第171話 束の間の休息
「はい。皆グラスは持ったわね~?」
ユリシア様が満面の笑みを浮かべて言った。
ワイングラスを片手に、はしゃぎたくてうずうずしている様子は、本当に女学生のようである。
対する僕達屋敷の住人の表情も一様に明るかった。
「じゃあルノワールの回復を祝って……乾杯っ!」
彼女の音頭に合わせて全員がグラスを持ち上げた。
皆で唱和する。
「かんぱ~い!」
軽くグラス同士を打ち合わせる音が食堂内に鳴り響く中、ユリシア様は茶目っ気満載でこう言った。
「あっ! ついでに王国の一件が一通り区切りがついた事の祝いでもあるからね!」
僕は内心で後者の方が大事でしょう、と思ったが誰も気にした様子は無い。
冗談めかした彼女の口調に笑みを洩らしただけだ。
「ルノワール」
すぐ傍まで歩み寄って来て下さった主人の声。
彼女の声を聞くだけで、胸に温かな気持ちが込み上げる。
僕は自然と笑みが深まり、彼女に視線を向けた。
「乾杯」
微笑みと共にグラスを持ち上げるお嬢様。
僕も笑みを返し、二人してグラスを軽く打ちつけ合う。
「ルノワールが今日はいつも以上に頑張ってくれたから、一際豪勢よ~」
食卓に並ぶ料理を満足そうに見渡しながらユリシア様が告げる。
「わぁ~! さすがルノワールさんですっ! あ! ピザは熱々の内に食べないと!」
イリーさんが「いただきま~す」と元気よく口元にピザを運ぶ。
その時、ユリシア様が少しだけ慌てたように言った。
「あっ! でもピザは一つだけとっても辛いロシアンルーレット方式だから気をつけ……」
(またそんな悪戯を……)
ユリシア様は時々こういった悪戯を仕掛ける事があるので要注意だ。
そんな風に僕が内心で苦笑していると、途端に響き渡る泣き声。
「っ!!? ……う、うわぁ~んっ! おねえちゃ~んっ!」
(あぁ……イリーさんがハズレを……)
妹を見つめるアリーさんは早くも酔いが回っているらしく。
「あっはっは!」
「笑ってないで~っ!」
「うわ、ちょっ!? イリー大丈夫!? ごめんね、よりによって貴女が……」
「奥様の馬鹿~っ!」
「あぁあぁ。ごめんごめん、ほらお水」
何はともあれ。
久しぶりに屋敷の住人勢揃いの上での酒宴が始まった。
☆ ☆ ☆
「ま、マリンダ様っ!」
「ん? 君は確か……」
「い、一度だけお会いした事がございます! 屋敷のメイドをしております! エトナと言います!」
今にも敬礼をし始めるのではないか、というぐらい緊張した様子でエトナは言った。
「そうか、エトナか。私はマリンダだ」
対するマリンダも今日は普段よりも幾分か鋭い雰囲気は和らいでいる。
久しぶりに自分の子供や親友と酒を飲めるのが嬉しいのだ。
「じ、実は私、前からマリンダ様とお話してみたくて!」
エトナの隣に居たウェンディが苦笑しつつ言った。
「すいません、マリンダ様。この子、マリンダ様のファンなんです」
「ほぉ。そうなのか?」
「はい! 紅牙騎士団を率いる紅の髪を靡かせた最強の魔術師! その武勇伝は数知れず! 憧れています!」
瞳を輝かせながら語るエトナ。
そんな彼女の様子に、さしものマリンダも気分を良くした。
「ほぉほぉ! ならば私のメイドでもやってみるか?」
口角を吊り上げつつ、楽しそうに勧誘するマリンダ。
「ちょっとちょっと~! マリンダ、貴女わたしの家の使用人を引き抜くつもり~? って、エトナも結構乗り気な顔をしているわね!?」
「えっ!? い、いえいえそんな……大恩がある奥様を裏切るなんて、えへへ」
「エトナ、嬉しそうだなー」
ウェンディが呆れ交じりで肩を竦め、ユリシアはわざとらしく「がーん!!」と大声で喚きながらエトナに抱きついていた。
別のテーブルでは屋敷の凸凹姉妹が楽しそうに戯れている。
「よしよし、イリー。もう辛くないか?」
「もう~。お姉ちゃん、どうしたの?」
「いやぁ~。我が妹ながら可愛いな、と思って」
「もう。お姉ちゃん時々こうなるんだから」
「あっはっは!」
相変わらずの笑い上戸で妹を愛でるアリー。
彼女は愛おしそうにイリーの髪を撫でつけていた。
「最近はイリーも私に触れられるの嫌がるようになって来ちゃったなぁ……」
「そ、そんなことはないけど……」
「最近はルノワールさん、ルノワールさんって……ルノワールばっかり」
「そ、そんなことないけど!?」
そんな喧騒の中。
食堂に満ちる穏やかな雰囲気を楽しんでいるのは老夫婦も同様だった。
「今回も……何とか、乗り越えましたか」
ビロウガが目を細めつつ呟く。
ワインを一舐めした彼の言葉にシリーが頷いた。
「ええ。家族が無事だった事は……何よりも尊い事です」
ローゼス夫妻は残念ながら自分達の子供には恵まれなかった。
だが血など繋がっていなくとも。
彼らにとって屋敷の皆は間違いなく家族だ。
ユリシアに限らず屋敷の使用人達は娘、メフィルやイリーは孫のような存在である。
「ふふふ。奥様も立派ですが……メフィルお嬢様も立派になりましたね」
シリーが柔らかく微笑む。
「……最近は随分と明るくもなられた。もはやどこに出しても恥ずかしくない立派な淑女ですな」
「彼女のおかげでしょうか」
「全てがそうではないかもしれませんが……間違いなく一因ではあるでしょうな」
主従揃って談笑する二人を見つめながら、夫婦は続けた。
「いつか、お嬢様も誰かに嫁ぐ事になるのでしょうか」
シリーの言葉にビロウガが頷く。
「まぁそうでしょう。奥様に似て大変な器量良しですから、引く手数多でしょうな……心配ですか?」
「心配とは……少し違うかもしれません」
「では?」
「やはり寂しい……でしょうか」
「そう言えば……シリーは奥様の時も大層慌てていましたね」
楽しげに微笑むビロウガに拗ねたような語調でシリーが反目した。
「慌ててなどおりません」
「おや、そうでしたか?」
「貴方も良い歳ですから、記憶が曖昧なのでしょう」
普段は決して見せない態度。
冷静寡黙な侍従長の子供らしい言い分に思わずビロウガは微笑んだ。
「はっはっは」
人前では努めて冷静に振舞おうとする癖に、本当は感情が激しがちな妻。
昔から変わらぬ可愛らしい一面にビロウガは穏やかな心持ちになった。
シリーという女性は本当に……結婚した時から変わらない。
「なんですか。その表情は? 変な顔ですね」
彼女がこのような反応を見せるのは、間違いなく……この世で最も信頼する夫唯一人だろう。
「それは失礼」
冗談交じりにビロウガが言うと、まるで心情が全て見透かされたような感覚を覚えたシリーが頬を膨らませた。
「あらあら。楽しそうね、二人とも!」
それこそ楽しそうなユリシアがローゼス夫妻の元へとやって来た。
「奥様の方が御機嫌ですけどね~」
「なによ、オウカ。悪いの?」
「いいえ、全然。今日もお酒が美味しいですねぇ」
「そうねぇ」
そうして意味も無く笑い合うユリシアとオウカ。
その隣で肩を竦めるマリンダ。
「マリンダ様も。今回はお世話になりました」
ローゼス夫妻は揃って頭を下げた。
「以前にも言ったがな。この家の事で私に何かを感謝する必要はない」
目上の人間相手にも敬語を使うのがマリンダは苦手だ。
どこか謙虚な語調ではあったが、普段とは変わらぬ言葉使いで二人に返答した。
「ふふ、貴女も相変わらずですな」
「そういう貴方達二人も変わらない。いつまでも現役じゃないか」
「ええ。最近になって刺激を受ける新人がやって来たものですから」
冗談めかしたビロウガの言葉を受けたマリンダが尋ねる。
「……あの子は上手くやれているか?」
「ええ。こちらが驚くぐらいには」
「そうか……ならばいい」
安堵の表情を浮かべるマリンダに対してビロウガは言った。
「ふふ、貴女もすっかり母親、ですな」
「む……」
それほど長く共に居る訳ではないが、マリンダの事もユリシア同様に、ローゼス夫妻は昔から成長を見届けてきている。
「心配は御無用ですよ。ルノワールさんには我々の方が日々助けられております」
「ならばいいが……」
「ねぇねぇビロウガ! それにシリー!」
会話に割り込んで来たユリシアが快活に言った。
「貴方達! 旅行にでも行って来たらどう?」
それは余りにも唐突な提案。
会話に脈絡が無い辺り、やはり酔っているのだろう。
「旅行……ですか?」
「そうよ! 貴方達にも最近は忙しく働いてもらっていたし……たまには夫婦水入らずで過ごす時間が欲しいんじゃないかしら?」
しかし主人の提案に対してビロウガは緩やかに首を振った。
「忙しかったのは皆、一緒です。我々だけを特別扱いなさる事は無いかと」
その言葉に傍で控えていたシリーも僅かに頷いている。
「でも、貴方達は……」
「旅行へ行くならば、皆と。それに奥様の提案はそっくりそのまま返させて頂きたいと思います」
「えっ?」
意外な事を言われたと感じたのか、ユリシアは首を傾げた。
「奥様こそ。たまには親子水入らずで旅行などに出掛けられては如何でしょうか?」
優しい眼差し。
娘を諭すような口調でビロウガは言う。
「最近、このミストリア王国で最も忙しかったのは他ならぬ奥様でしょう。最も心身をすり減らしたのも、最も王国の維持に貢献されたのも貴女だ」
屋敷に居る使用人一同が、彼の言葉に頷いた。
ビロウガの言葉に間違いは無い。
ここにいる人々は誰もが知っている。
最近は心から笑う余裕も失い、方々を走り回り、日々懸命に戦っていた誇り高き主人の姿を。
「でも、わたしは……」
「もちろん王国には奥様でしか行えない事が数多くあります。貴女で無ければこなせない仕事も山ほどあるでしょう。ですが」
だけどそう……今ぐらいは。
王国を守り抜いた真の英雄に……少しぐらいは。
「僅かばかり……休息を取っても、誰も文句は言わないでしょう」
(親子水入らずで……旅行?)
考えてもいなかった事だ。
「……」
親代わりのローゼス夫妻の言葉に黙考するユリシア。
彼女はしばし何かを考えるように顎先に手を当てた後、周囲を見渡した。
すると誰もが優しい表情をしていた。
誰もが嬉しそうな顔で微笑んでくれていた。
(本当に……いいのかしら)
確かにビロウガの言う通り。
あれだけ大事に思っているというのに、最近メフィルと一緒に旅行に出掛けた事などあっただろうか。
母親として。
最近、娘の為に何かをしてあげた事などあっただろうか。
ユリシアはそんな事を考える。
そうして――己の娘に目を向ける。
「……ぁ」
そこにはどこか期待に満ちた表情をしている愛娘の姿が在った。
あからさまな態度に出す事こそ無いが、何かを求める様な視線を己に向ける娘。
その姿を見て。
「メフィル……一緒にどこかに出掛けましょうか?」
自然とそんな言葉がユリシアの口から漏れた。
母親の提案を聞いた娘は頬を上気させる。
「い、いいのでしょうか?」
それでもどこか遠慮を滲ませるメフィル。
彼女の思いは見え透いているが、それでも手放しで喜びを顕わにはしない。
そんな娘を見つめ……ユリシアは己を叱咤した。
(あぁ……わたしはいつもこうやって……この子の優しさに甘えていたのね)
メフィルは聡い少女だ。
それこそユリシア譲りと言ってもいいだろう。
だが、相手の心情を察し過ぎるが故に、どこか遠慮してしまう。
(我慢ばかり……させてしまっている)
無論、ユリシアに責があるものでもない。
彼女が忙しいのは、世界の状況に翻弄されているからだ。
「ふっ。親子揃って遠慮などしおって」
肩を竦ませてマリンダが横合いから言った。
「お前達はもう少し自分の心に素直になるべきだな」
「マリンダ……」
「家族が望んでいて、本人達も望んでいる。ならば何を迷う事がある?」
口の端を吊り上げて楽しそうに彼女は笑う。
「お前達二人は我儘を言っていいんだ。その権利が十分にある」
自信たっぷりにマリンダは胸を張った。
そんな親友の言葉に勇気をもらったユリシアは、そっと娘に歩み寄った。
「そうね……お母さん、頑張って時間を作るから。一緒に旅行に出掛けましょう」
娘を見下ろす眼差しは慈愛に満ちた優しいもの。
「は、はいっ!」
ユリシアの言葉にメフィルは満面の笑顔で答えた。
大好きな母との旅行。
断る理由など、どこにも無い。
幸せそうに微笑む親子を誰もが優しい表情で見守っていた。
「でも、どうせなら屋敷の皆で……」
そう言うユリシアであったが、ビロウガは尚も言った。
「いえ。たまには親子だけでも良いでしょう」
それに流石にファウグストス家を空にする訳にはいかない。
「でも……わたし達だけなんて」
「ならば、マリンダ様とルノワールさんのみは、お連れなさると良いでしょう」
ビロウガの提案の意図すること。
「本当に何一つ危機が無ければ、問題はありませんが……最近は物騒ですので」
現状の王国の事を踏まえればビロウガの言葉は無理も無い。
護衛役は、やはり居た方が良い。
ならば実力的にも、ファウグストス親子との仲の良さを考えても、サザーランド親子が適任だ。
この二人であれば、ユリシアもメフィルも決して遠慮などもしないだろう。
「ほぉ……そうだな、私達も最近は旅行などはしていないな」
さも良い事を聞いた、とばかりにマリンダが頷く。
「あはは。それどころじゃ無かったからね」
ビロウガの提案にサザーランド親子も二人して微笑み合っていた。
そんな親友二人に後押しされる様に。
「……よしっ!」
未だにお酒の影響で赤さの残る頬のままユリシアが快活に言った。
「じゃあ……4人で旅行に出掛けましょう!」
こうして、ファウグストス親子とサザーランド親子による家族旅行が計画された。
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