第177話 敗北

 

 雪山の中だというのに、額を流れる汗の雫は決して収まらない。


「はぁ……はぁ……っ」


 ルノワールの荒い息が白銀の世界に吐息として微かな残り香と共に消えてゆく。

 馬車から降り立ったキャサリンが挑む様な視線を向けながらルノワールと相対した。


(あの馬車……)


 あれも何か特別な魔法具か。

 あの中にファウグストス親子が居るのは間違いが無い。気配を鮮明に感じる。

 しかし先程ルノワールは直接馬車内に転移をしようとしたが、不可思議な力によって遮られた。

 あの子供達の力か、馬車そのものの力かは分からないが、手前までしか転移が出来なかったのだ。

 何かしらの仕掛けがあるとしか思えない。


「よくぞ追いついたものね」

「……」


 ルノワールは眼前の女を甘く見ていない。

 むしろ先程の戦闘では、キャサリンが全力を出し切っていない事を確信していた。


 言葉は不要。

 邪魔立てするのならば……討つのみだ。


 武装結界を身に纏いしルノワールが――霞む程の速度で大地を駆ける。


「っ!! あは……っ!」


 楽しそうな表情でキャサリンは突進して来るルノワールの鼻頭に向けて右足の蹴りを放つ。

 彼女にはメイド服を身に纏いし少女の動きが見えていた。

 それはルノワールの白銀の鎧に防がれた。しかしそれでいい。所詮は牽制だ。

 そのまま中空で軽やかに身体を回転させたキャサリンは、遠心力をたっぷりと乗せた左の後ろ回し蹴りをルノワールに向けて続けざまに放った。

 それはルノワールには見えている。

 だが右腕を上げ、キャサリンの足を受けようとしたルノワールの眼前――唐突に蹴り足が白熱した。

 

「っ!!」


 それは余りにも強烈な変化だった。

 蹴り足に満ちた魔力が眩いまでの、えんじ色に輝く。

 キャサリンの相好に浮かぶは狂気の混ざった微笑み。


 突如として、巨大な力を持った足がルノワールの白銀の鎧に突き刺さった。


「らぁっ!」

「!?」


 激突する衝撃に互いが歯を食いしばる。



 キャサリンの蹴りがルノワールの武装結界を――喰い破った。



 破られる、と思った瞬間に、ルノワールは受け身の態勢に入っている。


「ぐっ!?」


 ダメージは深刻ではない。

 とはいえ、弾け飛んだ鎧の向こう側で痛む右腕をさするルノワールの眼前。

 キャサリンは躍る様に身体を再び回転させていた。


 そして。


「やっ!」


 彼女の蹴り足からまるで突風の様な魔術の刃が迸った。

 蹴りの威力を惜しみなく活かした強力な衝撃波。

 それはルノワールが皇帝の揺り籠の周囲に張り巡らせた結界を見事に破壊した。


「っ! でかした、キャシー!」

「先に行って、レオ!」


 そうして再びキャサリンが豹のように身体をしならせ、俊敏にルノワールに向かって蹴りを放ち始めた。

 徹底して足技で攻め立てるのがキャサリンの戦闘スタイルなのだろう。

 変わった戦い方だが、その洗練された技は鋭い。


(重い上に……速い……っ!!)


 ルノワールであっても、容易に捌く事など不可能。

 足技主体とはいえ、上半身の巧みな体捌きが無ければ、これほどの技は得られない。

 彼我の体術の実力は拮抗していた。


(来る……っ!!)


 そして戦闘の最中、流れるような動作の中で、踊る様にキャサリンが身体を回転させる。

 それは洗練された迅速な舞だ。

 美しき肢体が死神の鎌を形作る。


 直後。


「おらぁっ!」


 ドスンッ……!! と身体の内側まで響く様な衝撃がルノワールの身体を揺るがせた。


「くぅっ!?」


 キャサリンの回転蹴り。

 これが破格の威力を誇っていた。

 しかも技が出るまでの時間が異様に短い。

 その上、彼女の回転蹴りはルノワールの武装結界を打ち貫くだけの超常的な威力を持っているのだ。


「あっは! なんだ、お前……っ!?」


 しかし驚愕しているのはルノワールばかりではない。

 キャサリンも同様であった。


(こいつ……固すぎだろ!)


 キャサリンの回転蹴りは聖獣すら一撃で屠る威力がある。

 それこそ帝国においては、彼女の回転蹴りをまともに受ける事が出来るのはジョナサンぐらいだろう。

 ここまで頑なに防がれた経験など、ついぞ無い。


「っ!」


(馬車が……っ!)


 ルノワールが再び動き出した馬車を視界の端に捉える。

 このままでは逃げられてしまう。

 転移で追いたい所ではあるが、目の前の女に背中を向けるのは危険な気がした。

 焦燥感が募るルノワールの心中など無視してキャサリンの攻撃が次々に迫り来る。


(いや! 駄目だ……っ! それでも相手にはしていられない!)


 ルノワールは素早く転移を発動させ、キャサリンから距離を取った。

 キャサリンを無視して、連続で転移を発動し、前方の馬車を追う。


 ――直後に背後で風切り音。


「っ!?」


 先程ルノワールの結界を破壊した衝撃破が背中に迫っていた。

 

(この程度……っ!)


 転移の軌道を逸らせば、衝撃波など当たる訳も無い。

 そのままルノワールは転移を繰り返し、馬車を再び視界に捉えた。

 連続の転移に加え、武装結界による戦闘。

 魔力の消費は激しかったが、それでも今やらねばならない。


(よし!)


 もう一度馬車に対して結界を張ろうとルノワールが両手を掲げる。

 

 だが。



 背後――すぐ傍に敵の気配を感じた。



「!」


 衝撃波ではない。

 振るわれる回転蹴りを間一髪の所で回避する。


「お、よく避けたね」


 視線を向けると気負い無く肩を竦めるキャサリンがいた。


(馬鹿な……どうやって……!?)


 追いついたのか。

 今までの人生でルノワールの連続転移のスピードに追いつけた敵など存在しない。


「不思議そうな顔をしているねぇ」

「!」

「さぁて。どうやって追いついたのでしょう……か、っと!」


 再び迫るは、強烈な蹴り足。

 不意を突かれたルノワールの脇腹に吸い込まれてゆく。


「ぐぅっ!?」


(駄目だ、逃げ切れない……っ!)


 まずは目の前のキャサリンをどうにかしないと、メフィルには手が届かない。

 

(だったら……っ!)


 更に光り、唸る全身。

 ルノワールの纏う鎧が瞬き、変形を繰り返す。


「はぁぁあああああああっ!!」


 その力強さは先程までの比では無い。


「こい……つ……っ!?」


 烈火の輝きと共に渦巻く螺旋の鎧がルノワールの全身を埋め尽くした。

 さしものキャサリンも息を呑み、目を見開く。

 現れたのは美しくも怪しい戦鎧。



 『武装結界・螺旋』



「はぁぁ……っ!!」


 それは敵の回転蹴りを防ぎ切り、返す拳の一撃がキャサリンの身体を彼方へと吹き飛ばした。




   ☆   ☆   ☆




「しかし奴はどうやってこの馬車を……」


 そこで何かに気付いたレオナルドは、メフィルの首元に手を突っ込んだ。


「っ!」

「このペンダント、か?」


 それは約1年ほど前。

 ルノワールがメフィルにプレゼントした通信用の魔法具だった。

 彼女はこの魔法具の魔力を頼りに追って来たのだろう。


 大切な魔法具だ。

 メフィルは体をゆすり、レオナルドを見上げたが彼は一顧だにしなかった。


「ふざけた真似をしてくれたなぁ?」


 苛立ちが表情を彩る。

 彼は容赦なく、ペンダントを踏み潰すと、勢いそのままにメフィルの顔を蹴り飛ばした。


「……っ!!」


 痛みに呻くメフィルを横目に、殺気を漲らせるユリシア。

 しかし横目でユリシアに残虐な視線を送り、レオナルドはしゃがみ込む。


「さっきも言ったがなぁ……あくまでも丁重に扱ってやるのは、反抗しなければ、だ。俺はそこまで寛容じゃあない」


 狂気の眼差しの中に虚ろな瞳孔が覗いていた。

 レオナルドはメフィルの髪を掴みあげると、その瞳に暴虐な色を乗せて、少女を睨みつけた。


「俺の言っている意味……分かる?」


 そして制裁の為か、再びレオナルドが手を挙げようとした時――またしても激しい横揺れが馬車を襲った。


「ちぃっ!?」


 馬車の帳を掴む手の平。

 彼が振り返ると、そこには悪鬼の形相でレオナルドを見下ろすルノワールの姿が在った。


「こいつ!?」


 一斉にレオナルドの部下の少年少女達がルノワールに群がる。

 彼らの攻撃によって、ルノワールはその身体にいくらかの怪我を負ったが、彼女は己の傷など省みずに、少年達を薙ぎ払った。



「お嬢様を……返せ……」



 既にルノワールの全身はボロボロであった。

 体力は消耗の一途を辿っており、体中の至る所から血が滲み出ている。


 しかしそれでも彼女は真っ直ぐに立ち、同じ言葉を繰り返した。

 大好きな護衛の姿に泣きたくなる程の衝動が沸き上がったメフィルの眦からは止めどなく涙が流れ始める。


 泣かなくてもいい。

 今すぐにその手を取って見せるから。

 そう、ルノワールが一歩足を踏み出そうとした。


 だが。


 馬車の背後。


 突如、世界を揺るがす衝撃が吹き荒れる。

 彼方から沸き上がった途方も無い程の強力な魔力。

 彼女の力を現したるは、えんじ色の輝き。

 世界を染め上げるだけの超常の力が大地を浸食する。

 歪む空間の中央には、狂気の笑みを浮かべた女の姿が在った。



 最大限の力を込めたキャサリンの絶叫が天に響く。



「『鳳凰天駆ほうおうてんく』……っ!!」


 

 生み出されたるは鳥獣。

 伝説上の鳳凰を象った、えんじ色の輝きが世界を喰らう。


 キャサリン最大の奥義がルノワールに直撃した。


「……っ!!」


 唸りを上げつつ、鳳凰天駆と武装結界・螺旋がせめぎ合う。

 人外の力同士が激しく衝突し、皇帝の揺り籠が軋み、世界に暴風が吹き荒れた。


 しかし……やはり消耗が激し過ぎたのか。


「がっ……ぁ……っ!?」


 武装結界・螺旋を貫通した衝撃が皇帝の揺り籠を揺らす。


 口から血を零しつつ、ルノワールが背後に視線を向けると、そこには口角を吊り上げたキャサリンの姿が在った。


「はぁはぁ……ざまぁみやがれ」


 そんなキャサリンを尻目に、さしものルノワールの膝が折れた。


「か……く、ぅ……」


 虚ろな眼差しが虚空を捉え、バランスを崩し、倒れ、彼女が馬車の外に放り出される。


「よし、出せ!」


 ルノワールは去ってゆく馬車に、弱々しく手を伸ばした。




   ☆   ☆   ☆




 いいのか、このままで。


 強敵に次ぐ強敵。

 魔力も大部分を消耗し、肉体に受けたダメージは計り知れない。

 更に言えば武装結界・螺旋を纏ってしまっている以上、転移が使えない。


 このままでは……このままでは。


(メフィル……お嬢様……)


 愛しい主人が。


 またしても手の届かない場所へと連れ去られてしまう。


 それを良し、とするのか。


(いやだ……いや、だ)


 それだけは。


(嫌だ……っ!!)


 全身に鞭を打つ。


(まだやれるだろう?)


 盗られても良いのか。

 彼女を。

 メフィルを。


「私、は……」


 カッと目を見開き、立ち上がる。


「僕、は……っ!!」


 どうしようもなく熱く震える意志が力となって沸き上がった。

 沸騰するかの如く燃え上がった闘志が全身に活力を与える。



 そうして心の中で――絶叫する己の声を聞いた。



「あぁぁぁぁああああああああああっっ!!」



 己の内に眠っていた何かが揺り動かされた感触を確かに感じる。


 そして。


 武装結界・螺旋を纏いしルノワールが、レオナルドの背後――馬車へと転移をした。




   ☆   ☆   ☆




 またしても。

 幽鬼のように追いついて来たルノワールに対して、さしものレオナルドも嗄れそうな声を洩らした。


「この……化け物、め……っ」


 馬車の帳を必死に掴んだルノワール。

 既に皇帝の揺り籠は先の衝撃で半壊状態だった。


 唸る力を必死に抑えつけつつ、彼女は言う。


 とうに限界は超えていたが、それでも、尚も。


「メフィル……お嬢様を……」


 瞳に滾るは、闘志。


「かえっ――」


 彼女は右手を伸ばし、メフィルに触れようとし――直後に馬車の上空から出現した獣に顔を押さえつけられた。


「ぐぅっ!?」


 凄まじい轟音が鳴り響く。

 馬車を貫通し、大地に押さえつけられたルノワール。

 彼女が反抗を試みる前に獣――ジョナサンはルノワールに対して全力の拳を叩きつけた。


「がっ」


 よろめいた隙を狙って、彼は焦った様にレオナルドに言う。


「レオナルド、出せ!」


 しかしレオナルドとしては、後顧の憂いを消しておきたい。


「ここでそいつに確実に息の根を……っ!」

「そんな暇は無い! もう一人の化け物が来る!!」


 彼の言う通り。

 レオナルドが馬車の背後に視線を向けると、世界を覆い尽くす程の紅の魔力光が見えた。

 それは凄まじい速度でこちらに向かってきている。

 間違いなくマリンダ=サザーランドだろう。


「まさか、ジョナサンお前でも、か……」

「決着は今度付けてやる! 今は目的を優先させろ!」


 彼の言葉にハッとした様子でレオナルドは叫ぶ。


「その通りだ……っ。キャシー!!」


 素早く馬車に乗り込むキャサリン。


「よし、出せ!」


 3人はかろうじて動く馬車に乗り付けると、即座に皇帝の揺り籠を最高速度で走らせた。


「おじょ……さま……」


 霞む瞳の先で、去って行く馬車が見える。

 どれだけ必死に力を込めても、もはや限界を迎えた全身は鉛のように重く、動かない。

 動かないのだ。


「おじょう……さま……っ」


 涙が滲む。

 何をしているのか。

 何故自分は主人を見送っているのか。


 惨めで無力な己が恨めしい。



 その時、馬車の中のメフィルと一瞬だけ――視線が交わったような気がした。



 既に魔法具は失われていたが、それでもルノワールは己の決意を伝える為に、必死に声と想いを吐き出した。



「必ず……っ!!」


 私は。


 僕は。


「必ずお助けに参ります……っ!! どうか、どうか待っていて下さい……っ!!」 



 ルノワールの声が聞こえた筈も無いのに――確かにメフィルは涙が溢れる瞳を瞬かせ、しっかりと頷いた。



「メフィル……お嬢様……」


 そんな主人の姿を見送り――ルノワールは意識を手放した。





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