2 心臓、ゴキブリ、感謝

 カンダタは血の池地獄から引き上げられ、次の地獄に向かう最中だった。地獄で何より辛いのはこの移動である。飲まず食わずで何年も歩き続け、その間足を止めると鬼に叩き潰される。罪人は腹を満たすために何にもならない砂や石を噛み締めて空腹を紛らわす。カンダタもまた飢えに苦しみ砂利を噛み締めていた。

 そんな地獄の有様を、お釈迦様は天から見下ろしていた。するとそこに一匹の虫が姿を現した。

 それはゴキブリだった。かつて鳥に食われそうになっていたところを偶然通りすがったカンダタに助けてもらったとゴキブリは主張した。それは単に猟のタイミングが合っただけなのだが、本人が幸せならそれで良いと、お釈迦様は黙って聞いていた。そして彼の手助けができるよう、ゴキブリを地獄へ送ってやったのだった。

 さてカンダタは飢えの苦しみを砂利で紛らわしていたが、歯も砂利も砕けて口からこぼれてしまった。地獄では歯はしばらくすれば生えてくるが、食い物はそうにもいかぬ。棒になった足を乱して足元の砂利を救おうと手を伸ばした時、遠くが周りの風景と違っているのが目についた。地獄の中間は灰色の岩で覆われているのだが、遠くはテラテラとした茶色に見える。今回は鬼の手違いで近い地獄が選ばれたのかと思ったのもつかの間、その茶色はどんどん近づき、音と共に正体を見せた。

 それは大量のゴキブリだった。大小様々のゴキデリが前のものを押し分け、乗り越え、ものすごい勢いで近づいてくる。これには鬼も驚いたようで、棍棒で虫どもを振り払おうとするが、すぐに茶色の波に覆われてしまった。罪人たちも逃げ惑い、あたりはゴキブリ地獄と化したかのようだった。

 このゴキブリたちは先ほどお釈迦様の前に出てきたゴキブリと、その親戚のものである。カンダタの苦しみを救うため、地獄に仲間を連れてやってきたのだ。彼らは何をするつもりなのか。鬼を喰らい尽くしてカンダタを逃してしまおうとでもかるのか? 否。ゴキブリたちはカンダタに飛びつくと、口の中に一斉に飛び込んだ。自殺である。ゴキブリたちは飢餓に苦しむカンダタを助けるために、自らを犠牲にすることを選んだのだ。なんと美しい自己犠牲であろうか。

 たまらないのはカンダタである。飢えで朦朧とした頭では、この茶色がなんなのかもわかりはしない。ただ尋常でないカサカサ言う音と、全身から口までを覆う小さな毛の駆けずり回る感触だけが感じられた。そして思わず彼は叫んだ。

「嫌だ! やめてくれ!」

 びっくりしたのはゴキブリたちである。手助けをしていると言うのに、なぜ拒むのか。そこで彼らはある噂に思い当たった。カンダタはかつて地獄を脱するチャンスを得たが、それをわざわざ蹴って地獄に戻ったのだと言う。カンダタはもしや地獄の苦しみを自ら受け入れているのか? なんと美しい殉教精神であろうか。

 そう思い、ゴキブリたちはカンダタには手出し無用と、天国に引き返すことにした。来た時と同様に、茶色の津波になって地獄を駆けて行った。

 後には狂乱状態になった罪人たちと、すでに仕事に取り掛かり始めた鬼と、おびただしいゴキブリの死骸が残された。何人かは逃げようとして、鬼にバラバラにされている。カンダタはようやく正気に戻り、残った罪人たちとゴキブリの奪い合いをしていて、さっきの出来事が一体なんだったのか考えることもなかったと言う。

 それを見ていたお釈迦様は、深いため息をついてその場から去って行った。

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