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その後、一体どう歩いてアダムのいるところまで帰ってきたんだったか、ちっとも思い出せなかった。お手洗いを出た瞬間、東雲真理子が見せたあの有無を言わさない不穏な雰囲気はさっぱり消え去って、はやく戻らないとアダム心配しますよ、と屈託なく笑っていた気がする。
一体なんだったのだろう?
混乱したままで視界の端にうつるキャメル色のスカートをひたすら追いかけていたら、アダムに出くわした。広々したフロアのちょっとした休憩スペースの椅子に腰かけて、携帯の画面を見ていたが、近づいてきた人影に気づいて顔をあげた。
「お疲れ~」
「おう。遅かったな」
「もう上のフロアまで見てきちゃった。ね、黒江さん」
東雲真理子に黒江さん、と名前を呼ばれて、ドキッとした(これは当分、トラウマかもしれない)。
「あ、ええ……」
「クロエ?」
「いや、なんでも」
「……?疲れた?何か顔色悪い気がする」
「いいえ。あの、ごめんなさい。煙草吸ってきても?」
不審げにこちらへ目線を寄越すアダムに耐えきれなかった。ご案内しましょうか?と申し出た東雲真理子をことわり、喫煙所の場所だけ聞いて向かった。ガラスの扉で仕切られた近代的な喫煙室に入って、先人に気を遣いながら一本取り出して、火をつける。一息ついてから、さっきの出来事をゆるやかに反芻してみる。
東雲真理子とアダムは、どういう関係なのだろうか?交際しているとはどちらも明言はしなかったから、そうではないと思う。が、先ほどの彼女の脅しは、明らかに自分を敵視しているから出た発言だった。
『アダムをとらないで』
そもそも、ものじゃないんだし、取るもなにもその辺はアダムの自由意志でしょう、と今思い返すと喉元まで出そうな反論を、煙と一緒にすっと飲み込む。
『諦めてください』
大体諦めるって何だ。
というか、本当にそういう目で見ていなかった。確かにアダムは有能な上、誰もが認めるくらいの美形だけれど、そういう目で見ていない。兄とか弟とか、不思議な距離感の、不思議な人だった。好きか嫌いかで言えばそれはもちろん、好きな人だ。でもそれは恋愛感情とは少し違う気がする。
「はーー……意味わからん」
ギリギリ根元まで燃え尽きた煙草を灰皿の中に落として、ぽつりと呟いた。思案している間に、もう喫煙所には誰もいなかった。自分の気持ちの付け方、それこそ自由意志だ。私の。それをなんであの時言えなかったのだろう、と思いながら喫煙所を出て、どう戻るのだったか一瞬立ち止まった時だ。
「最初から言ってただろ?付き合ったって何にもならないって」
アダムの声だった。
「だって……」
「会えもしないのに」
やや自嘲気味な彼の声。
少し離れたところにある、自販機の並んだちょっとしたスペースからだった。自分が煙草を吸っている間にと、二人で移動したに違いなかった。咄嗟に聞いてはいけないものを聞いてしまったと気づいたが、足が動かない。
「会えてるじゃん。いま。こうして」
「それは俺が……」
「なんでそういうこと言うの?アダム、嫌なの?」
「あのな」
「私、こんなに好きなのに……」
「……真理子、わかってるよ。だから、できる限りのことするって言っただろ?泣くなよ。どうしていいかわかんなくなるから」
「お願い。ずるいのわかってるけど、一緒にいて。ずっと一緒にいて……」
いやこれはちょっと待ってマジでヤバい。
このまま聞き続けてしまうのは避けたかったが、喫煙室の重いガラス扉は開け閉めすれば絶対に音が出る。立ち聞きしていたと知られては当然東雲真理子だけでなく、アダムからも良い顔はされないだろう。どうしたものかと逡巡するうちに、前方から連れだって喫煙所に向かってくる男性たちを発見し、一緒に再び喫煙室に入り込んでとりあえず事なきを得た。
謎が深まっただけで。
結局その日は、もう本部のことは大体案内してもらったのでアダムに再度説明を乞うことはしなかった。来た道をそのまま戻って、ビルを出る。歩く。車に乗る。駐車番号を再度確認して、お金を払う。
「小銭ない?出すよ」
「いいわよ」
こんな時に限って挿入した千円札は戻ってきて、助手席に座っていたはずのアダムが車から出てきて、財布を取り出しながら手元をのぞきこんでくる。もう本部を出たから、髪をまとめるのはやめたらしい。長くゆるくおちかかった髪の毛からシャンプーの香りがする。柑橘系の。それがなんだか、知りたくなかった。千円札はこんなときにまた、嘲笑って舌でも出すみたいに戻ってくる。アダムが苦笑しながら百円玉を入れた。
「クロエ、いいよ。俺が払っても、どっちみち経費でしょ」
「……そうね。ありがとう」
「何かあった?」
単刀直入に切り出されて一瞬手の動きが止まる。
「さっきから目合わせないから」
「……なにも。気のせい……」
「あいつ何か言った?もしかして」
「なにも」
「クロエ」
「何もなかったわ。ちょっと気分が悪いだけ。寝不足がたたったかも。ほら、はやく出ないと追加料金かかるから」
「真理子の術が見える」
「え?」
思いがけない言葉に顔をあげたら、思ったよりアダムの顔が近かった。いつもゆるやかにまとめている髪を全部おろしていて、陽の光できらきら光っているように見える。影になった顔の中で、吸い込まれそうな青いひとみ。
「真理子はメディエータだけど、俺みたいな対怪異タイプじゃない。対処療法みたいに、人の認識の方を変えていく。あいつ、何言った?蜘蛛の巣みたいなのが、クロエにかかってる。こんなの俺が見て気づかないわけないのに」
「認識……?」
対人向けの術が多くて、と言った彼女との会話を思い出す。
『予防線を張るとか。これ以上状況が悪化しないようにあらかじめ対策しておくとか、』
あの会話の中にもしかして、あらかじめ答えが隠されていたのかもしれない。
「アダ……」
アダムが無造作にスーツのポケットに手を突っ込んで引っ張り出してきたのは、何かと思えば、いつもの商売道具の手袋だった。いつもどこからか取り出してくると思っていたが、どこにでも仕込んであるらしい。それを無言で手際よく嵌めて、私の両肩に手を置いた。
「ちょっとそれ取るから」
「はっ!?待っ」
「いたくな~いこわくな~い。すぐ終わりまーす何か異変を感じたら右手を挙げて~はいオッケー?」
「歯医者か!?」
「はじめます」
呼吸。いつも彼が交感する時にする、深い呼吸。それからまるでバースデーケーキの蠟燭を吹き消すように彼がそっと頭上に息を吹きかける。なにか弾けるみたいな、ぱちん、ぱちんと音がした。そういえば、彼女とあの不穏な会話をした時に、変な音がしたような気がする。鍵をかけるような、硬質な……
「はい終わり」
彼は肩から手を離して、次の瞬間手袋をはずしはじめた。
「おわり?」
「すぐ終わったでしょ?まあその程度のものだったってことだけど、物理的にはどうやったって取れない奴だから、普通の人だとかけられるとどうしようもな……は?ちょっと待って腹立ってきたマジなんなわけあいつ」
「ア、アダム」
「人の助手に勝手に術かけといて一言の謝罪も無しかよ。マジ腹立ってきた何考えてんだマジで……無意識か?にしては三か所は止まってたしな……恩を仇で返すとはまさにこのこと」
「ちょっと落ち着いて」
「クロエ、あいつは一応メディエータなんだよ。超能力者なの。超能力を何の罪もない一般人に使っていいわけないの。わかる?」
「はあ、でもその大したことなかっ」
「これが大したことじゃなかった保証ないよ。例えばもし真理子が本気で『死んでしまえ』って言ったら、言われた人は自分から自発的に死のうとするんだから」
「え」
「そういうもんだよ。便利だけど、使い方を誤れば諸刃の剣。だから<境界>に入って、一貫した倫理観を以て力を使うように訓練するわけ。そうじゃなかったらシフとかいらないでしょ」
シフとは、機関に所属する能力者の育成や指導に携わる<境界>内の役職で、先生のことだ。そんな意味もあったのか、と感心する一方で、彼女が自分にそれほどのことをしたのだという実感が急に湧いて、背筋が寒くなった。あの時感じた緊張感は、間違いなく生命の危機を感じたためだった。
その後、間髪入れず再び本部へ問い詰めに行こうとするアダムをなんとかおしとどめるうちに駐車場の再ロックがかかり、その間抜けな音に二人して毒気を抜かれて、ひとまず帰路につくことにした。
謎が深まっただけで。
完全に解除したはずだけど、何か違和感あったら絶対に連絡するように念を押されながらはやめに帰らされ、おとなしく晩ご飯を済ませて風呂に浸かってベッドに入る。電気を消して布団の中に潜り込むと、今日あったことが浮かんでは消えて、なんだかとても長い一日だったような気がしてくる。
それで。
結局、あの二人はどういう関係なのかとか。
盗み聞きしてしまった会話から推測するに、アダムはそれほど彼女へのウエイトが高くないような気がしたものの、二人が何かの関係であることは間違いなかった。東雲真理子が一方的に牽制したのは、ただの同僚の癖にでしゃばるなとそう言いたかったのか?
「…………わからん……」
真理子、と名前で呼んでいた。親しいのは間違いない。けれど、駐車場で見せたアダムの怒りは、同じメディエータとしてやってはならないことをした彼女に対して、職業倫理から出た真剣なものだった。プロとして、やるべきことをやってくれただけであって、それが私だったことは別に問題ではなくて。
彼は万人に優しいし、親しみやすい。
優しい上っ面だけ見て……と東雲真理子は言ったけれど、確かに、アダムがどれくらい今まで苦しんでメディエータを続けてきたのか、私は知らないのだ。でも、その辺を全部知っておかないと傍にいてはいけないのだろうか?
「自由意志は……」
この年になってこんなことで頭を悩ませているだなんて、ずいぶんお気楽になったものだなあと思いながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
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