスを睨んだ。

 トドメの一撃をかわされた、……というだけの雰囲気ではない。エストっちが今までで一番の緊張感をもって、下半身が凍結した半牛を睨んだのが、後ろから見ている俺にも分かったからだ。

「ぐうぎゅるぐるぐる……」

 ばりばりばり。

 ミノタウロスが両足で立ち上がる。自らの下半身を覆う厚い氷を、容易く砕きながら。

 ――間違いではない。

 そう、“両足で”、だ。

 再生した右足の無事を確かめるように、ミノタウロスが強く地を鳴らし、繰り返し吼える。全身からはどす黒く輝く煙? 炎? いわゆるオーラ? ゆらゆらと定まらない『黒』が立ち昇っていた。

 空間に穴でも空いたように真っ黒で、否応なく不安を掻き立てられる眩しいとは正反対のはずの黒。しかし、それを直視すると太陽でも見てしまったみたいに黒く眩むのだ。まさしく、頭上の太陽の黒いバージョン。ミノタウロス自体がそうなったわけではなく、オーラもその全身を覆うというわけではないので姿は視認できるが、しかし、逆光と相対するかのように見えにくいには違いなかった。

 エストっちがゆっくりと立ち上がって、手元でくるりと剣を回転させる。再戦の合図、意気十分のポーズ。けれどミノタウロスは、右足の再生を終えてもすぐには攻撃に移らなかった。氷塊によるダメージはあったと見るべきか、あるいは。

 単に余裕なのか。

「スーエン・ノッシュ」

 白い息を吐くエストっちの声が小さく響いた。ミノタウロスの足元、まだ残っていた氷結の跡から、氷のトゲが生えた。一本一本が人の身体よりも太いだろうという青く透明な針山が、一瞬でミノタウロスの下半身を滅多刺しにして、なお成長する。嫌って、ミノタウロスが上方へと跳んで逃げた。抑えつけていられなかった数十のトゲが粉々に砕ける。巨体に似合わぬ軽やかさであっさり十メートルは昇ったか、針の届かぬ遥かな上空には、しかし先客が待ち構えていた。

「残念でし、た!」

 リエッタだ。マントを翻らせて、一体どの時点で先回りしていたのか、ミノタウロスの頭上を寸分違わず抑えていた。空に仰向けになっていた体躯をひねり、剣の刃をミノタウロスの頭頂に打ち付ける。

 ……牛の成体は、大きければ一トンにもなるそうだ。そう考えると、ミノタウロスは普通の牛よりも大分大きく、筋肉の量もおそらく比ではないぐらいには多い。加えて獲物の巨斧だって、それだけで何トンになるのか分かったものではなかった。

 そういうむちゃくちゃな重さの物体が十メートルもの距離を一瞬で跳び上がったエネルギーは相当なものだったろうに、けれどリエッタは、普通の人間サイズと、普通の人間が持つサイズの剣で。

「ぐぎあ!」

 ばちこん、と地上へ打ち返したのだった。

 昇って来た時よりも数段早く、頭を逆さにされた巨体が急速に落下する。

 剣を打ち付けた衝撃が光の粒となって星のように昼空に散乱した。ミノタウロスが落下するのが見えた時にはもう、ミノタウロスは地上へと着弾していた。

 少し遅れて、ミノタウロスの手を離れた巨斧が大地に突き立つ。

 その地上では、成長を続けていた氷のトゲの絨毯が満を持して待ち構えていた。筋肉の塊だろうミノタウロスの肉体を易々と貫く、鋼鉄めいた冷たい処刑場だ。

 無抵抗に突っ込んだミノタウロスの頭部が、同じ程度に太い氷に刺さって抉られるように消え失せた。

「ノッシュ」

 呪文の繰り返しリピート。エストっちの一声で更に急成長する氷針がミノタウロスにざくざくと突き刺さり、倒れることさえ許さず磔にする。

 頭の潰れた半牛半人が逆さまになって串刺しになったオブジェ。前衛に過ぎるそれに向かって。

「とーどめーの……」

 リエッタが降ってきた。

 剣には光。

 昼空より明るい黄金の軌跡を背景に、彗星めいてきらめく黄金の尻尾を中空に、真っ直ぐ描いて急降下してくる。

「ラ・デ・コーレ!!!!!」

 ミノタウロスに激突するよりも早く、リエッタが下方に向けて剣を振った。急降下の重みがそのまま光線になったような、ミノタウロスの身体を覆うほどに太い光が地上に落ちた。それはもう光“線”というより、地上に突き立たられる“柱”だった。景色を塗り潰す白光はどろどろのペンキのように色濃く、目を庇ってなお、まぶたの裏を白く染め上げる。

 一秒もせず光が晴れた。

 途方もない緑の大地、見上げるばかりの青い空。その真っただ中に、逆さまに直立する黒焦げの巨牛と、煙を吐いて草原に佇む巨斧とが残った。ちかちかと眩んでいようと、その大きな跡を見紛うはずもない。

 氷の針の山はリエッタの光柱に耐えられなかったのか、跡形も残っていなかった。それに支えられていた巨牛の身体が、どーん、と仰向けに、向こうの方へと倒れ込んだ。

 衝撃が突風となって吹き付ける。

 光柱の残滓だろうか、空中に漂って煌めいていた光の粒が、それらに煽られて霧散した。

 もはやぴくりとも動かない、首のない黒焦げの体躯。……いや、良く見れば焦げているのではないと分かる。モノが焼けたような臭いはないし、炭化した様子でもない。そもそもあの光の柱のような攻撃に、これだけの質量の肉を丸ごと焦がしてしまえるような熱気は感じられなかった。

 熱気ではなく、ただ純粋な殺傷力。

 ミノタウロスは焼き殺されたのではない。もっと単純に、ただひたすらに殺されたのだ。

 そう思って見ると、まるで、生気という名の色を奪われ、黒く変色してしまった亡骸のようにも見えるのだった。

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