第183話 アトラ=オルフェウス
「ふぁ~ぁ」
眠気眼のまま、のんびりと腕を伸ばす。
瞼を軽くこすりつつ窓の外へと視線を向けると、まだまだ暗い世界が広がっていた。
日が昇るには、もう少しばかり時間が掛かるのだろう。
すぐ傍の鳥籠に目を向けてみても、クルちゃんもまだ眠っているようだった。
「寒い……」
部屋の中はひんやりとした冷気が漂っている。
冬も真っ盛りなので、当然と言えば当然だ。
今は溶けてしまっているが、先日は雪もちょっとだけ積もっていた。
「よいしょ、っと」
ベッドの上から降りたアトラは寝間着の上からカーディガンを羽織り、部屋から出た。
静まり返る廊下の中を、なるべく足音を立てないように、ひっそりと歩いていく。
曇った窓ガラスに指先を微かに滑らせると、指先に水滴が張り付き、ガラスの靄が晴れていった。外の世界がはっきりと見えるようになり、庭先を見渡す。
窓に残る指の跡。
それを見つめていると、なんとなく面白い気持ちになる。
窓の外の暗い朝方の景色を眺めながら歩いていると、すぐに目的地に着いた。
「……あれ?」
しかしいつもとは違い、その場所には明かりが灯っている。
(誰が……?)
そんな風に考えつつ小首を傾げるアトラは、そっと扉を開き中の様子を窺った。
「……え?」
「あれ? アトラお嬢様?」
部屋の中へと足を踏み入れると、そこにはメイド服の上からエプロンドレスを纏ったモネの姿が在った。
背筋が真っ直ぐと伸びているからか、何だか後ろ姿ですらも絵になっている。
「どうされたのですか? こんな時間に厨房など……」
モネは驚いたような顔をしていたが、アトラからすれば、それは彼女の台詞だ。
「い、いや……朝は」
朝早くに目を覚まし、こうして一人で厨房に入り込み、食事を済ませる。
それがアトラの日課だった。
「?」
「な、なんでもないけど……ちょっとお腹が空いたから」
アトラは屋敷の中でも浮いた存在だ。
屋敷内の使用人達からも疎まれている。
もちろん表向きはアトラに対しても愛想良く振舞うが、それ以外の場では誰もが彼女の事を毛嫌いしているのだ。そしてアトラは敏感にそんな感情を感じ取っていた。
朝食を用意してもらっても、皆すぐにアトラから逃げるように去ってしまう。
一緒に居てくれるのは当主であるキースが居る時だけであった。
「……」
あの広い食堂で一人で食事を取っていると、なんだかとても悲しい気持ちになるのだ。
また、自分の食事を用意する事を面倒に思われている事も知っている。
気付けばアトラはなるべく一人で食事を済ませるように自然となっていた。
とりわけ朝方はそう。
そちらの方が気が楽なのだ。
「あっ。でしたら丁度いいですね」
アトラの言葉を聞いたモネは嬉しそうに微笑んだ。
それはアトラの目から見ても感じの良い微笑みであり、他の使用人が彼女に向ける眼差しとは明らかに違って見えた。
何故だろうか。
不思議と安心感を覚えたアトラ。
彼女は意を決して、てとてと、と誘われる様にモネへと近付いていった。
「なに……これ?」
「ふふっ。もちろんアトラお嬢様の朝食ですよ。屋敷の方に聞いたらアトラお嬢様のお食事を作る際には、いつでも厨房を使っても良い、とのことでしたので」
そんな事を言いながら微笑むルノワール。
彼女の眼前には、完成したばかりだろう料理が並んでいた。
湯気を立てつつ黄色く輝くフワフワの卵と添えられたサラダ。
明かりに反射して表面を光らせているロールパンにはとろりとした白いソースが掛けられている。
良い香りが鼻腔を擽る。
アトラが茫然とそれらを見つめていると、モネは尋ねた。
「簡単な物ばかりで恐縮ですが……早速お召し上がりになられますか?」
「う、うん」
「では食堂の方にお持ちしますので、少々お待ち下さい」
食堂、という言葉を聞いて。
アトラは思わず不安げな声を上げた。
「……ぁ」
「? どうかされましたか?」
「あっ……いや」
モネもまた……食事を運ぶなり、自分を一人ぼっちにしてしまうのではないか。
アトラはそう思い、不安になった。
「も、モネも一緒に……食べる?」
使用人が主人と一緒に食事をするなど、普通は有り得ない。
自分でも何を言っているのだろう、と思うアトラであったが、意外な事にモネは破顔した。
「わぁっ。御一緒してもよろしいのですか?」
モネはモネで、アトラが何だか心細そうにしているのが気に掛かっていたので、この提案は渡りに船だった。
また、彼女が以前に仕えていた屋敷が主人も使用人も対等に食事をする場所だった、というのも大きいだろう。
「では運びますね」
「え? い、いいの?」
自分の提案でありながら、まさか同意してもらえるとは思っていなかったので、アトラは驚きに目を見開いていた。
「あ……あれ? やっぱり駄目、ですか? 私、なんだか勘違いしちゃって……います?」
「う、ううんっ。ま、待ってる」
元気良く微笑んだアトラの様子を見下ろしながらモネはホッと安堵の表情を浮かべた。
すぐに食堂の方へと料理を運ぶモネ。
まだまだ日の昇らぬ早い時間。
静寂の支配する食堂には二人しか居なかった。
「じゃ、じゃあ……いただきます」
「はい。どうぞ」
こんな風に。
誰かと一緒に食事をすること自体がアトラにとっては久しぶりだ。
最近は父であるキースが帰って来る事も少なく、帰って来たとしても、随分と遅い時間であったりするものだから、アトラとは顔を合わせる機会すら乏しかった。
「……ぁ」
モネの作ったオムレツの中にそっとスプーンを差し込むと、中から何やら肉餡が滲み出て来る。
それらを丁寧に掬いつつアトラは口元に卵焼きを運んだ。
「……っ! 美味しい!」
肉汁が柔らかな卵と口の中で混ざり合い、舌の上を滑らかに滑ってゆく。
一口食べて、目を丸くしたアトラがモネに目を向けた。
そんなアトラの様子を優しい表情でモネが見守っている。
「ふふ。それは大変良かったです」
「ほ、本当に美味しい……このサラダに掛かってるドレッシングも……こんなの屋敷にあったの」
「あ、それは実は私が作った自作のドレッシングなんです」
朗らかに微笑むモネが嬉しそうに言った。
「アトラお嬢様のお口に合ったのでしたら幸いです」
ぱくぱくとモネの作ってくれた料理を次々に口へと運ぶアトラ。
彼女は時折、様子を窺うようにモネに視線を向けていた。
「も、モネは食べないの?」
「あっ。そうですね。美味しそうに食べて下さるのが嬉しくて……あっ!」
と、そこで何かに思い至ったのか、モネは慌てて頭を下げた。
「考えてみれば主人の食事姿を見つめるなんて失礼でしたね。大変申し訳ありませんでした」
突然の謝罪の言葉。
しかしこの態度に慌てたのはアトラの方だった。
「え? あ、べ、別にそれはいいのよっ!」
「そ、そうですか?」
「じゃなくて! モネの分が冷めちゃうでしょ?」
なんとなく視線をモネから外したアトラがパンを手に取る。
口に含んだパンをもぐもぐと咀嚼しつつ、彼女は不思議そうに白いソースを見つめていた。
「もしかして……このパンに掛かってる白いソースも?」
「ふふっ。はい、正解です。実はそれも私の自作です」
どれもこれもが本当に美味しかった。
少なくともここ最近、アトラが口にした料理の中では、間違いなく一番美味しい。
「……ふぅ」
「ご満足いただけましたか?」
「えっ?」
アトラはいつの間にか無くなっていた目の前の皿の上を見つめる。
「……」
「足りないのでしたら、お持ちしますが……」
「あっ。いや、そうじゃなくて」
(結構な量があったように思えたのに……)
こんなにたくさん朝食を食べたのも、これまた久しぶりだった。
というか初めてかもしれない。
「では食後の紅茶をお持ちいたしましょうか?」
「あ……お願い」
「はい。少々お待ち下さい」
モネは素早く厨房へと引っ込むと、予め用意してあったのか、すぐさま紅茶のポットを片手に食堂へと戻って来た。
「砂糖はおいくつ入れますか?」
「あ……じゃあ3つ」
「畏まりました」
琥珀色の液体がゆっくりとカップに注がれる。
アトラはゆらゆらと宙を漂う湯気を眺めていた。
外気の寒さなど感じさせない、温かな紅茶が煌めいている。
「では、どうぞ」
目の前に用意されたカップを持ち上げ、アトラはゆっくりと口を付ける。
彼女は猫舌なのだ。
丁寧にそっと紅茶を喉に流し込んだ。
「あったかい」
「ふふ。おかわりが欲しければ遠慮なく仰ってくださいね」
「う、うん」
しばらく二人は無言でカップを傾けていた。
その間もアトラがちらちらとモネの横顔を覗き込みながら、何かを話す切っ掛けを一生懸命に探っていた。
「りょ、料理上手なのね」
「え?」
「あ、あの、すごい美味しかったから」
アトラの言葉を聞くなり、モネは相好を崩す。
「ありがとうございます。実は私お料理が得意なんです」
「う、うん。すごいと思う」
「アトラお嬢様は毎日こんなに朝早くに起きられるのですか?」
屋敷の人達からは特に何も聞いていなかったモネは、目の前のアトラに直接尋ねる事にした。
「そ、そう。朝は早いの、わたし。夜はすぐに眠っちゃうんだけどね」
「ふふっ。健康の為にも大変良いと思います」
「そ、そうかな?」
「はい。少なくとも私はそう思います」
「ふ、ふぅん」
会話を交わしている時のモネは、他の使用人では有り得ない程に優しく、またアトラを邪険に扱うような素振りが微塵も無かった。
まるで――呪いの事など知らないかのようだ。
「今日も雪が降りそうですね」
窓の外を見つめながらモネが呟く。
確かに太陽は雲に隠れてしまっており、空模様はお世辞にも良いとは言えない。
「アトラお嬢様は雪はお好きですか?」
「え? 雪?」
「はい」
「う……うん、まぁ。好き……かな?」
雪が降り積もる季節は屋敷の外が寒い上に雪は冷たい。
だから雪を嫌いだと言う大人の人は結構多い。
それでも真っ白でふわふわと空を舞う雪は綺麗だと思うし、なんだか可愛い感じがする。
朝目覚めた時に部屋の外に広がる銀世界には、思わず心が躍ってしまうのだ。
「ふふっ。実は私も雪は好きなんです」
耳元で揺れていたブラウンの髪を掻き上げながらモネが言った。
「なんだか普段とは違う景色が綺麗で」
「わ、分かる! 後は雪だるまとか……」
思わず身を乗り出して語るアトラを見つめたモネの眦が柔らかく細められる。
子供らしいアトラの反応が微笑ましかった。
「ふふっ。では、雪が積もったら一緒に作りましょうか?」
「……う、うんっ!」
モネと話していると。
自然と笑顔になっている自分にアトラは気付いた。
「も、モネはこの後どうするの?」
「え? 私ですか?」
そうですねぇ、と言いつつ顎先に手を当てるモネ。
そんな仕草ですら綺麗な人だとアトラは思った。
「厨房を片付けたら……あれ? よくよく考えたら私はアトラお嬢様の付き人ですので、アトラお嬢様次第ですね」
そんな今更な事に思い至り、彼女は惚けたような表情で微笑んだ。
「そ、そっか」
「ふふ。何か為さりたい御要望などはありますか?」
こんな風に笑顔で。
こんな風に優しく接してくれた従者なんて今までは居なかった。
いつだってアトラの従者は誰もが一歩引き、どこか恐れたような眼差しを向けて来るばかり。
「あ……えっと。そ、そうね。く、クルちゃんを紹介してあげる!」
「くるちゃん、ですか?」
「そう! インコなんだけど、すごい可愛くて」
「あ、もしかして以前馬車にもいた……」
「そう、その子!」
アトラは余程クルちゃんの事が好きなのだろう。
声にも熱が篭っている。
そんな彼女の気持ちを感じ取ったモネは嬉しそうに言った。
「それは楽しみですね」
オルフェウス家にやって来た翌日。
モネはそれと意識する事無く、早くもアトラの心を掴み始めていた。
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