第182話 偽りのモネ
「アトラお嬢様」
呼ばれ、振り向くとそこには屋敷の侍従長が居た。
「?」
父を除けば、屋敷内にあっても何か特別な要件が在る時、もしくは食事の時ぐらいにしか自分に話しかける人間はいない。
昼食は先程終えたばかりだ。
「何の用ですか?」
いくらか冷やかな語調で尋ねると、侍従長は告げる。
「新しい使用人の方がお見えになりました」
「……あぁ」
気の無い返事が口から漏れた。
新しい使用人。
一体何度その言葉を聞いた事だろうか。
(結局)
先日の夜半、賊に襲われた際に雇っていた使用人は翌日には荷物をまとめて出て行ってしまった。
あのような出来事に巻き込まれ、怖くなったのだろう。
(まぁ)
珍しい事では無い。
オルフェウス家では、至極当たり前の日常だった。
とりわけ、わたし付きの従者が1月以上の間、使用人を務める事など、ほとんど有り得ない。
「彼女にはお嬢様のお付きの従者になってもらう予定です」
「そう」
「客間にて待たせております」
「……少しだけ待ってもらっていてください」
そう言うと侍従長は頭を下げて部屋から出ていった。
彼女の背中を見送ったわたしはベッドの脇の鳥籠へと近付く。
「クルちゃん」
なんとなく名を呼び、きょろきょろと忙しなく頭を動かすクルちゃんを見ていると、それだけで楽しい気持ちになって来た。
(いや……)
少しだけ、違う。
(それぐらいしか)
この世の中には楽しい事など……無いのだ。
「……」
ふと視線を上へと向けると、鳥籠の取っ手の辺りが、ひどく曲がっていた。
先日の襲撃の際に壊れてしまった部分だ。
その時どうしてか。
優しい微笑みを浮かべて頭を撫でてくれた女性の姿が脳裏に浮かんだ。
あの日――またしても不幸が己を襲った夜、見ず知らずの自分を助けてくれたメイドさん。
(あんな風に……)
誰かに頭を撫でてもらったのなんて――いつ以来だろう。
(あんな風に……)
誰かが自分に笑顔を向けてくれたのなんて――いつ以来だろう。
「今度の人は……どれぐらい居てくれるのかな」
☆ ☆ ☆
客間へと足を運んだわたしは、思わず足を止めた。
「……ぇ?」
見覚えのあるブラウンの髪色が視界に飛び込んで来たのだ。
あの時着ていた旅装束のようなコートを羽織ってもいない。
使用人然としたメイド服に身を包んだ彼女はわたしがやって来た事に気付くと、さも嬉しそうに微笑んだ。
「初めまして、では無いですね」
そんな事を口にしながら低頭する彼女。
その礼はとても美しく、すらりと整ったプロポーションが更に際立ったように感じられた。
「本日よりオルフェウス家にてお世話になります」
「あの時の……メイドさん?」
忘れる筈も無い。
あの時、助けてくれたメイドさんだ。
昼間の明るい場所で見ても、目の覚めるような美人さんである。
「はい、そうです。あの時は名乗る事も無くて失礼を致しました」
メイドさんは胸に手を当て、今度は恭しく名乗った。
「モネ、と言います。至らぬ点もあるかとは存じますが、これからよろしくお願いいたします」
そう言って微笑む彼女の顔を見つめ、人知れず弾む鼓動の音をわたしは確かに聞いた。
☆ ☆ ☆
呪われしオルフェウス家の御息女、アトラ=オルフェウス。
「呪いだなんて……」
馬鹿馬鹿しい。
そう一蹴したくなるような話ではあったが、マリンダは頭を振って答えた。
「いや、こいつはそう笑えない話でもある」
至極真面目な母の言葉に思わず口を噤む。
彼女はゆっくりと教えてくれた。
「実際にアトラと一緒に居ると、不幸な目に遭う人間が後を絶たないらしい。突然テラスの柵が壊れて地面に叩きつけられたり、荷馬車に轢かれたり、鉢植えが落ちてきたり、な」
「そんな、馬鹿な……」
思い違いではないのか。
「アトラ=オルフェウス付きの使用人が今までに何人いたか知っているか?」
「え?」
突然の質問に首を傾げるルノワール。
「えーっと……」
聞いた話では彼女はまだ7歳だという。
というか何故そんな事を聞くのだろうか。
マリンダの質問の意図が良く分からない。
「少なくとも50人以上だ」
それは望外の数だった。
「50人、って……どういう……意味?」
「常識では有り得ない程の頻度で替わっているのさ。今までに彼女の従者を務めた人間は何かしらの不幸な目に遭い職を辞している」
「職場が嫌になって辞めた、ということ?」
「それだけではなく……死者まで出ている」
流石に息を呑むルノワール。
そう言えば、先程の一件でも、彼女が原因で少年が命を落とした、と。
マリンダは決して語調を荒げる事無く淡々と続けた。
「よく考えてもみろ。馬車が襲われた一件とて、お前が助けに入らなければ、彼女達が死んでいてもおかしくはないだろう?」
「それは……確かに」
彼女の傍に仕えていた使用人の方にとっては、不幸な出来事には違いない。
(でも)
「彼女自身はそれらの不幸全てを掻い潜っている、という事?」
でなければ、常に当事者であるアトラも無事では済まない筈だ。
「いや、決まって周囲に居る人間にばかり実害が及ぶ」
だが……昨日はアトラ自身も危険な状況だった。
「だったらおかしいんじゃ……昨日はそのアトラさんがピンチだったんだし」
「まぁ……それはそうだが」
マリンダとてそこまで情報を持っている訳ではない。
歯切れ悪く顔を僅かに背けつつも話を続けた。
「兎に角、そういった事情があって、彼女の使用人は頻繁に入れ替わる。一人の任期が長く続かないからだ」
「……それでも募集はあるんだね」
ルノワールの素朴な疑問の言葉にマリンダが肩を竦めて見せる。
「給金はとてつもなく高いからな。だが、最近はそれでも中々使用人が見つからなくなっているらしい。不吉な噂が広まり過ぎているせいだろう」
「それは……そうだろうね」
職に付けば、死ぬ可能性のある主人に一体誰が仕えたいと望むだろう。
「そこで、だ」
それまで黙っていたディルがルノワールを見下ろしつつ言った。
「お前には彼女の家に使用人として忍び込んでもらいたい」
「……へっ?」
突然の申し出にルノワールは目を見開き、彼を見上げる。
ディルは一体何を言っているのだろう?
「い、いや、それどころじゃないでしょう!? ユリシア様とお嬢様を助けないと……っ」
「ユリシア様を救うためには、コルネアス城に忍び込む必要がある。準備は相応の時間が掛かるだろう。メフィル嬢に至っては、まずどこにいるのかも定かじゃない」
「だったら尚更……っ!」
身を粉にして奔走しなければならないのではないのか。
「いいか? 帝国には1年前から潜入工作をしていた紅牙騎士団員がいる。お前が闇雲に走り回るよりも帝国の調査は彼らに任せた方が効率が良い事は理解出来るな?」
「っ! そ、それは……」
ルノワールは紅牙騎士団の中でも戦闘能力は高い。
マリンダに次ぐ力がある上に、年齢に比して修羅場を潜り抜けて来ている彼女の戦場での指揮能力とて低くはない。
しかしそれ以外の能力はどうだろうか。
紅牙騎士団はルノワールが入団する以前からミストリア王国の裏側を調査し、様々な知識と経験という武器を持って荒事に馴染んで来た猛者達の集団である。
もちろん彼女とてディルの手解きを受けた事も在り、潜入工作なども学んだ身だ。
だが戦場以外の場では、ルノワールよりも明らかに先達の騎士団員達の方が上手だろう。
諜報員としての能力では、リィルとて彼女よりも遥かに高い適性がある。
ディルの言っている事は至極当然だった。
「もちろん、皆それぞれ帝国における様々な情報を持っており、独自の伝手もあるだろう」
「じゃあ、私は……」
役立たず、ということなのか。
思わず顔を下げ掛けたルノワールを励ますようにディルが制する。
「馬鹿。そんな顔をするんじゃない」
「でも……」
「いざ準備が整った時。お前の力は何にも代えがたい切り札になるんだ」
そう言って微笑んだディルは言葉を続けた。
「もちろん、お前に調査の手伝いをお願いするのも悪くは無い。転移を有効活用するのも一つの手だろう。だが、もう一つ。お前にしか出来ない仕事が出来た」
「それが……?」
「あぁ。オルフェウス家の調査だ。アトラを助けた事も手伝い、恐らくお前の心象は良いだろう。それに何よりお前には使用人としての経験値がある。普段の頻度からいって、さして待つ事も無く、アトラ付きの侍従の募集が再び掛かるだろう」
それに応募してオルフェウス家の使用人になる、ということか。
マリンダがディルの言葉に続いて呟いた。
「メイドという形であれば自然にオルフェウス家に忍び込む事が出来る。今までは余裕が無かったが、これを機会にキースに探りを入れておきたい」
もしもレオナルドと戦う上での味方と出来るのならば、これほど心強いこともない。
そしてこれは決して口にはしなかったが……ディルはルノワールが最前線での調査をする事に危惧を感じていた。
先程の独断専行にしてもそうだが……今の彼女には危なっかしい気配がある。
もしもメフィル捜索に駆り出し、彼女の情報を掴んだとなると、そのまま暴走してしまうのではないか。そういう危うさが今のルノワールにはあるのだ。事は慎重に進める必要がある。
故にルノワールにはいつでも切れる切り札としての側面も持たせつつ、オルフェウスの使用人として、一つ所に留めておき、尚且つ重要人物の情報を掴む為の機会を得るチャンスとする。
突発的な思い付きではあったものの、悪くない手であるとディルは考えていた。
「それに」と薄く微笑むマリンダ。
「私は呪いなど信じちゃいない。これまでの事件にしたって、何らかの物理的な害意がほとんどだ。お前ならば心配あるまい」
「定期的にリィルから連絡を入れるようにする。後で場所と日時を二人で決めておいてくれ」
二人の言葉に頷きながらもルノワールは首を傾げた。
「そこまでして……何かがオルフェウスにはあるの?」
何かディルとマリンダの中に、更なる目的があるような気がしたのだ。
「それを知りたい、というのが本音なのだが……一つだけ気に掛かっている事がある。重要人物である、という以外の部分で、だ」
ディルは真剣な顔付きでルノワールに告げた。
「オルフェウス家には、古くから伝わる秘宝があるらしい。恐らくは魔法具だ」
「……魔法具?」
「具体的には何かは分かっていない。しかし一度それが解き放たれることになれば……国内の勢力図が塗り替わる、とすら言われている程の魔法具であるらしい」
その言葉を聞いてルノワールは思わず軽く眉を顰めてしまった。
俄に信じられる話では無い。
確かに世の中には強力な魔法具というのは存在する。
審判の剣などは、その最たる例だろう。
しかしあれはゴーシュ王が巧みに象徴として用いたからこそ、あれほどの効果を及ぼしたのだ。
流石に魔法具そのものが、国一つを揺るがす程の力を持つ事などあるのだろうか。
「そんなものが?」
「まぁ疑いたい気持ちも分かる。俺も同じ気持ちだ。だから一年間オルフェウスの事は放置していた訳だしな」
それ以外にも調査せねばならない事が山ほどあったのだ。
手を回せるだけの余裕が無かった。
敵対する可能性が低そうな相手な上、キースは表側から揺さぶりを掛けようにも隙が無い男だった。
「だがもしも……それが真実だとしたらどうする?」
マリンダがディルの言葉を引き取り、己の子供を見下ろした。
「それ、は……」
「思わぬ兵器によって足をすくわれる可能性がある事は分かるな?」
そのような危険な魔法具は存在せず、キースもレオナルドに与する人間ではない。
それならばそれでも良いのだ。
しかし現在は、それらの事実が曖昧模糊としてしまっている。
紅牙騎士団としては、その辺りに白黒を付けておきたい。
「千里眼では分からなかったの?」
「俺の千里眼は遮蔽物は見通せるが、一定以上の強度を持つ結界の類は越えられん」
帝国の重鎮の屋敷だ。
相応の結界が張ってあるのは当然であった。
「私はオルフェウスの屋敷では……」
「まずは本当に危険な魔法具があるのかどうかの調査。そしてキースについての情報の収集。だが……あまり強硬な手段は取るな。いつも通りにしていろ」
「は?」
いつも通り、とは?
「アトラの付き人として……メフィルに仕えていたように過ごせばいい。その過程でさり気無く屋敷を探れ。何なら妻を亡くしたあの男に色仕掛けを仕掛けてもいいぞ……ん? 考えてみればそれが一番いいのか?」
大真面目に悩み始めるマリンダの姿を見つめつつ、ルノワールは呆れ声を洩らす。
「そんなの私には無理でしょう」
本当の女性でもないのに……男性を籠絡するなど不可能だ。
そんな気持ちで呟いたが、他の3人はじーっと彼女の事を見ていた。
「えっ?」
「まぁ兎に角、オルフェウスの事はお前に任せるさ。その他の調査結果が出るまでは待っていろ」
そうしてルノワールのオルフェウス家への採用が決まったのは、二日後のことであった。
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