第5話 公爵家の娘

 

「……ふぅ」


 今日で14日目である。

 一体何が14日目なのかと言えば、外出を禁じられてからの日数が、だ。

 それはもう溜息の一つや二つは出てしまうのも仕方がないだろう。

 私、メフィル=ファウグストスが素性の知れない男の襲撃を受けてから14日目でもある。


 あの事件以来、私の外出は禁じられていた。


「……」


 元々私は活発に外出する質ではない。

 一人で家に籠り絵を描いている時間の方が好きだ。

 思うままに筆を滑らしているだけで心が落ち着き、名状しがたい快さに包まれる。


(けど、今は……)


 恐らく、制限されている、という事実に例えようのない窮屈さを感じてしまっているのだろう。

 屋敷内であれば自由に行動できたが、結界の外に出ることは決して許されなかった。


 母のそんな対処に不満があるわけではない。

 得体の知れない人間に襲われ、しかもその際に罪の無い市民が目の前で命を落とし、ウェンディも重傷を負っているのだ。



 あの時の光景を思い出すと未だに――。



 カラン、と音が鳴った。


「……っ!」


 ハッとする。

 気付けば手から筆が滑り落ちていた。

 握力の無くなった寂しい手の平。

 私はコロコロと床を転がっていく筆を静かに眺めていた。

 

(いけない)


 落としてしまった筆を拾い、椅子に腰掛けた私は再びキャンパスと向かい合う。


 でも。


「……」


 視線が定まらない。

 指先が動かない。

 紙のどこに注視するべきか。

 どんな線を描けばいいのか。


 いや、そもそも。


「……っ」


 一体何を……描こうとしているのか。

 何を表現したいのか。

 どんな思いを込めたいのか。


 それらが何一つ……分からなかった。


 イメージが想起出来ない。

 目まぐるしく巡る頭の中で蠢いているのは不愉快な感覚だけだった。

 指先の微かな震えが筆に伝わり、紙を擦る音だけが虚しく響く。

 

 不甲斐ない自分に言い知れない苛立ちを覚えた。


「……はぁ」


 また溜息。


(……あの時)


 あの時は運良く男を撃退することが出来たが、そんな幸運が何度も続くものではないだろうことは私にも理解出来ていた。

 自分で言うのもなんだけれど……私には魔術の才能がある、と思う。


 しかし現段階での私の実力はあくまでも同年代では際立っている、というだけで熟練の魔術師と比較すれば赤子のようなものだろう。

 自分のすぐ傍に本物の実力者(お母様やビロウガやシリー)がいるからこそ実感出来る。

 彼女達のような存在が居る事で、私は増長することなく今まで生きてきた。


「……」


 ただ絵を描いた。

 ここ数日はひたすらに絵を描き続けた。

 何かから逃げるように。

 何かを忘れるように。

 何かをぶつけるように。


 無心になんて――なれる訳が無いのに。


 そんな気持ちでいるからだろう。


「はぁ……」


 全く良い絵が描けなかった。


「……なによ」


 机の上に散らばる途中描きでやめてしまった絵の数々が、何やら私を哀れんでいるような気さえした。

 思わず視線を逸らして天井を見上げる。

 

「……」


 別に私は絵を描いて、絵で生きていこうと考えている訳ではない。

 そんなことは許されない。


 お父様は私の幼少期に若くして亡くなっている。

 お母様は父以外の人と一緒になる気は無いそうなので、今後も私以外の子供がファウグストス家に生まれることはないだろう。

 公爵家の一人娘、すなわち次期当主である。

 国内でも最大級の発言力、資産、歴史を持つ由緒正しきミストリア王国公爵家ファウグストス。

 そんな家の当主が絵にばかりかまけてはいられない。

 

 お母様の趣味のように、魔法薬研究であれば、ある程度は融通を効かせてもらえるだろう。

 なにせ母の研究はそのまま国のためになることだから。


 しかし絵はそうではない。

 無論この国には芸術に対する理解が息づいてはいるが、公務と引き換えにしてよいものではない。

 というかお母様だって普段は毎日忙しくあちこち足を運んでいるのだ。


 絵を描くことは好きだ。

 生き甲斐だと言ってもいい。

 

 でも。


 絵に生涯を捧げることは出来ない。


「絵はただの暇つぶし……」

 

 あぁいけない。

 こんな今更な思考で心がかき乱されている。

 心身共に疲労が溜まっている証拠だろう。

 

「……ふぅ」


 今日何度目になるかわからない溜息が漏れた時。

 コンコン、と控えめに扉がノックされた。

 私はパレットの上にそっと筆を置き、生返事と共に振り向きながら視線を扉へと向けた。


「あ」


 まず部屋に入ってきたのはお母様だった。

 とても私のような年頃の子供を産んでいるとは思えないほどに若々しく美しい母が穏やかに微笑んでいる。


「お帰りなさい、お母様」

「はい、ただいま」


 この時ばかりは私も自然な笑顔を作ることが出来た。

 私はお母様が好きだ。

 お父様が亡くなった後も、私を十分に愛してくれていたし、何よりも国のために毎日を費やす姿を尊敬している。

 忙しく、あまり私のために時間を割いてはくれないけれど、それは仕方のないことだ。寂しくなかったといえば嘘になってしまうけれど、シリー達が私の面倒を見てくれていたから平気だった。

 そんなお母様に久しぶりに会えたことで、私の心の中の暗雲が少しだけ晴れた気がした。


「お邪魔だったかしら?」


 まさか。

 お母様を邪魔になど思う訳がない。


「もう今日は終わろうと思っていたところだから大丈夫です」

「そう」


 お母様は日頃から笑顔を浮かべることが多いけれど、今日の微笑みはなんだか格別だった。 

 随分と機嫌がいいみたい。

 何か良い事があったのだろうか。


「ほらほらっ、入って」


 私が訝しげに思っていると、お母様が部屋の外に向かって手招きをした。


「し、失礼致します」


 おずおずと入ってきたのは一人の少女だった。

 その子はそわそわと落ち着かない様子で室内に足を踏み入れると、小さく声を漏らした。


「う、うわっ……す、すごい……」


 まるで何かに感激したかのように上気した頬で彼女は視線をチラチラと動かし、しかしやがて自分の行動が失礼だと思い至ったのか更に顔を赤くした。


(……誰?)


 というか。


 すごい美少女だ。


 腰まで届きそうなほど長く艶やかな黒髪。

 瞳は大きく、目元はくっきりとしており、しなやかに伸びた手足はすらりと細い。かといってひ弱なイメージは受けない、どころか全身には若々しい覇気が漲っているようにすら感じられた。

 胸もほどよく育っており、全体のバランスが非常に整っている。

 顔の造形にしろ、上半身と下半身のバランスにしろ、白く美しい肌にしろ。


 大変失礼かもしれないが……一目見た時に私が思ったことは、「この子をモデルに絵を描きたいな」だった。

 それぐらい綺麗な子だった。

 唯一不満があるとすれば、見飽きたファウグストス家のメイド服を着ていることぐらいだろうか。

 

 黒髪美少女は澄んだ声音で言った。


「は、初めまして。ルノワール=サザーランドと申します。ユリシア奥様よりお嬢様の身辺警護を承りました」


 感じの良い微笑みと共に彼女は挨拶を口にすると丁寧に低頭した。

 まぁ緊張のためか顔は赤かったけれど。


「……あなたが?」


 いけない。

 ちょっと険が入った言い方だったかもしれない。


 身辺警護。

 つまりは私のボディガード、ということだろう。

 私に新しい護衛を付けることはお母様より聞いていた。

 その旨に関しては納得もしている。


 自分の周囲に人が常に侍っているのは、決して愉快なことではないが致し方ないことでもある。

 お母様ほどの圧倒的な戦闘力があるならば話は別だろうが、公爵家という立場を考えれば当然の処置であるし、そもそも先日襲われたばかりなのだから、優秀な護衛を付けるというお母様の考えには賛同もした。


 護衛などいらない! と突っぱねたい気持ちが無いわけではない。

 しかしそんな我侭が許されないこともわかっているし、そこまで幼稚な姿をお母様には見せたくはなかった。

 だから後任の護衛が決まるまでは外出禁止、という言葉に大人しく従っていた……のだけれど。

 

 事件の時に私に侍っていた使用人であるウェンディも戦闘の心得はあった。

 ファウグストス家の中ではローゼス夫妻に次ぐ魔術師であり、事件の時には身を挺して私を守ろうとしてくれた。

 そもそも彼女がいたからこそ私だって隙をついて撃退出来たのだ。

 ウェンディは一度は王宮の近衛騎士団へスカウトされたほどの人物だった。


 でも、目の前の少女は……。


 どう見ても私とそう変わらない年齢に見えた。

 彼女の実力を知らない以上、訝しげな表情をしてしまってもしょうがないと思う。


(……いけない)

 

 しかし私はすぐに頭を切り替えた。

 お母様が屋敷まで招き、この部屋へ連れてきたということは、目の前の少女が護衛を務める、というのは決定事項なのだろうから。

 ファウグストス家の長女として恥ずかしくない振る舞いをしなくてはいけない。


「私の名前はメフィルよ。よろしくねルノワール」

「はっ、はいっ! 宜しくお願いします!」


 私が微笑むと彼女もまた笑顔で言った。

 しかしなんというか。

 どこかぎこちない。


「……?」

「このお方が……」


(え~……っと?)


 ど、どうしたのだろうか。

 なんかこの子すごい目が輝いているのだけど。

 まるで憧れの人に出会ったような瞳で私を見ている。


(え、なに?)


 初対面だと思うんだけど……。


 そんな私の戸惑いに気付いたのかもしれない。

 お母様が可笑しそうに言った。


「実は先に貴女の絵をルノワールに見せたのよ」

 

 絵というと、私の画廊へと案内したということだろうか。

 別にそれ自体は構わないのだけど。


 それが一体?


「ルノワールも絵を描くのよ」

「は、はぁ」


 その言葉を聞いて曖昧に頷きつつ私がルノワールの顔を伺うと、



「感動致しました!」



 すごい勢いで言われた。

 もうあれだ、すっごい目がキラッキラしている。

 気付けば美しい顔がすぐ傍にあった。


「あっ、も、もうしわけありません。ちょっと興奮してしまって……」

「い、いや別にいいけど」


 な、なんか調子狂うわね。

 

「でも本当に素晴らしいと思いました! あれだけの数の絵を……それも技法が統一されているわけではなく、多種多様な風景や人物を、見事に表現していて……繊細な線だけで描かれた丘に薄らと見える雨雲の様子とそれを見上げる少年の儚い横顔が私の心に切ない寂寥感を呼び起こして! かと思えば! たったの5色の絵具だけで濃さと勢いを絶妙な配分で振り分けることで凄まじい躍動感を覚える絵画を描かれたり! どれもこれも心に訴え掛ける作品ばかりで……あれだけ多彩な絵画を生み出せるというのはすごいことだと思いますっ」


 顔を赤らめながら真っ直ぐに私を見つめるルノワール。

 彼女は鼻息荒く楽しそうに、私の絵を褒め称えた。


「……そ、そう?」


 あんまりな勢いに少しだけ引き気味だったけど。


「ふ、ふーん」


 正直悪い気はしなかった。


 なにせこの家の人間は皆アゲハで暮らしているにもかかわらず芸術に疎い。

 私のことを上手だ、と評することはあっても、具体的な感想というものは中々聞けないのだ。

 「素晴らしいです」「上手いです」「綺麗です」とは言ってくれるが、どこが? と聞くと「えーと……」という返事が返ってくる。


(まぁ……)


 別に屋敷の皆に私の趣味や価値観を押し付けるつもりはないので不満はない。

 だけどこう、自分の描いたものを、こんな風に評価してくれるというのは、やはり嬉しいものだ。


 それに目の前の少女が私の覚えを良くしようとして嘘を言っているようにはとても見えなかった。

 この輝く瞳を見れば、一目瞭然だ。

 彼女はどうやら本当に私の絵に感動してくれたらしい。


「ととっ、ところで一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「なに?」

「この部屋はその……もしかしてメフィルお嬢様のアトリエでしょうか?」


 そう言ってルノワールは部屋を見渡した。

 

 複数のキャンパス、大小様々な用紙、無数の鉛筆と絵具が部屋を囲むようにして棚にしまわれている。

 何段にも渡って綺麗に整頓されており、私が扱いやすいように道具は配置されていた。

 この部屋はまさに絵を描くために存在している。

 日光は入らずに、天井に貼り付けられた魔石の光だけが室内を明るく照らしているのだ。


 そして何よりも。

 この部屋は絵の香りに満ちていた。


「そうだけど……」

「ですよねですよねっ。す、すごいなぁ……こんな立派な……憧れます……」


 きょろきょろと視線を動かす目の前の少女を呆気にとられた顔で私が見ていると。

 ついに堪え切れなくなったのか、お母様が声を上げて笑い出した。


「ふふっ、あははっ。とりあえず貴女が屋敷を気に入ってくれたみたいでよかったわ、ルノワール」


 その言葉を受け、ルノワールは流石に恐縮したのか、先ほどよりもさらに顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。


「あ、う……も、申し訳ありません……」


 しゅん、と小さくなるルノワール。

 その仕草はどこか小動物を思い起こさせる。

 彼女は私の様子を窺うように上目遣いで私を見上げた。


(この子……)

 

 い、いちいち反応が可愛いわね。


「重ねて、も、申し訳ありません……」

「いいわよ別に。基本的に貴女はメフィルを護ってくれさえすればいいんだから」


 そう言いつつルノワールの肩にそっと手を置いたお母様はとても優しい表情をしていた。

 まるで家族に接するかのような態度である。


 それを見て私は意外に思った。

 身内の人間以外にこのような表情を見せることは本当に少ないのだけど……。

 

「さて。二人の顔合わせも済んだことだし……今日はもう遅いからこの辺りにしましょうか。詳しいことはまた明日以降にね。ルノワールの部屋に案内するわ」

「か、かしこまりました」


 そう言いながらアトリエを出ていこうとする二人。

 しかし部屋の扉を開ける前に振り返ってお母様が言った。


「あ、そうそう。明日からはルノワールと一緒になら外出してもいいわよ。ごめんね、窮屈な思いさせちゃって」


 申し訳なさそうに言うお母様。

 私は慌てて手を振った。


「い、いえそんな……」

「メフィルも早く寝なさいね」

「は、はい」


 おやすみなさい、と声をかけお母様が出て行く。

 そしてお母様に付き従うような形で出ていこうとするルノワールも丁寧に低頭して「おやすみなさいませ、メフィルお嬢様」と言った。


「……おやすみなさい」


 私も返事をして二人を見送る。

 扉が静かに閉じ、アトリエには私だけが残った。


「……あの子が護衛」


 可愛らしくて、性格が良さそうだな、とは思う。

 とはいえ本当に彼女に務まるのだろうか。

 ウェンディのような目にあってしまったら……私はどうすればいいのだろう。


「……」


 何気なく視線を下げる。

 右手の甲に青い絵の具が少しだけついていた。


(むぅ)


 さて、と。


「んぅ……ぅ~んっ!」


 大きく伸びをする。


 兎にも角にも状況は分かった。

 まだ余り整理しきれてはいないけれど。


「……」


 無言でキャンパスを見下ろし、ついで二人が出て行った扉を見つめた。


 とりあえず。


「……お風呂入ろ」


 呟き、部屋の外へと向かう。

 今日はもう夜も遅い。

 細かいことは明日考えよう。


「……ぁ」


 そっか。

 私は外出出来るようになったのだ。


 それならば。

 

「……そうだ」


 なんだか随分と久しぶりに……私はこう思った。



 明日は画材を買いに行こう。





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