3
「真理子と連絡がとれない」
翌日出社して、開口一番にアダムが言ったのがそれだった。
「連絡がとれないって……」
「出社もしてないらしい。休むって連絡もなかったって」
「もしかして、昨日のことが原因?」
可能性はある、と言って彼が眉を顰めた。
昨日の夜、私と別れてから何度か時間をおいて電話したのだが、一向に出る気配がないまま、電源が入っていない旨のアナウンスに切り替わったのが、日付をまたぐ三十分前のこと。遅い時間だったので諦めて今日の朝再度連絡したが、それにも返事がないらしい。
「やっぱり昨日のうちに、どういうつもりか聞いておくべきだった」
「……ごめんなさい」
それを押しとどめたのは自分だった。
「いや、クロエが謝ることじゃない。それとはまた別で、あいつに関してちょっと気になることが……」
「?」
「もしかしたらなんかまたややこしいことになってるかも。とりあえず、今からあいつの家行ってみようかと思うんだけど、いい?」
「ええ」
返事を聞いた瞬間にアダムが立ち上がった。よっぽど気が急いていたのだろう。社用車の鍵を引き出しから出して、出かける準備をする。
「あ、クロエ、車じゃなくていい。タクシー使うから」
「今から呼ぶの?」
「もう呼んである!」
ああもう根回し済みなのね、と苦笑しながらひとりごちて、扉の向こうに消えた彼の後に続いた。
マップ検索した携帯電話の画面をタクシーの運転手に見せながら行先を告げると、車はおもむろに走り出した。車の後部座席に並んで座っているなんてことは、彼と出会ってから今まで初めてのことかもしれない。
「同期、って何人くらいいるの?」
「ん?メディエータの?あんまり数いないからなあ……両手で数えられるくらい。真理子と、藤と、村山と斎藤と……あと誰だっけな……結構散らばってて、東京にいるのはほんと二、三人」
「そうなんだ」
「でも、そんな仲良くはないんだ。同期でも能力差はあるし、それぞれ性格も違うから。会えば話すことはあるけど、連絡とってるのって真理子と……いや、真理子だけかも」
だからちょっと、心配で……と小さく続けた。腕を組んで、座席の背もたれに背中をあずけながら、前を見たままで話す。どことなく上の空な印象を受ける。
確か、自分と一つか二つしか年が変わらないはずの二十代のアダムが今のポジションにあることは、本人の努力もあるだろうが、才能も大きい。一人として同じ能力を持つわけではない<境界>に名を連ねる能力者の中で、彼が複雑な思惑の中にいることは容易に想像できた。昨日、本部の人間がデシメータへの転向を促してきたことも、その一つだろう。そんな中で、いかにも天真爛漫な真理子の存在が、アダムにとって、殺伐とした組織の中の支えであってもおかしくないことだった。
「昨日」
「え?」
「昨日、ごめん。なんかろくな説明もしなくて、迂闊なこと言ったし。クロエ、怖かったんじゃないかって。別れてからいろいろ考えてた」
「ああ」
別にどうってことない、と返事して手を軽く振ったら、アダムがこちらを見た。アイスブルーの瞳としっかり視線が合う。
「よかった」
彼は意図を汲み取るようにしばらく目を合わせて、それからちょっと油断したように笑った。
車を走らせて三十分もかからずに到着したマンションは、駅からそれほど遠くない好立地のオートロックで、当然チャイムを鳴らしても返事はなかった。生憎というべきか、出入りする人の姿もこの時間帯には見当たらない。
「何階?」
「たしか十一階。これじゃわかんないな」
そう言うと彼はポケットに手を突っ込んで、あ、これは例の奴……と思っていたところ、案の定出してきたのはいつもの手袋だった。
「どうするの?」
「見てきてもらう。その辺カラスとかいない?」
ぐるりと見回すと、電柱の上に一羽止まっているのを見つけた。
「あそこに」
「よし。はじめます」
両手を合わせて、ひとつ呼吸をする。開始の合図とともに、彼しか持っていない何かの器官を広げているらしく、まったく霊感のない自分でも、何か場の圧力が変わったようなちょっとした違和感を覚える。
対話するもののレベルに合わせて『階段を降りる』のだと彼は言っていた。以前感じたぞわぞわするような不安や恐怖は、本当に目に見えないものとの交感の時しか感じたことがない。ここまで早く上がり下がりができるのも、アダムだからなのだと東雲真理子は言っていた。
そのうちに、カラスが大きく翼を広げて、飛び立つ。マンションの上階のベランダの縁に止まって、そのまま姿が見えなくなった。
「……おわり。部屋にはいないみたい。昨日、帰ってきてないかもしれない。荷物とかまとめてある様子もないって」
「あ、そうなんだ……」
「帰ってないってなんだろうな。今聞いた感じやっぱりあいつの気配ないし」
「?」
「さすがに行ってそうなところとか足取りまでは、見た奴に聞かないとどうしようもないよな。気配がないのが一番気になるんだよ……」
「気配?」
「しばらく待っててもいい?あんまり確証ないけど」
もちろん、と快諾したものの、マンションの前で暫く二人して立っていて気付いたことがあった。車で来るべきだった。携帯で見た現在地の気温は一桁で、そういえば雪が降るかもしれないと朝、天気予報で言っていた。ビルの間を吹き抜ける風は強く、体感だともっと寒いかもしれない。
「寒い」
「そうね」
「え?めっちゃ寒い」
「そうね」
吐く息はもうずっと白かった。分厚いフェルト地のコートの上からもしみこんでくるような寒気に耐えかねて、両手をポケットにつっこんでその中のカイロを握りしめる。さっきから同じことしか言っていない。さっきから同じことしか言ってないわよ、とたまらず言うと、彼は問題はそこじゃないとばかりにじっとりと睨み返してきた。青いひとみが若干細められる。
「あのさ、本当申し訳ないけどとりあえず風をしのぎたくない?凍りそう。どっか、よくわかんないけどこのへん、喫茶店とか入ってさ。奢るし。嫌じゃなかったら」
端正な顔に落ちかかる長い金髪が、風を受けて頬を撫でる。いつもどおりにゆるくまとめた髪の、一房分。空中に漂うそれが、私の顔にまで触れる。風に冷やされた髪は冷たかった。いままでそんな風に思ったことは一度もなかったのに、不意に、触りたかった。その長い髪。
「東雲さんの」
声に出してしまう。それは私が、そういう性質だから。突き詰めたいからだ。やらなくていいことを追及して、それで自分が傷つくことになっても、そういう性質だから。
「え?」
昨日の夜から、一番気になっていたこと。自由意志。
「東雲さんの行くようなところ、わからないの?」
「えっと……」
「だって、付き合ってるんでしょ?」
「は?」
あまりにも素っ頓狂な声を挟まれて、不意を突かれる。そうだなとか、なんで知ってるの?とか言われるんじゃないかと、なんとなく身構えていた気持ちがあっさり霧散した。アダムが彼女との交際を肯定した途端に、自分の中のどこかが傷ついてしまうんじゃないかという、不穏な予感さえも。
「え?」
「は?真理子と俺が?付き合ってないけど?」
「ごめんなさい、あの……たまたま通りがかって聞いちゃったの。東雲さんがあなたに好きって」
「ん~~~~?真理子が?え?それほんとに真理子と俺?」
さっきまで寒い寒いと言っていたことも忘れて全力で否定されるので、本当に自分の記憶違いだったのかと若干不安になってきた。
「本部で、昨日私が煙草吸いにいった時。喫煙所のそばでそういう話、してなかった?泣かないでって。その、聞くつもりはなかったんだけど、タイミングが……」
「…………………………………………あっ!?わかった!!」
しばらく思案していたがやっと合点がいったらしい。と同時に、おそろしく落胆した顔でこちらを見た。
「え?マジで?あの会話聞いたらそういう結論になる?……あ~~でもそっかクロエには……え~~そういうの困るな~~もうやっぱ協力すんのやめようかな」
「どういうこと?」
「ちょっと事情がこみいって……ああでも、最初から言っとけばよかったかな。できるだけ簡単に説明するけど、まず、真理子には十年以上付き合ってる彼氏がいます。幼馴染の」
「え?」
「でも五年前に死んでて」
「は?」
は?
「死んでるけどまだこっちにいるの。その……なんだ……なんていうのが適切?幽霊?地縛霊?幽霊って言ったらわかる?で、そいつもメディエータだったんだよ。同期じゃないけど、俺とそいつと真理子で、まあわりと仲良くて、飯とかよく食べてたんだけど……まあ詳細は省くけどとりあえず死んでるわけ。で、俺が介在したら実体化する」
「は?」
今度こそ素の声だった。
「え?なんて?」
「ん~だから……俺が介在したら実体化するの。能力で。真理子はそういう能力ないから、声くらいは聞こえる?気配くらいはわかる?んだけど。それで、俺が協力して真理子とそいつを会わせてやってきたけど、そいつはもうわりと真理子を自由にしてやりたくて、だって五年て相当長くない?あいつまあまあモテるし、それもまあ、真理子の傍にいたらわかっちゃうわけで、その気持ち汲んで俺もやめよっかな~って思ってるんだけどてか大体俺がいないとカップル成立しないとかヤバいし俺の気持ちも考えてほしいしさ……でも真理子の方はまだ全然そいつのこと好きでこの関係続けたいとか言ってて、昨日のその会話はその件。会えもしないのに付き合ってるも何もないんだからもうやめようって言ったら泣かれて、昔っから気に入らないことあると泣くタイプだから本当に俺はなんでヒロが真理子と付き合ってられるのかわかんな……あ、ヒロっていうのがその死んでる彼氏で、」
パズルのピースがはまっていくような感覚とともに、胸に浮かんだのは、完全に理解の範疇を超えた人々による、とんでもない案件だったということだ。
「だから、断じて付き合ってるとかではない。真理子たちにつきあわされてるだけ」
「…………」
「クロエ?」
「なんでそういう紛らわしいことするの!?」
顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。信じられない。幽霊の恋人(霊能者)と会うために霊能者が霊能者に霊能してくれってそんなの人間社会で生きていくにあたってこんなことが許されてたまるか!?
「幽霊の恋人(霊能者)と会うために霊能者が霊能者に霊能してくれってそんなの人間社会で生きていくにあたってこんなことが許されてたまるか!?」
「いやあの……すみません……」
軽く引いている。
「じゃあ東雲さんがあんなこと言ってきたのも要はアダムがいないと彼氏に会えないからってこと!?」
「あんな?」
「ひ……人を馬鹿にしている……!!」
「クロエさん?」
「うっ……忘れて。忘れてください」
一通り取り乱したら、ますます恥ずかしくなってきた。穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。自由意志も何も、どいつもこいつも完全に自由意志だった。最初から。
状況が飲み込めていないアダムが、取り繕うように言葉を重ねた。
「で、俺も別に真理子と連絡取れないくらいはどうでもいいんだよ。いや昨日のことは全力で怒りたいけどさ。ただ、ヒロの気配がなくて。昨日本部で会ったっきりなのがどうも気になっ」
「アダム!」
甲高い声に気づいて後ろを振り向くと、行方知れずだったはずの東雲真理子がアダムめがけて走ってくるところだった。
「アダム!助けて!!」
「真理子!?おまえ……」
「事務所、いなかったから、もしかして来てくれたのかもって。お願い、ヒロが連れていかれちゃう!たすけて」
息も絶え絶えになりながら、アダムにしがみつく。その目から大粒の涙が頬を流れ落ちていた。おそらく、入れ違いになっていたのだろう。
「助けるってどういう……」
「抵抗はやめろ」
彼女の後から現れた人影に、三人に緊張が走った。
黒いトレンチコート。黒髪に、銀のフレームの眼鏡。一見普通のサラリーマンのような風貌だが、なんとなく本当にここに存在しているのかわからないような、不安定さがあった。どちらかといえば、同じ業界の人間のような気がした。意図的に、できるだけ存在感を消している。
「誰かと思えば……これだけ強く霊体を顕現させるなんてことが、彼女にできるわけないと思ったら。アダム・ギルモア?あなたが関与していたのか」
「
「ご名答。本部に張り巡らせたセンサーをかいくぐって霊体が出現したので、除霊に回っていたところです」
彼が懐に手をいれる。その動作はよく見慣れたものだった。反射的に自分の腰の銃に手をやった。
「やめろ!」
アダムが咄嗟に叫んだ。真理子を庇うように前に出る。
「除霊します。彼もそれを望んでいるんでしょう?そのメディエータ、始末書程度で済むでしょうし、今ならあなたの関与は見なかったことにしましょう」
「この件は俺が<仲介>している。無理矢理除霊するつもりか?」
「野放しにしていられる話なんですか?メディエータが職権で霊を飼い殺している。<境界>の威信にかかわる」
「は?事情も知らないくせにこの石頭……!」
「話は終わりです。怪我したくなければ、そこを退いてください。丸腰の相手に打つようなことはしたくない。除霊用の空気銃だが、当たるとそれなりに痛いんですよ」
眼鏡のつるをあげながら、彼は懐から銃を取り出した。
「おい、義博」
アダムがささやく。デシメータの構えた銃の照準がアダムに向けられた瞬間、私もまた、発砲する準備はできていた。
「勝手に消えるなよ」
ただ、そのデシメータにとって不運だったことに、アダムはまだ手袋を外していなかったのだ。
息を吐く。
「【開始】」
次の瞬間、アダムと私以外の人間が地面に崩れおちた。風景が黒く塗りつぶされて、身の毛がよだつような恐怖感と不安感が途端に襲ってくる。一瞬ののち、アダムが『階段を降りた』のだと悟った。それも、何段も一足飛びに。まだ彼は呼吸している。骨身に染みるような寒さが、さらに加速する。まるで冷凍室に入れられたように。
なんの霊感もない自分ですら、銃を構えた腕が震える。それなら、多少なりとも能力者であるほかの二人は、意識を失っていてもおかしくない。立っていられすらしないのだ。
「無茶だ!アダム!」
立っているのは、私とアダムだけのはずだったが、そこにもう一人、空気から溶け出してきたように人が現れる。
まだ若い。精悍な体格の青年だった。
「いくら君でも、こんな急に深度を深めては危険すぎる。デシメータの彼も再起不能だ」
「そうするしかなかった。俺が迂闊だった。本部なんかで……」
アダムの声は、震えていた。彼自身も恐ろしく寒いに違いない。
「僕たちのためにしてくれたことだ。いつかこんな日がくると思っていた」
「だけど」
「しばらく、真理子の傍を離れるよ。残念ながら、除霊でもされないと消えることもできないんだ。霊が多い場所に紛れてやりすごすから、彼女にそう伝えておいてくれ」
「義博」
「心配ない。またすぐ会いにくる。約束する」
「ごめん」
「ありがとう。今までずっと、世話になった」
笑みを浮かべた青年の姿が、ゆるやかにかき消えていく。窓ガラスの結露を拭き取るみたいに。霧のように。
短くてあっけない邂逅の最後に、声が残った。
「なあアダム、真理子のこと……悪いけど、もう少しだけ見てやって」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます