12 人形、日常、涙

 ひな壇の頂上に座る親王人形は険しい顔をして壁の向かい側、すなわち丑寅の鬼門を見た。従者たちが奏でる管弦の音にも緊張が混じる。時刻は丑二つをしばらく回ったところだ。

 これは日常の裏側にある、神の戦いである。雛人形には女児を守る使命のため、7歳のひな祭りの朝まで命を得て女児に忍び寄る禍を退治する。そして今日は七歳の三月三日の未明、これが最後の戦いであった。

 親王が雛壇を見やる、五人囃子は魔除けの曲を奏で、官女たちは弓矢の血を拭って最後の戦いに備える。士気は高いが、しかし隠しきれない疲弊が見て取れる。今は災いたちも息を潜め、半ば休戦状態のようになっていた。丑三つどきになるのを待っているのだろう。今日は人形たちが最も疲弊する日であり、同時に禍たちにとっても女児を神のもとに連れ戻す最後の機会である。もっとも力の強まる時間を待つのは当然と言えた。

「もうこれが最後なのですね」

 姫人形が静かに語った。親王はこの日の夜になってから徐々に力が弱まっているのを感じていた、姫もこれを感じているのだろうか。

「最後まで役目に報いよう、そしてこの戦いを切り抜けるのだ」

 その声を従者たちも聞いていたのか、頼もしい鬨の声が上がった。


 丑三つ時を回り、卯の刻(5時)である。すでに雛壇は災いと人形の血にまみれ、楽器の音色は笛だけが響く。親王は鳥の姿をした禍の首を締め上げ、背に乗って空を飛ぶ禍に切り込んでいた。翼を切り、動きが鈍ったところを官女が弓で射る。乗っていた禍の首をねじり、左大臣を喰らった獅子の上に落とす。女官の悲鳴に顔を上げると、鬼が最後の女官を握りつぶし、頂上に座す姫に手をかけようとしていた。姫は魔除けの要である。使命を果たすためにこれまでは必ず守り通さなければならなかった、これまでは。

 姫が一瞬だけ親王を見た。弓を継が得た親王は何か叫ぼうとしたが、その前に姫は跳んだ。鬼の目に切り掛かり、返す刀で自分の喉を刺した。

 姫から溢れた光は鬼とひしゃげた従者の体を吹き飛ばし、それを見ていた全ての者たちの目を奪った。

 親王は暗闇の中で禍の体が溶けていくのと、自分の力が急激に衰えるのとを感じた。朝が来たのだ。


 高橋綾は朝早くに目を覚ました。娘のひな祭りを祝うための準備をしなければならない。そして雛壇を見てもっと早くに起きておけばよかったと後悔した。前日から飾っていた雛人形の親王の傷を見つけたのだ。目の下に一筋目立つヒビが走っていて、それは涙のようにも見えた。

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