第179話 メフィス帝国の支配者
未だ成人を迎えていない幼い容貌の少年が窓の外の空を見上げていた。
歳は12歳程度だろうか。
帝国男児にしては珍しく天然の艶やかな金髪に白磁のような白い肌。
仰々しく、また華美な服装を身に纏った少年の指先にはいくつも魔石によって作り出された護身用の指輪が煌めいている。
美しい魔石の輝きを一撫でした彼は、視線を僅かに下げた。
この部屋の窓から眼下を見下ろすと、帝都ウィシュハーンを一望する事が出来る。
その光景は中々に圧巻ではあったが、少年の表情は退屈そのものであった。
初めてこの部屋に案内された時には心も躍ったが、今となっては見飽きた光景だ。
「……陛下」
侍従の一人が静かに少年を呼ぶ。
少年はしばらくの間、返事もせずに空を見上げていたが、やがて、ハッとなった。
(あぁ……僕の事か……)
既にメフィス帝国の第14代目の皇帝となってから、早2年。
未だに慣れる事の無い自分に苦笑を洩らしつつ、彼は窓から視線を動かし、侍従の方へ向き直った。
彼こそは若きメフィス帝国の現皇帝――ハインリヒ14世。
そして現在彼が居る場所がメフィス帝国の中枢たる帝都ウィシュハーン、その中央に位置する皇帝の住まう居城……コルネアス城である。
乱れる事無く立派に燕尾服を着こなした少年と、同じく侍従らしくメイド服を身に纏った少女。
ハインリヒは声を掛けて来た少女に尋ねた。
「どうした?」
「どうやらご主人様がお帰りになられたようです」
少女の言葉を聞いたハインリヒの顔が俄かに輝く。
「なに! レオナルドがもう帰ったのか?」
出掛ける前には、いつ頃帝国に戻って来られるかが不明瞭だと聞いていたので、彼は多少の驚きとそれを上回る歓喜の感情を顕わにした。
と、噂をすれば何とやら。
「失礼するぞ」
その男はノックをする事も無く、また中に居る者の返事を待つ事も無く、堂々と皇帝の居室へと入って来た。
無論、メフィス帝国広しと言えど、皇帝相手にこのような無礼な振舞いをする者は唯一人。
帝国特務官レオナルドだ。
彼は二人の仲間、ジョナサンとキャサリンを左右に侍らせるような形で歩いて来る。
「レオナルド!」
レオナルドの姿を目にした途端に、ハインリヒの顔は一層の輝きを増した。
「早かったではないか!」
「随分と手早く事が済んだからな……おい、入れ」
少しばかり遅れて室内に入って来た女性。
彼女は両腕を拘束され、その口元には猿轡が嵌められていた。
「……そちらの女性が?」
確認するように皇帝が尋ねると楽しげにレオナルドは答える。
「あぁ、そうさ。この女がミストリア王国ファウグストス公爵家の現当主――ユリシア=ファウグストス。今回のターゲットだ」
「そう、か……随分と若いのだな」
「見た目はな。これでも、もうじき成人する娘を持つ1児の母だ」
ハインリヒは囚われの身となっている虜囚をまじまじと見つめた。
レオナルドは1児の母と言ったが、とてもではないがそうは見えない。
高く見積もっても20代後半。
若々しく、その髪や肌には10代と言われても頷けるだけの艶が在った。
また、奴隷のような扱いを受けているのにも関わらず、ユリシアの瞳の輝き、強さは一体どうしたことだろうか。
端麗な容姿からは覇気が漲っているようにすら感じられた。
「彼女をどうするのだ?」
「こいつにはコルネアス城に居てもらう」
「牢屋にでも……入れるのか?」
なんとなく気が進まないハインリヒが尋ねるとレオナルドは当然だとばかりに頷いた。
「まぁこいつは逆らえんだろうがな……地下に牢があるから、そこがこいつの居場所だ」
「そ……そうか」
レオナルドが一度決めた事を曲げるような男では無い事を知っているので、ハインリヒはそれ以上は何も言わずに頷いた。
レオナルドは傍に控えていたハインリヒの侍従として付けている少年に命じる。
「宰相を連れて来い」
「畏まりました」
特務官如きが宰相を呼び出すなど、普通であれば考えられない。
しかし去ってゆく少年には頓着せずにレオナルドは言った。
「ハインリヒ……お前には近々宣戦布告をしてもらう」
それはまるで既定の予定を述べる様な口調であった。
「お……おぉっ! ではついにミストリア王国に攻め込むのだな!?」
年相応に勢いづくハインリヒ。
しかしそんなハインリヒを抑えるようにレオナルドは頭を振った。
「いや……もちろん国境線には兵士を配備してもらうが……本格的に攻め込むのは、もう少し後だ」
「そ……そうなのか?」
「なに、心配はするな」
彼はそこで残虐な微笑みを浮かべつつ、ユリシアを見下ろした。
「少しばかり……やることがあるのでな」
☆ ☆ ☆
「宣戦布告だって!?」
帝都ウィシュハーンの隣に位置する街、セトノア。
とある豪邸の中で人知れず密かな会合が行われていた。
「レオナルドは……あいつは本気でミストリアと戦争をするつもりなのですか!?」
嘆く様に一人の男――キース=オルフェウスが言った。
長年に渡りメフィス帝国軍に所属していた男であり、その実直さは往年の皇帝からも認められている程である。
顎髭を蓄えた壮年の男性がキースを制するように落ち着いた声音で続けた。
「奴には勝機があるのだろうよ。実際にあの男はデロニアとの戦において、目覚ましい活躍を見せた」
エンジ=ドルトリン。
彼は既に引退した身ではあるが、現役時代はキース以上の長い年月を帝国軍で過ごして来た男である。
対面に腰掛ける情報を運んで来た男――ヤン=フスもエンジの言葉に悔しそうな表情で頷いた。
「妖しげな魔術と実験をしていただけでしょう!?」
「それが……戦で功を奏した事は事実なのだ」
「子供まで戦場に駆り出して……っ!」
キースが毒を吐く様に言った。
「あれらが普通の子供とは思えないが、な」
「それでも……子供は子供です……っ!」
レオナルドが使役する謎の子供達。
感情に乏しい彼らの事を、周囲の人間は『レオナルド・チルドレン』と呼んでいる。
実際に子供達がレオナルドの事を父のように慕い、絶対の主として仰いでいるからだ。
「だが……あの子達は強い。熟練の兵士よりも、だ……」
忌々しげに言うエンジの顔には隠しようのない悲しみが渦巻いていた。
「ガルシア様さえ御存命ならば……このような事には……っ!!」
キースの言葉に、他の2人の顔にも暗い感情が過ぎった。
思い出したくない苦い記憶なのだ。
ガルシア=ゾルダート。
メフィス帝国創世記より、脈々と受け継がれてきた王族を補佐する名家ゾルダート家。
ゾルダート家は代々上将軍を輩出してきた家柄だ。
先代当主ガルシア=ゾルダートは当時4人存在した上将軍の中でも筆頭実力者であり、実質的なメフィス帝国軍部の総帥だった男である。
しかし10年前――突然の訃報が襲った。
「ガルフォード様が御乱心など有り得ない……っ!! 何かの間違いに決まっている!!」
ガルシア=ゾルダートは当時、妻と二人の子供と4人で暮らしていた。
息子が一人に娘が一人。
仲睦まじく過ごす彼らはウィシュハーンでも有名であった。
ガルシアは将軍としての確かな実力に加え、実直な性格でもあったため、帝国軍部の中では絶大な支持を得ていた人物だった。
だがある日――ガルシアの息子であるガルフォード=ゾルダートが3人の家族をその手に掛けたのだ。
その日、ゾルダート家の屋敷は血の海と化した。
ガルシア並びに妻と娘はガルフォードの手によって惨殺された事が判明し、更には、ガルシアの書斎からはメフィス帝国への叛乱を匂わせるような証拠が数多く見つかったのだ。
たった一夜にしてゾルダート家は帝国の英雄から、謀反の徒とされ、帝国最大の不吉な家名となった。
「今頃……ガルフォード様は一体どうしておられるのか……」
ガルフォードは現在、行方をくらましており、10年が経った今でも見つかっていない。
ガルフォードは才気に溢れた青年であり、成長すれば、必ずやガルシアを超える上将軍として帝国を導いてゆく人間であると誰もが信じていた。
「ガルシア様が居なくなってからというものの……帝国は傾くばかりだ」
ガルシアは絵に描いたような文武両道の男であり、間違いなく当時のメフィス帝国最高の傑物であった。
キースの言葉はガルシアに肩入れをし過ぎているきらいはあれど、概ね間違ってはいない。
彼の訃報が届いてからは、目に見えぬ形で少しずつ……帝国には歪みが溜まって行ったのだ。
ゾルダート家が没落して以降、帝国には誰からも英雄と認められる程の才覚を見せる者は現れず、やがて――あの男が現れた。
「先代皇帝を亡き者にしたのは間違いなくあの男でしょう……っ!?」
どこからともなく颯爽とメフィス帝国に現れた悪魔。
彼が姿を見せてから僅か数ヶ月で、王位継承権を持つ皇帝の血を引く人間が悉くこの世を去った。
ある者は病に倒れ、ある者は不慮の事故で怪我を負い、ある者は錯乱した挙句自殺を図った。
そして遂には――皇帝までも。
そうして次代の皇帝候補が一人も居なくなったタイミングで――機を見計らっていたかのようにレオナルドが連れて来たのだ。
第14代目となる皇帝――ハインリヒ14世を。
確かにハインリヒの背中にはメフィス帝国の皇族のみが持ち得る刻印が刻まれており、皇族しか扱えぬ魔法具の類も難なく使う事が出来た。
間違いなく彼は皇族の血を継いでいる。
それを否定する者はコルネアス城には一人もいないだろう。
ハインリヒ14世は、長く世俗の中で生きて来たせいか、不遜な振舞いなどの無い真面目な少年であった。
礼儀作法には多少の難があったが、それは追々身に付けていけば良いものだ。
頭の回転も早く、落ち着いた眼差しは常人とは異なる重みがあり、成長すれば立派な皇帝になるだろう器をもっていた。
それだけならば誰もが歓迎したことだろう。
だがたった一つだけ。
看過出来ぬ問題点を抱えていたのだ。
ハインリヒ14世最大の問題点――それはレオナルドをひどく慕っている事だった。
ハインリヒはレオナルドの言葉には従順であり、彼の言を悉く取り入れた。
そして瞬く間に軍備を整えると、誰も予期していなかったデロニアへの進軍を開始したのだ。
新たな皇帝の突然の号令に反抗心を抱く人間も大勢居た。
しかしそれら反抗の意志を少しでも公にした人間は――一人残らずこの世を去った。
それは否応なしに皇族が次から次へと死んでいった姿を帝国臣民に想起させる。
言葉にせずとも誰もが、誰の仕業なのかを悟っていた。
「本当にこのままで良いのですか!?」
キースは尚も勢いよく、唾を飛ばす。
「良いとは誰も思っておらん。しかし……我々だけではこの流れは止められんのだ」
エンジはこう言ったが、ヤンは弱々しく首を振った。
「だが最近では……レオナルドに追従する人間も増えて来た」
実際にレオナルドはデロニアとの戦争を大勝という形で終わらせて見せたのだ。
あの男が強者であることに疑いの余地はなく、勝ち馬に乗ろうとする人間がいても不思議では無かった。
「少しばかり……当てがある」
エンジの言葉にキースの顔が仄かに明るくなった。
「ほ、本当ですか!?」
「それほど期待されても困るがな……君も例の件はどうなっている?」
「将軍達を説得する件ですね……残念ながら芳しくは無いです」
「誰も聞く耳を持ってくれんか……」
「上将軍の内の2名がレオナルドに同調している事が原因でしょう」
キースは重い重い溜息を吐いた。
もしも将軍達の全員が一致団結してレオナルドに反抗をすれば、もしかしたら勝機が見えるかもしれない。
そうは思い、それとなく声を掛けているのだが、耳を傾けてくれる者はいなかった。
「これ以上……表立って動き回ると……」
「次は君が殺される、か……」
結局の所。
誰もがレオナルドの暴力に怯え、満足に意見を言う事も出来なくなっているのだ。
「いえ……ですがやれることはある筈です。もう少し……足掻いてみたいと思います」
「頼む、キース。既に引退した身ではな。直接軍部に口出しをする事は出来んのだ。ヤンも危険な橋を渡らせてすまんな」
ヤンは肩を竦めて、エンジに微笑んだ。
「今さらですよ」
「……恩に着る」
こうして今宵の会合は終わりを告げた。
(まだ……諦める訳にはいかない)
熱い闘志を身の内に宿すキース=オルフェウスは寒空の下、月を見上げた。
吐き出した吐息は白く、夜風に吹かれ消えてゆく。
(今日も……家には帰れそうも無い、か……)
彼は心の中で屋敷で一人待つ娘に詫びた。
(すまない……アトラ……)
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