第173話 抱えた秘密
「こちらをどうぞ」
ルノワールが荷物の中から水筒を取り出した。
丁寧な慣れた手付きで湯気の沸き立つ琥珀色の液体をカップに注いでいく。
ルノワールからカップを受け取った他の面々は、喉を通り抜ける温かな紅茶に頬を緩めた。
メフィルとユリシアが互いに顔を見合わせ微笑んでいる。
「さて、と」
マリンダはさっさと紅茶を飲み干し娘に尋ねた。
「何か食べる物は持っているか?」
「うーん、と。簡単な軽食と携帯非常食はあるかなぁ……今日一日くらいは大丈夫だと思うけど……」
マリンダに対しては気安い口調で答えながらルノワールはリュックの中身を確かめる。
「ふむ……だがそれだけじゃ寂しいな」
「あはは。マリンダは相変わらず食いしん坊ねぇ」
「ほっとけ、ユリシア。そもそもお前だって昔は大概だったぞ。運動が減ったから食が細くなったんじゃないか?」
「う……でも、今のわたしが貴女と同じくらい食べたら太っちゃうわ」
「なに。たまには大丈夫さ。よし、少しばかり待っていろ」
彼女は紅の髪を掻きあげ、首元辺りで纏めると、ゴムで結んだ。
「狩って来る」
颯爽と立ち上がったマリンダはそのまま小屋を出て行こうとした。
しかし思う所があったのか、彼女は振り返る。
「……メフィルは狩って来たばかりの動物を捌いたりするのは抵抗があるか?」
ユリシアとルノワールは野営にも慣れているが、メフィルはそうではない。
あまりこういった経験は無いだろう。
女性の中には狩った動物をそのまま食べることに対して抵抗感を抱く人も少なくない。
「い、いえ。大丈夫です」
「そうか」
「マリンダ。どうせなら皆で行きましょうよ」
一人でそそくさと行ってしまいそうなマリンダを呼び止め、ユリシアが提案した。
「いや荷物番は必要だろう。そもそも得体のしれない小屋が唐突に出現した訳だしな。何人かは残っていた方がいい」
「……それもそうね」
彼女の言い分にユリシアが頷く。
だが、マリンダは言い直した。
「まぁ……しかし、そうだな。久しぶりにユリシアと競うのも悪くは無い、か」
「え?」
「護衛の観点から考えると私とルノワールのどちらかは居た方が良い。子供達に留守番をお願いして、私達は狩りに行くか?」
昔を思い出すのか、楽しそうな表情でマリンダは言った。
「それは……」
ちらりとメフィルの様子を窺うユリシア。
母親の顔色を覗いたメフィルは笑顔で言う。
「ルノワールが居れば大丈夫ですよ、お母様。たまにはしっかり羽を伸ばして下さい」
「いいの? わたしだけ」
折角の休暇。
しかも唯一無二の親友と過ごす時間だ。
ユリシアだってマリンダと二人で話したい事も在るだろう。
「はい。大物を楽しみにしてます」
そんな事を言って微笑むメフィル。
思わず、ユリシアは最愛の娘のおでこに軽くキスをした。
「きゃっ」
「ふふっ。行って来るわね」
立ち上がったユリシアはマリンダと並び、外へと出て行く。
子供達に見送られた二人の淑女は暗闇の広がりつつある大自然の中で空気を胸一杯に吸い込み、腕を思い切り伸ばした。
「ふふっ。狩りなんて本当に久しぶりだわ」
「ふふん。昔はユリシアの方が上手だったが、今はそうはいかんぞ」
「あら? 遠距離魔術でわたしに勝つつもりなの?」
「私はまだまだ現役だからな。篭ってばかりのお前になど負けるか」
自信満々で言い切るマリンダ。
「じゃあ負けた方は罰ゲームね?」
「え?」
しかし続くユリシアの提案に思わず唸った。
嫌な記憶が蘇る。
単純な戦闘ではマリンダがユリシアに負けた事はほとんど無い。
だが、遠距離魔術においては無類の才を発揮するユリシアを相手に、若かりし頃に狩りで勝った事が一度でもあっただろうか。
(な、なに……ユリシアはずっと執務室に篭り切りだったしな……)
毎度毎度。
狩りで勝負をする度に罰ゲームを受けていた気がするが……。
「ふ、ふんっ。いいだろう、ユリシア。紅牙騎士団団長の力を見せてやる」
そう言った直後。
バシュッという音が鳴り響き、ユリシアの手の平から迸る蒼光。
天高く空を舞っていた山鳥に見事に突き刺さり、いとも容易く落ちてゆく。
「……」
「う~ん、と。多分キジの仲間でしょうねぇ」
そんな事を言いながら、今しがた仕留めたばかりの獲物へと駆け寄るユリシア。
(あの距離で、か……?)
心の中でマリンダは戦慄した。
既に日は落ちているのだ。
暗い山中であれだけ距離が離れていたにも関わらず一発で仕留め、しかも獲物の種類まで判別している。
魔術の技量もそうだが、視力が常人のそれではない。
「はい。これでわたしの先行ね」
軽やかな笑顔の中に、何か恐ろしい物を感じたマリンダは、慌てて駆け出した。
「ええいっ! まだまだこれからだ!」
☆ ☆ ☆
「では、私は調理の準備をしますね」
お嬢様にご迷惑をかけない様に気を付けつつ、可能な限り迅速に土魔術を駆使し、小さな穴のような空間を作り上げた。
「これは?」
「ここで火を起こします。ユリシア様とマリンダが何を獲って来てくれるのかは分かりませんが。今の内に準備だけはしておこうかな、と思いまして。温かいですし」
「はぁ……なるほど」
(あとは……)
竈を作り、寝台の用意をする。
マリンダの事だからきっと大物を獲って来てくれるだろう。
大きめの竈に火を付け、寝台の上にシーツを敷く。
「な、慣れているわね、ルノワール」
「あはは……旅をしていた時に学びました。お嬢様は野営の経験はございますか?」
「いえ……無いわね」
それもそうか。
メフィルお嬢様のような公爵家の御息女が野営などする筈も無い、か。
「でしたらご不便を掛ける事もあるかもしれませんね……粗相がありましたら、申し訳ありません」
普通の女子学生であれば、好き好んで野営などしないだろう。
折角の旅行なのだ。
彼女に少しでも不満を抱かせない様にしたい。
「もう。そんな事は気にしなくてもいいのよ。それにこういった事は初めてだからこそ……なんだか楽しいわ」
そう言うお嬢様は本当に楽しそうだった。
(あ、そうだ……)
僕は山中に腰掛けていたポシェットの中から木の実と葉っぱを取り出し、水で洗浄した。
その後、土魔術で小鉢と鉢を作り出し、木の実と葉っぱを放り込む。
「? それは?」
「こちらの赤い木の実がチッチの実、尖った形をしている葉っぱをミネの葉と言います。実は昼間の間にこっそりと集めておいたんです」
お嬢様に説明ししつつ、僕はゴリゴリとチッチの実とミネの葉をすり潰し始める。
「どちらも冬の山に生っている珍しい植物なんです。チッチの実は料理に使うと、とても良いスパイスになるんですよ。ただ……チッチの実だけでは癖が強く、そのままでは調味料としては使えません。ですがミネの葉をすり潰すと出て来る爽やかなエキスと混ぜ合わせる事で、とても良い風味が生まれます」
「さ、流石ね……そんなことまで知っているなんて」
「ふふ。料理は趣味ですので」
これも長年の旅の間に身に付いた知識である。
「貴女が居ればどこでも生きていけそうね」
「あはは。今までの人生が特殊でしたから。サバイバル知識は豊富かもしれませんね」
しばらく僕がゴリゴリと手元を動かしている間。
パチパチと鳴る火の音に耳を傾けていると、メフィルお嬢様が静かに口を開いた。
「ねぇ……ルノワール」
「何でしょうか?」
「貴女はさ……やっぱり、その、私が男の人が怖くなったから……護衛になってくれたのよね?」
「え……?」
それは突然の質問だった。
「私、ずっと強がっていたけれど……やっぱり若い男性が怖くなっていたから」
「……」
「護衛がルノワールだったのは……私と同じ女性だから、よね?」
どう答えるべきだろうか。
(僕は……)
僕は女性では無い。
彼女の為に僕は性別を偽った。
「そういった意図も有るでしょう。ですが」
「……うん。今では貴女程頼りになる護衛なんて考えられないわ。お母様が貴女を頼ったのも当然だと思う」
「そう仰って頂けるのは大変光栄なことです」
未だ至らぬ僕であっても彼女の頼りとなれるのならば……これほど嬉しい事も無い。
「でも、さ。最近は昔よりは平気になったと……自分では思うのよ」
「……そうですね。お嬢様はとても成長されました」
例え若い男性が相手でも、1年前と比較すれば、見違えるほどに恐怖が抑えられている。
クラスメイトであれば、普通に会話をすることだって出来るようになった。
着実に彼女の男性恐怖症は良い方向へと向かっている。
「もしもこのまま男性恐怖症が緩和されていったとして……そうなったら」
そうなったら――僕はどうするのだろうか。
「お母様みたいに……私もお見合いとかするのかな……」
(………………)
「へっ!?」
ちょ、へ、あ、いやっ、あの、お嬢様は、今なんて!?
「ちょちょちょっ!? ルノワール、手元が!」
「はっ!?」
余りにも勢いよく手を動かしていたらしく、気付けば、すり鉢の中身が溢れ出てしまっていた。
「え、その、そのお、お嬢様は、お見合いを為さりたい……のですか?」
や、やばいよ、どうしよう。
今の僕の声ってどうなっちゃってるの?
震えちゃっているの?
どど、どれくらい?
どれくらい震えちゃっているの??
「えっ……? あ、いや違うわよ? 別に結婚願望が有る訳でも無いし」
彼女は手を振りつつ意外そうな顔で言った。
「そ、そうなんですかぁ」
な、なんだ、そうか。
なんだかとっても安心した。
(そっかぁ)
そ、そうだよね!
まだ10代だし……急にそわそわしちゃったなぁもう。
「でも、10代も後半になったら、貴族は籍を入れたりするし……」
「……」
(この話……もう止めたいです)
「と、突然どうされたのですか、お嬢様?」
「あ、いや、その確認したい事があった、というか……」
「え?」
メフィルお嬢様は恥ずかしそうに、両手を重ね合わせていた。
「もしも……もしも、よ? 私の男性恐怖症が治っても……私が誰かと結婚したりしても――ルノワールは、私の従者で居てくれる?」
それって――。
(どう……なるんだろうか?)
彼女の男性恐怖症が治ったら?
僕が女性の姿でいる必要性はなくなるだろう。
彼女が誰かと結婚すれば――。
「……」
(結婚?)
メフィルお嬢様が?
誰か、僕の知らない、その男性と一緒に彼女が笑い合うのだろうか。
誰か、僕の知らない、その男性が彼女を抱きしめるのだろうか。
誰か、僕の知らない、その男性が彼女の唇を――。
「ルノワール?」
「……ぇ……ぁ」
彼女が誰かと結婚して。
僕は変わりなく、彼女に仕え続ける事が出来るのだろうか。
僕の目の前で、彼女が誰か僕の知らない男性と――。
「……」
(それって――)
今まで余り考えた事が無かった。
でもいざ思考を巡らせてみると。
想像するだけでも――胸が痛んだ。
(辛い、なぁ……)
彼女を騙し、こんな格好で仕えている身でありながら、一体何を僕は考えているのだろうか。
「あの、ルノワール?」
「へっ……あ、いや、そのもち、ろん」
震えない様に懸命に声を張り上げる。
「もちろん――」
それでも、貴女のお傍に――。
「いやぁ~っ! 大猟大猟! すごいわよ~!」
「おいこら、ユリシア、手を離すんじゃない!」
「あ、ごめんごめん」
「ったく」
「……罰ゲーム何にしようかなー」
「おい! 一番大きいのは私の獲物だぞ!」
「でも数ではわたしが勝ったし……」
「なら引き分けだ、引き分けっ」
「えぇー?」
賑やかに小屋へと帰って来たマリンダとユリシア様を迎え入れ、結局その日のお嬢様とのお話は途中で終わってしまった。
すぐに頭の中を切り替えたのか、メフィルお嬢様は小屋の中に運び込まれた獲物を目を丸くして見つめた。
「わっ! これお母様達が!?」
「そうよ~。早速ルノワールに調理してもらわなくちゃね」
「……ぁ。は、はい。すぐに準備します」
(メフィルお嬢様が――結婚したら……?)
僕は心の中に現れた不可思議な異物を必死に抑え込み、不格好な笑みを浮かべていた。
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