第9話 傷跡
(ん……あれ?)
気付いたら2時間経っていた。
(あ、あれれっ?)
なんということだろう。
何気なく店内の時計に目をやったら、なんと店内に入ってから既に2時間。
一体何が起きたのか。
時間を忘れるとはこのことだ。
ただ「この筆を使って」「この色を使って」「この画用紙のこの部分に……」「あれを描こう」「これはどうだろう」「うわぁ綺麗」「この色使いでこれとこれを混ぜて――」なんて考えていたら時間があっという間に過ぎてしまったのだ。
僕の驚愕の表情に気付いたのか、お嬢様も時計を見て、
「あら、もうこんな時間……」
と呟いた。
「じゃあそろそろ買って帰りましょうか」
「あ、はい」
あ、っと。
「わ、私がお会計を」
お嬢様の前に歩み出た僕だったけれど、軽く手を挙げた彼女に機先を制された。
「いいわよ、私がやるわ」
お嬢様は目当てとしていた筆や画用紙等を店主に屋敷まで届けてもらうように頼むと、テキパキと支払いを済ませて僕の元まですぐに帰ってきた。
貴族の子供達の中には自分で買い物などしたことがない、という人間も少なくはない。
しかし先ほどの手馴れた様子を見る限り、メフィルお嬢様に関してはそのようなことは無いようだ。
「行きましょうか」
「かしこまりました」
店を出たお嬢様は一度伸びをする様に大きく腕を掲げた。
「うぅ、ん。そうね……」
思案気味に一度呟き、
「少し休憩していきましょうか」
「は、はい」
帰り道とは別の道へと進んでいく。
僕が彼女の半歩後ろを付き従い歩いていると、楽しそうにお嬢様は口を開いた。
「ふふっ。随分と夢中になってたわね、ルノワール」
店内での事だろう。
恥ずかしながら全く否定する事が出来なかった。
「そ、そうですか?」
「えぇもう。子供みたいな顔だったわよ」
「うっ、す、すいません」
うわぁ、顔が熱い。
「別に謝ることじゃないでしょう? 貴女が本当に絵が好きなんだ、って分かってなんだか私も嬉しかったわよ。あぁ……初めて会った時の言葉は嘘じゃなかったんだろうな、って」
「う、嘘なんかじゃありませんっ」
あ、ちょっと声大きかったかも……。
恥じ入る僕に対して、目をパチクリさせるメフィルお嬢様。
「ふふっ。そう」
しかし尚もお嬢様は上機嫌だった。
そうだ。
僕は笑っていて。
彼女も笑っていて。
その時だった。
僕は自分の認識の甘さを思い知らされることになる。
「ふふっ。そうね、ありが――」
お嬢様のすぐ傍を一人の青年が通り過ぎた。
彼は害意を持って近くにいたわけでは決してない。
何気ない足取りで、ただ歩いていただけだ。
だから僕も特に注意を払ってはいなかった。
しかし。
「……っ!?」
お嬢様の反応は劇的だった。
彼女の身体がよろめく。
顔を引きつらせ、肩を震わし、あわや悲鳴を上げる寸前、といった様子だ。
勝気な顔は見る影もなく、彼女が怯えているのは明白だった。
「……ぇ」
僕は驚いた。
確かに若い男性が怖くなった、という話は聞いていた。
だけど彼女の普段の振る舞いは何かに怯えているような様子を微塵も感じさせないものだったから。
「……」
黙ってしまった僕の様子に勘づいたように、メフィルお嬢様は唇を噛んだ。
「……ぁ」
そして。
そんな姿を僕に見せたくなかったのだろう。
メフィルお嬢様はバツの悪そうな顔で俯いた。
気まずい沈黙が訪れる。
(……違う)
不明を恥じるのは僕の方だ。
護衛としての認識に不足があった。
怯えている様子を感じさせない?
馬鹿な。
ユリシア様も言っていたじゃないか。
メフィルお嬢様は強がっているのだと。
思えば店に来るまでの道中でも不意に歩く方向を転換している時があった。
あれは彼女が意図的に男性の近くに行くのを避けていたのだ。
僕は彼女のその行為に特に意識を払ったりはしなかった。
僕の役目は、ただ命を守ればいい、というわけではない。
そうであるならば、わざわざ女性の姿になる必要はない。
僕がこの姿で護衛を請け負ったのは、彼女の肉体・精神両面においてサポートするための筈だ。
自分のすぐ近くを歩いていた、というだけでも彼女にとって若い男性というのは恐怖の対象。
僕はその事実を深く自分の中に刻み込んだ。
そして――、
「お嬢様……」
僕はゆっくりと彼女の手のひらに自分の手を重ねた。
白く美しい、だけど小さな手のひらを出来る限り優しく包み込む。
「……」
何を言えばいいのかは分からなかった。
まだ出会ってから二日目なのだ。
僕はまだ彼女のことをよくは知らない。
彼女だって僕を完全に信用しているわけではない。
しかも。
罪悪感がある。
僕が本当は男であること。
彼女にとって本来ならば恐怖の対象である僕が、彼女の手を握るなど許される行為なのだろうか。
そのような葛藤もあり、僕はただ黙って彼女の手を握り続けることしか出来なかった。
だけど彼女のことを心配に思う気持ちは本物だ。
だから今は従者として。
女性として。
彼女を少しでも安心させてあげたい、と思った。
実際に彼女の手を握っていたのは数秒ほど。
「……ありがとう。もう大丈夫よ」
やがてお嬢様は静かに言った。
「いえ……」
気の利いた言葉を発せない自分が嫌になる。
今も彼女は強がっているのだ。
僕が支えになれたとは到底思えない。
だけど。
「ふふっ。気の利く護衛だわ」
強がりであってもメフィルお嬢様は笑顔を見せてくれた。
例えそれが画材屋にいた時とは違い、弱々しいものだったとしても。
きっと今の僕にはこれが精一杯なんだ。
「少し疲れたわね」
お嬢様は僕の手を解きながら、
「どこかで休憩していきましょう」
少しだけ元気を取り戻した様子で再び歩き始めた。
☆ ☆ ☆
あー、いけない。
ただ歩いていただけの人にあそこまで怯えてしまうとは自分が情けなかった。
無意識で反応してしまうのだから、重傷だろう。
私の強がりはたったこれだけのことで崩れ去ってしまうほどに脆い。
お母様にはとっくに見抜かれている。
だからこその護衛なのだろう。
ちらりと私に付き従う少女に目を向けた。
彼女はどこか心配そうな面差しで私を見ている。
その表情からは確かに私を気遣う心が見て取れた。
こんなつもりでは無かったのだけれど。
「ぁー」
本当に情けないなぁ。
苦笑混じりにそう呟いて。
私はこれ以上、己の従者に心配を掛けないように、努めて気分を切り替えて歩き出した。
☆ ☆ ☆
5分ほど歩いていただろうか。
うーん、適当にカフェでもあれば入ろうかと思っていたのだ……けれど。
それらしい店が見当たらない。
この辺はあんまりないのかしら。
正直な事を言えば、私もそんなに外出するわけじゃないから、アゲハの地理とかには別に詳しくないのだ。
「あ、あそこのパン屋さんはカフェテリアも兼ねているようですね」
うん?
ルノワールの言葉を受け私が視線を動かした先からは、なんとも香ばしい匂いが漂ってくる。
焼きたてのパンの匂いだ。
店名は『ハンス=ベーカリー』。
木製看板には可愛らしい自体でそう書かれていた。
「いい匂いね」
「はい」
あぁ、香ばしい匂いが私を誘っているようだ。
「よし、あそこに入りましょう」
私がそう言うと、ルノワールも恭しく返事をした。
「畏まりました」
店内には様々なパンが綺麗に並べられていた。
私達が店内に入るのと同時に、可愛らしい少女が給仕服を身に纏い、パンを片手に現れた。
「こちら、焼きたてになりますっ」
元気よくそう言いながら、パンを並べていく。
(へぇ、焼きたて)
どんなパンかしら?
「『りんごと紅茶のパン』ですか……」
ルノワールが呟く。
「……」
いや分かり易いのはいいのだけれど、もう少しこう、捻ったらどうなの? というネーミングだった。
あまりにもそのまま過ぎるんじゃないかしら。
私がそう思っていると、
「オススメですよっ!」
と、パンを運んできた少女が言った。
年齢は私と同じぐらいだろう。
彼女は首の後ろ辺りで長い髪をまとめ、眼鏡をかけていた。
利発そうな顔立ちをしており、瞳は美しい翡翠色だ。
胸元に付けた名札には可愛らしい字体で、『ニーナ』と書かれている。
愛嬌のある笑顔は人目を惹きつけるのだろう。現に今も何人かの男性客はパンではなく、彼女の姿を一生懸命追いかけていた。
若い男性が視界に入り、反射的に身構えた私だったが、すぐさま私の様子を察したルノワールが私を男性から隠すように立ちはだかった。
ごく自然に、というわけにはいかなかったが、それでも私の恐怖心が減じたことは確かだ。
(ふふ、まったく……)
内心で感謝しつつ、私は苦笑した。
ルノワールの誠実な気遣いが……嬉しかった。
「……じゃあこれにしようかしら」
その焼きたてパンを指差し私は尋ねる。
「あ、ルノワールも同じ物でいい?」
「えぇ、もちろんです」
返事と同時にルノワールはパンを二つトレイに載せ、カウンターへと持っていく。
「このパンと……それと紅茶を二つお願いします」
「畏まりました。店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「では席に御案内致しますので少々お待ちください」
やがて先ほどの眼鏡少女が私たちを席へと案内してくれる。
(へぇ、意外に中は広いのね)
店内の飲食スペースは外装から想像していたよりもかなり広かった。これなら一度に20名ほどの客をもてなすことが出来るだろう。
しかも調度品の類もパン屋のイメージにマッチしており、洒落た内装をしていた。
外看板も可愛らしい造りであったし、内装も中々良い。
おまけに給仕服を来た眼鏡少女は愛想よく、香ばしいパンの香りが食欲を刺激する。
これでパンも美味しければ文句なしだ。
案内された二人がけのテーブル。
ルノワールが素早く私のために椅子を引いた。
一言ありがとう、と言いながら腰を下ろす。
本来従者と主人が同じテーブルに座って食事をする、などということはありえない。
上流貴族、特に公爵家ともなれば尚更だ。
しかしファウグストス家では一般的な光景である。
常日頃からお母様は屋敷の皆は家族である、と言っており食事も時間の合う時は使用人達と一緒に取ることも多い。
他の貴族からすればおかしなことだと思われるのだろうが、私はお母様の考え方の方が好きだし、従者に対しても分け隔てなく愛情を注ぐお母様は娘の目から見ても素敵な女性だと思う。
ルノワールもその辺りは既に分かっている。
というか今日の昼食も皆で食べたし。
店内での飲食客のほとんどは女性だ。
1組だけ年配カップルの姿があったが、他に男性の姿はない。
その事実に少しだけホッとする私がいた。
まぁ男性が店内で食べるには少しだけ可愛らしすぎるのだろう。
若いカップルがいないことが幸いだった。
対面に座ったルノワールは店内を見渡しながら言う。
「素敵なお店ですね」
微笑むルノワールに対して私も頷いた。
「そうね。いいセンスをしてると思うわ」
「パン屋さんですらこれですからね。さすがは芸術の都です」
感心した様子のルノワール。
「へぇ。他の街は違うの?」
私が尋ねるとルノワールは不思議そうな顔をした。
「他、ですか?」
「いえ……私ってアゲハ以外の街をほとんど知らないから」
何度か旅行で別の街へ行った経験はあるけれど、基本的に私はアゲハの外に出ない。
外の世界に興味はあるが、そうそう身勝手な行動は許されないのだ。
「貴女は色々な場所へ行っているの?」
「そう……ですね。私はそもそもミストリア王国の生まれではありませんので」
「あら……そうなの?」
と、私が聞いたところで、あの眼鏡の少女が笑顔で紅茶を持ってきた。
こちらへと歩いてくる足取りはどこか慌て気味である。
店の混雑具合を考えればさもありなん。よほど忙しいのだろう。
しかしそこで――店内にいたまだ幼い少年が彼女の前を横切るようにして走りこんできた。
「え……っ?」
呆けたような声を上げて彼女が少年を見る。
少年が彼女にぶつかる。
彼女が体勢を大きく崩し転ぶ。
手に持っているトレイの上には淹れたばかりであろう紅茶のポットと、カップが二つ。
トレイが宙に飛んでいき、そして――、
――そこで全ての動きが停止した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます