6月17日 ゴーストップ事件
やあやあ諸君。
私の名はいずく。いずくかけると申す者だ。
諸君らは今日と言う日を如何にお過ごしだろうか。日々は刻一刻と進む二十四時間の連鎖であるが、それは円環ではなく螺旋であり、繰り返しではなく積み重ねである。だがしかし、中にはどうもそれを理解していない者が多い。
私の話を聞き入れ、今日と呼ばれる日が先人達が積み重ねた如何なる日なのかを知らば、諸君らの過ごす毎日にも色が付くのやも知れぬ。
私の実家は埼玉県のとある田舎町である。都会に住まう人には想像が難しいかもしれないが、一面に田んぼが広がり、かろうじて舗装されただけの、車線すら引かれていないような道が多々続く。だが、そんなところにもなぜか信号機が設置されている。当然その信号を守るも、辺りを見渡せど車も歩行者も見当たらない。思わず赤信号を突破したくもなるが、それは辞めた方がいい。そんな些細な出来事から、思わぬ大事に発展する事もありうるからだ。本日、2017年6月17日は「ゴーストップ事件」である。
ゴーストップ事件とは、1933年に起きた陸軍と警察の対立にまで発展した事件の総称である。事の発端はたった一人の信号無視であった。
1933年の6月17日午前11時。場所は大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点。休暇を取っていた陸軍の22歳、中村政一一等兵は、赤信号を無視して交差点を突破した。
これを見ていた交通整理をしていた警察官、戸田忠夫巡査は中村をメガホンで注意し、そして天六派出所まで連行する。
だが中村は、「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と主張し、これが元で派出所内で殴り合いの喧嘩へと発展し、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は下唇に全治1週間の怪我を負った。
この騒ぎを見かねた野次馬が憲兵分隊へ通報し、駆けつけた憲兵隊伍長が中村を連れ出してその場は収まる。
今現代であれば、後日憲兵隊から謝罪会見が開かれるであろうが当時は違った。
これより2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議したのである。
戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言するが、中村一等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない」とその後の事情聴取で両者は全く違う主張を繰り返し、意見は食い違うばかりであった。
さらに不運な事に、中村の上司である松田四郎大佐と戸田の上司である高柳博人署長が不在であり、この騒動はさらに上層部へと報告され、どんどんと大事になっていった。
警察側は騒ぎを早めに鎮火したいと考えていたが、21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わり、その結果、最終的にかの昭和天皇までもが知るようになった。
事件から5日経った22日。第4師団参謀長の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。それに対し粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言を返した。
6月24日に予定されていた第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見もこれが原因で決裂する。
一方東京では、問題が軍部と内務省との対立に発展していく。
荒木貞夫陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、警察を所管する山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長は軍部の圧力に抗して一歩も譲らず、謝罪など論外、その兵士こそ逮捕起訴すべきとの意見で一致する。
事件発生から約一か月後の7月18日、中村一等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)で大阪地方裁判所検事局に告訴した。
戸田巡査には私服の憲兵が、中村一等兵には私服の刑事が尾行するようになる。憲兵隊が戸田巡査の本名は中西であることを暴くと、対抗する様に警察側は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯していることを発表するなど、お互い一歩も引かぬ交戦状態が続き、それを「軍部と警察の正面衝突」とマスメディアは大々的に報じる。
大衆にもこの事件が知れわたるようになると、大阪では漫才の題材になるほどの注目性を集めた。市民からは当初、警察を批判する意見が多かったが、事情が分かるにつれて軍の横暴を非難する声が多くなった。
事件の処理に追われていた高柳署長は過労で倒れ入院し、その10日後に腎臓結石で急死した。事件目撃者の一人であった高田善兵衛は憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場内で自殺、轢死体となって発見された。
大阪地方裁判所検事局の和田良平検事正は「兵士が私用で出た場合には交通法規を守るべきである」と、警察とほぼ同じ見解を示しながらも、起訴すればどちらが負けても国家の威信が傷つくとして、仲裁に尽くした。
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、竹介兵庫県知事が調停に乗り出した。
天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立する。井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、そしてついに11月20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手してこの事件は幕を引いたのである。
和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説となっている。
すぐ謝れば済むものを、プライドだとか面子に捕らわれ、段々と謝れなくなると言う典型的な例である。ここまで事件が大事になった背景には、当時信号機がそこまで普及していなかっただとか、そもそも軍部と警察側の仲が良くなかったとかいろいろと言われているが、それ以前に互いの上司が互いの部下をなによりも信用していたと言うのがあるだろう。当事者二人が互いに違う証言をしたものだから、上は青も赤も出すことが出来ず、黄色のまま話が進展してしまったのではないだろうか。
青から黄色へと信号が変わるタイミングならまだしも、黄色から赤へと変わる際に交差点に進入する車をよく見かける。確かに渡れれば多少の時間の短縮になるだろうが、ともあれ信号無視の罰金は馬鹿に出来ない。人生は経験だが、無駄な経験は遠慮したいものだ。おとなしく赤信号は待っていた方が得策である。
今日はゴーストップ事件、特別な一日である。
我々は本日を祝福し過ごさねばならないだろう。
祝 20万字達成!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます