第178話 いざ、帝国へ
目を覚ましたルノワールの視界にまず入って来たのは見知らぬ天井だった。
白い天井を眺める彼女は、囁く様な声で呟く。
「あれ……ここ……」
「目が覚めたか」
「……ディル?」
ルノワールが上体を起こすと、ディル=ポーターがベッドの傍に控えていた。
包帯の巻かれた己の腕。痛む全身。
「……っ!!」
記憶が蘇る。
「ユリシア様とメフィルお嬢様は!?」
鬼気迫る形相で慌てて尋ねるもディルは静かに首を振るのみであった。
鬱屈としたその表情が全てを物語っている。
ルノワールの脳裏――連れ去られてゆく主人の姿が呼び起こされた。
「そ、そん……な……っ!」
護衛として侍っておりながら……みすみす主人を……。
「こうしちゃ……っ」
いられない、とばかりにルノワールがベッドから跳び起きようとした。
「あ……ぅ」
しかし肉体は彼女の意を汲んではくれない。
傷付き、消耗した四肢はルノワールの意志とは裏腹に倒れ伏す。
「おい馬鹿、無理すんな! お前ひどい怪我だったんだぞ!」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!!」
怒号にも似た大音声。
いつになく乱暴な口調でルノワールは言った。
「お嬢様が……ユリシア様が攫われたんだよ!?」
「あぁ……分かっている」
「今すぐに助けに行かなきゃ!」
縋るような強い眼光が兄貴分を見据える。
「それはそうだが……少し落ち着け、ルノワール」
なんとかルノワールを宥めようとするディル。
しかし彼女の興奮は冷めなかった。
「っ! 落ち着ける訳ないでしょう!」
「いいから少し冷静に……っ」
尚も言い募るルノワール。
その時、部屋の扉を開ける音と共に、怒号が鳴り響いた。
「落ち着け馬鹿者……っ!!」
「っ!!」
その声は無形の力を持っているかのようだった。
恐ろしい形相で叫んだマリンダが娘を鋭い眼光で睨みつけている。
余りの迫力に、さしものルノワールも息を呑み、口を閉じた。
「少し……黙れ」
「……」
母親の言葉には素直なのか。
ようやく僅かながら落ち着きをみせたルノワールに、ディルがほっと胸を撫で下ろした。
「お嬢様……」
ルノワールが主人を想い、小さく呼ぶ。
彼女の脳裏に――涙を流し、拘束され連れて行かれるメフィルの姿が――。
「ぁ……ぁ」
力無い両手が自然と持ち上がるも――何一つ守る事の出来なかった両腕の中に存在するのは虚空のみ。
ゆっくりと……ルノワールの眦から涙が零れた。
「お嬢様……泣いてた……」
確かに。
あの時、メフィルは泣いていた。
「……」
「私が……私が弱かったから……」
マリンダも居た。
ユリシアだって居た。
決して安全だとタカを括っていた訳ではないが、それでも有事の際には護りきれるだけの自信が在った。
しかし――敗れた。
彼女の手の平はメフィルの手の平を離してしまった。
「ふん、それを言うならば……私も同罪だ」
低い声音でマリンダが呟く。
握り締められた拳は固く、皮膚に突き刺さった爪の先には血が滲んでいた。
彼女の噛んだ唇の端からも薄く血が溢れている。
「絶対にこのままでは済まさない……」
目の前でむざむざ親友を奪われたなど、と。
これほどの屈辱をマリンダはかつて受けた事が無い。
悔しいが――今回は敵の方が上手だったと認める他無いだろう。
レオナルドの準備は万端であった。
予期していないタイミングでの奇襲。
しかもまさか、あのような帝国の最重要人物が自ら最高戦力を引き連れて来るとは……流石に予想外の出来事だった。
「失態だが……まだ負けた訳じゃない」
「え……?」
「諦めるな、馬鹿者」
マリンダは強い眼光をしていた。
鷹の様だ、と形容される眼差しがルノワールに突き刺さる。
「あのような形で連れ去った、ということは、だ。殺すつもりは無い、ということだ」
「それは……」
「冷静に考えろ。殺すつもりならば、わざわざ拘束し馬車で連れ帰るなど手間が掛かるだけだろう?」
彼女は娘の両頬を優しく手の平で包み込みながら続ける。
普段は年齢以上に強く、たくましく見えるルノワールではあるが、やはりこの子もまだ15歳なのだ。
心身共に発展途上。
そんな成人前の子供が己の失敗に泣いている。
ならば慰めるのは――親の役目だ。
「……うん」
「もしかしたら扱いは酷いかもしれない。しかし……あの二人は必ず生きている」
「うん……うん……」
「ならば私達がやらねばならない事が何か……分かるか?」
考えるまでも無い。
悲しみに目を伏せてばかりではいられない。
「二人を……助ける」
それ以外に……何があるというのだろうか。
あの二人の救出以上に大切な事など……何も無い。
「そうだ……いいか? 私達で……助けるんだ」
こんな時であっても。
いや、こんな時だからこそ。
マリンダ=サザーランドの『強さ』が、途方も無い程にルノワールの心の支えとなった。
「うん……っ」
「よし。だったらしゃんとしろ。涙を見せるな、みっともない」
優しく微笑み、マリンダは娘の頭を撫でる。
彼は傍で控えていたディルに尋ねた。
「ディル。王国内の動きは?」
「まだ然程の時間が経っていないにも関わらず、混乱が広がりつつあります。帝国の……あのレオナルドの仕業でしょうね。ユリシア=ファウグストスが王国から姿を消した、とまことしなやかに噂を流しています。手際の良さから言って、こちらも予め準備がしてあったのでしょうね」
「……」
「このやり口の上手い部分は、その証拠がないのに、状況証拠だけで、王国内に情報を拡散していることです」
実際に現在ミストリア王国にユリシア=ファウグストスは居ない。
しかし王国側としては、帝国の仕業だ、という証拠を持っていない為、帝国に対してファウグストス公爵を返すように強く迫れないのだ。
「恐らくはこちらから何かを言っても、しばらくは知らぬ存ぜぬを貫き通すでしょう」
「……最高のタイミングを見計らってユリシアをカードとして切って来る、という訳だな?」
「はい。例えその時になって近隣諸国から責められても構わないのでしょう」
「そんなことを気にする男では無い、か」
たった一人。
されど一人。
ミストリア王国で最も重要な人物が攫われたのだ。
「紅牙騎士団はどう動きますか?」
「どう動くか、だと? 決まっているだろう?」
騎士団長の迫力に多少気圧されつつもディルは提言する。
「俺達が動く事でユリシア様に害が及ぶ事は無いでしょうか?」
「可能性など無数にある。そんな事を気にしていられるか」
「ですが……」
現実問題として、先程マリンダがルノワールに言った事ではあるが、直接的な危害をファウグストス親子に加える可能性は高くない。むしろ随分と低い筈だ。
こちらとしては悔しいが、彼女達二人には帝国側に利する為の大きな利用価値があり、そんなことはレオナルドだって百も承知なのだ。
とはいえ、あの狂人に常識がどこまで通じるかは分からない。
ディルの懸念も尤もではある。
鋭い眼光でマリンダはディルを見つめた。
「おい、ディル」
「……」
「いいか? ユリシアなくして紅牙騎士団は有り得ない。今の私達は親を失った子供も同然だ」
鬼気迫る表情で彼女は続ける。
「もしも私の行動が容認出来ないと言うのであれば、ディル。お前達は国内で大人しくしていてもかまわない」
だが。
それでも。
「私が止まる事など有り得ない」
その全身から末恐ろしい程の莫大な魔力が迸り、室内には直視するのも難しい紅の光が満ちた。
敵意を向けられている訳でもないのに、ディルは余りの迫力に息を呑み、言葉を失った。
「邪魔立てする者は全て破壊する。私はこの手でユリシアを取り戻す……っ!!」
逆立った髪はまるで意志を持っているかのようだ。
己の指揮官がここまで怒りを顕わにしている姿をディルは見た事が無い。
「……馬鹿を言わないでくださいよ」
ようやくそれだけをディルは答えた。
彼は膝を付き、恭しく頭を垂れる。
「俺達はどこまでも……貴女に付いていきます」
先程マリンダはユリシアを紅牙騎士団の親と言ったが、騎士団の親はユリシアだけでない。
団員達にとっては、ユリシアが母親であり、マリンダは騎士団の父親なのだ。
そして皆――父の背中に憧れてここまで来た。
「ユリシア、メフィル奪還のために帝国へと向かう」
「はっ!」
「国内残留組も必要だ。いつもの通り、そちらの指揮はグエンに任せる」
母親の心強い背中を見つめつつ、ルノワールは瞳を閉じ、ぎゅっと拳を握り締める。
(まだ……負けた訳じゃない……)
心の中で己に言い聞かせ、決意を新たに彼女は瞳を開けた。
☆ ☆ ☆
よほどレオナルドの情報拡散役の仕事が早いのだろう。
あの事件から、まだ3日しか経過していないのにも関わらず、ユリシア=ファウグストス誘拐の噂は貴族達の間では、かなりの広まりを見せつつあった。
ざわつくクラスメイト達を見渡し、ルノワールは言う。
「しばらくの間――学院をお休み致します」
一人一人の顔をしっかりと見つめる。
自分の都合で居なくなるのだ。挨拶はせねばならない。
「あ、あの、それって……」
サーシャが立ち上がり、真剣な表情で言った。
「メフィル……さんも?」
「……はい。皆さまも御存知かもしれませんが……私の主人であるユリシア様、そして……メフィルお嬢様が帝国に攫われました」
息を呑むクラスメイト達に向かって頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。身辺警護役でありながら……私がお傍に付いていながら……むざむざ敵の手に……」
静まり返る教室の中――ルノワールの言葉だけが響き渡った。
「ですが……っ!! 彼女を救い出し……必ずもう一度連れ帰ると約束いたします!」
尚も彼女は慟哭するように続ける。
「もしも彼女を助けた暁には――どうかもう一度私達を……学院に迎え入れて頂くことは出来ないでしょうか?」
「! そんなの当たり前じゃないですか!」
「ま、待ってます!」
セリ、スージーが真っ先に声を上げた。
次から次へとメフィルとルノワールを案じる言葉が教室中に溢れかえる。
「……危険は無いのか?」
担任教諭の言葉に、ルノワールは寂しそうに顔を伏せた。
「危険は……あります」
「そうか。教師としてはあまり歓迎できない決断だな」
「申し訳ありません」
「いや……いいさ」
担任教諭は己のクラスを見渡し言った。
「みんな待っている。君とメフィルの二人が元気な姿で帰って来る事を」
1年間で友好を深めた友人達の温かい視線。励ます言葉。
それらがどうしようもない程にルノワールの心を揺らした。
「……はい」
涙が滲む眦。
震える喉を必死に押さえつけ、ルノワールは再び頭を下げた。
「ありがとうございます。それと――」
顔を上げた時……彼女の瞳に涙は無く、決意の色だけが残っていた。
「行って参ります」
☆ ☆ ☆
背後から呼び止める声。
「ルノワール」
びくりと肩を振るわせつつ振り返ると、そこには見慣れた伯爵令嬢の姿が在った。
「カミーラさん」
彼女の隣では、マルクさんがいつもとは違う真剣な表情で佇んでいた。
軽口を言う事も無く、黙ってこちらを見つめている。
「……」
彼女に一体……何と言って詫びればいいのだろう。
メフィルお嬢様とカミーラさんの仲の良さは痛い程に知っている。
幼少期からの幼馴染にして親友。
彼女は今――何を想っているのだろうか。
「これ――持って行って」
「え?」
カミーラさんは静かにそっと……僕の前に小さな木彫りの鳥を2つ差し出した。
「これ、って……」
「コンクールに出したのと同じ。オナガヒメドリの彫刻」
「……どう、して?」
「オナガヒメドリには見た人を幸せにする、っていうジンクスがあるのよ」
だから。
「だからこれは……お守り。貴女と……メフィルの分」
カミーラさんは真っ直ぐに。
どこまでも真っ直ぐに僕を見つめて言った。
「あの子にルノワールの手から……渡してあげて」
「カミーラさん……」
「……」
僅かに滲むカミーラさんの眦。
しかし決して涙を零す事は無く、彼女は続ける。
「信じて……いいのよね?」
彼女の震え声が……僕の心に響き渡る。
それ以上は彼女は何も言わなかった。
だけど今のカミーラさんが何を僕に言いたいのか。
それが分からぬ程には僕も鈍くは無かった。
「……はい」
「待ってるから……ずっと、ずっと」
「はい」
僕が答えると彼女は最後に小さく微笑んだ。
「また皆で……一緒にお昼御飯を食べましょう」
「うん……っ。約束だからね、ルノワール?」
「はい。約束です」
カミーラさんの隣には神妙な顔をしたマルクさん。
彼は僕に向かって黙ったまま軽く頷いた。
僕が踵を返すと、最後にカミーラさんの声が聞こえてきた。
「いってらっしゃい、ルノワール!」
☆ ☆ ☆
このままでは――終われない。
(僕は――)
「私は――」
メフィルお嬢様を――必ず取り戻す。
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