リノンくんが世界を滅ぼすまで

のまて

第一部 アルマリク編

第1話

「あれ」

 目が覚める。眠りについた記憶がないから、それを目覚めと言っていいのかは疑問だった。何かで視界を覆われていて、今それが取り払われたような。寝起きにある意識の軽い混濁もない。ぱっちりと、目を覚ました。

「原っぱ」

 混濁はないが、混乱はしている。目の前に見えているものをとりあえず音にはしてみたが、なるほど、意味は全く頭の中に入って来なかった。

 原っぱが何なのかぐらいは知っている。けれど、どうしてそんなものが視界いっぱいに広がっているのかは分からなかった。見当もつかないのだ。雲のかすむ青空と相まって、まるで絵画の中にでもいるみたいだ。そう、例えば……――。

 ――具体的な作品の名前は出て来なかったが。

 気がつけば随分と長い間、ただ原っぱを眺めて呆としていたようだった。緑の香りを運ぶ優しい風に草花が波打っている。その水平線の向こうに、ぬっと黒い塊が顔を出した。

 黒い塊は何かの影のようだった。のっしのっしと、遠目にも重量を感じさせる足取りで近づいて来る。

 シルエットが次第にはっきりしてきた。

 ともかく、二足歩行。そして異様に大きい。頭には二本のツノ。右手には一本足の三日月……巨大な斧だろう。肉体は筋骨隆々と言うか、もはや人間のそれではなかった。

 というか、人ではなかった。

 一直線に向かって来る人ではない何かが、ついに目の前に立ちはだかる。まだ意識がもうろうとしているのか、人ではない何かが現れてから目の前に歩いてくるまでの景色はとびとびであった。短い眠りと目覚めを繰り返し、途切れた景色を繋げたよう。さながら、午後のけだるい読書の時間である。

 それにしても、はだかる、というのも変な話だった。こっちは一歩だって動いていないのに。

 目を覚ました瞬間から変わらず、だから、それを目覚めと言っていいのかは今になっても疑問だったし、そもそも本当に目を覚ましているのか、覚ませているのか? にすら疑問を覚え始めていたが、石だろう硬くて冷たい何かに背を預け、雑草の絨毯に両足を投げ出して腰を下ろしていた俺は、その立ちはだかる何かを見上げた。

「ふしゅー」

 仁王立ちする二足歩行の化け物。鼻息は荒く、よほど高熱なのか白く煙になって消えていく。

 やかんか、おまえは。

 その、三メートルをゆうに超すだろう風体は、しかし湯を沸かす類の道具ではなく、けれど見覚えがあった。

 正確には、そういう生物を言い表す名前に聞き覚えがあったのだ。

「あれだ、ミノタウロス」

 実際に見たことはない。ただ、黒毛の牛を直立させたような威容は、なるほど、伝え聞く通りの異様だった。裸一貫、牛のくせに四本指の前足(?)で一振りの斧を握りしめている。無骨な獲物だが、冗談みたいに大きかった。刃の部分だけでもミノタウロス――多分そうだから、『ミノタウロス(仮)』としておこうか――の身長の半分以上はある。つまるところ、刃渡り二メートルを越す凶悪な獲物。刃物と表現するにはあまりに大きな鉄塊だった。

「ぎゅおおおおおお!!」

 ミノタウロス(仮)の咆哮は牛のそれではない。少なくとも耳慣れたものではないが、化け物らしい異様には似合って聞こえた。吠えながら、ミノタウロス(仮)が斧を振り上げ、何のためらいもなく振り下ろした。

 何に向かって、とは愚問である。明らかに理性的ではない化け物を前にして、ぴくりとも動かず座りこけている馬鹿な獲物に向かって、の他には有り得なかった。

 ああ、死ぬのか。黒々とした瞳に映って自分が見える。呆けて、見返している自分の顔が。

 ピンク色の髪の、ぽかんと口を開けた様子がいかにもあほらしい、ふざけた顔をした男だ。

 ばこーん、と。

 そんなふざけた顔から斧はわずかに逸れ、……逸れるのを他人事のように観察して、背後の岩もろとも馬鹿な獲物の右肩が切断された。

 切り売りされた生肉に包丁を入れるよりも容易い。刃が食い込んだとか、肉や骨が切断されたとか、そういう感触さえ一切なく、呆気なく、素っ気なく、四肢の一つが切り離された。

「いぃっ――――――!!!」

 ――――たくない?

 痛くない。

 痛くなかった。

 条件反射で泣き叫びそうになった、その熱が急速に冷めていく。

 痛くない。

 痛くないじゃないか。

 右肩から先がきれいさっぱりなくなって、嘘みたいな量の血液がどくどくと流れ出ている。こんなに痛々しい光景を生で見るのは……はっきりとした記憶がないのだから当然なのだろうが、初めてだった。あまつさえ、それが自分に起こっているのだとはっきり認識しているのに、肝心の切り口がみじんも痛さを感じていない。

 ただ、今までの人生を共に過ごし、片時と離れることのなかった……はずの相棒が消えてしまった事実だけが、何やらありありと理解された。

 原っぱの景色を原っぱの景色だと読み上げるがごとく。

 偽りの挟まる余地がないほどに現実的で、故に薄っぺらい現実。

 痛みを伴わない喪失がこんなにも嘘っぽいとは、虚ろだとは、考えもしていなかった。

 ミノタウロスの黒目が、肩口から血を吐き出し続ける馬鹿を見据える。腕を切り落とされて悲鳴の一つもあげない人間を不審に思ったのかも知れなかった。牛の化け物の動きのない瞳から何かを読み取ることは不可能だが、即座に追撃を選ばない辺り、今しがたばっさりと叩き切ってやったというのに、頑としてぴくりとも動かない人間相手への困惑が見て取れるようだった。

 逡巡して、ミノタウロスはまた、斧を頭上に掲げた。

 今度こそ狙いを外すような真似はしないだろう。さっきも別に、狙いを逸らすと分かっていて黙っていたわけではないが、ミノタウロスの感情のない瞳には、けれど次こそは必ず仕留める、という殺意が宿っているようにも見えた。いや、遊びは終わりだ、かも知れない。どちらでも良いことだが。

 殺気を込めた斧が襲い来る。合わせて、俺は右へ走った。都合、目を覚ましてから初めて立ち上がったことになるが、幸い歩いたり走ったりといった行動を忘れていたわけではないらしく、軽快に、思った通りに身体は動作してくれた。

 ずうがああああんと、既に粉々になっていた岩の破片を更に砕いて深々と地面にめり込む巨斧を、飛び出した自分の背中越しに見届ける。人の肉体を壊すには過ぎた威力、何の抵抗もなく潰し切れる無慈悲な――

「――うお!?」

 観察する間もなく斧が襲いかかってきた。地面から引き抜き、脇へと逃げたえものに向かって横一線に薙いだのだ。その間、一秒もない。鈍重そうな巨体からは想像もつかない、電光石火の横薙ぎだった。

「……ああ、でも、今度も生きてるな」

 自分の左側、頭の高さに来た斧を受け止める形で、両手を交差させてガードを作れていた。先ほど、いとも容易く人の右肩を削ぎ落とした凶器はしかそ、二本の細腕に食い込みはしたものの、切断には至らずに止まっている。

 ……そう、間違いではない。

 “二本”である。

 確かに俺は、無事だった左腕と、さっき失ったはずの右腕で、ミノタウロスの攻撃を防いでいたのだ。

「ぐうぐるぐる、……ぎやああああああああ!!!!」

 防がれてもお構い無しに、ミノタウロスが斧を振り抜いた。膂力の勝負となれば、この化け物と単なる人間の俺の間にはどうしたって埋められない差がある。地から足が浮き、ボールをバッドで打ったみたいにすかーんと、俺の身体が吹き飛ばされた。

 急激に地上が、ミノタウロスが遠くなっていく。斜め四十五度、風を切る感覚から察するに、自分は相当の速度で飛翔しているようだった。意識を持っていかれそうになる。かろうじて切断されなかった両腕の深い切り傷からは、どばどばと血液が流れ出ては流れ星の尻尾みたいに空へと散っていく。次第に速度が落ちて、今度は落下し始めた。何とか、という程度に維持していた意識では受け身など取れようはずもない。ずがん、と地面に激突すると同時に、意識がすとんと抜け落ちる。

「よお、無事か、兄弟?」

 いや、抜け落ちるところだった。

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