第4話 絵画
屋敷の廊下を歩いていると、ふと何を思ったのかユリシア様が足を止めた。
彼女は振り返り、僕を見ながら小首を傾げて「う~ん」と呟いている。
人差し指を顎先に当てて眉根を寄せる仕草は、まるで少女のようで非常に若々しかった。
そして。
「うん、そうだ」
さも楽しそうに彼女は言った。
何やら良い事を思い付いた様子である。
「ルノワール、メフィルに会う前にいいもの見せてあげるわ」
悪戯っ子のような微笑みを浮かべるユリシア様。
なんだかとっても機嫌が良さそうだった。
「はぁ……よいもの、ですか?」
イマイチピンと来ないけど……なんだろう。
(いいもの……いいもの?)
う~むむむ。
考えてみても分からない。
小さく首を傾げながら、更に歩を進めると、大きな扉が目に入ってきた。
一階廊下の最北に位置するその部屋の扉は異様に大きい。いや本当に大きいよ、この扉。
なにせ縦横ともに3メートル近い大扉だ。
一体何の部屋なのだろうか。
(何かとっておきの財宝が眠っている、とか?)
そんな子供のような馬鹿げた妄想をしていると、再び目の前の貴人が振り返った。
「ふふっ」
ユリシア様の笑みは一層深くなっている。
そしてニヤニヤと頬を緩めながら僕を手招きした。
「開けてみて♪」
彼女は一児の母とは到底思えぬ可愛らしい口調で言った。
う、ううん。
本当に楽しそうだなぁ、この人。
「……うぅ」
ユリシア様のとってもとっても楽しそうな表情に一抹の不安を覚える僕だったが、止むを得ず、渋々扉に手をかけた。
多少の不安と、それと同量の期待を抱きながら。
鍵の類は掛けられておらず、ゆっくりと開いていく。
とりわけ何か罠がありそうな(あってたまるか!)気配もない。
「……よし」
ええい、ままよ!
僕は思い切って扉を開け放ち部屋へと足を踏み入れた。
次の瞬間――、
「………………」
――僕は言葉を失った。
「ふふっ、すごいでしょう?」
ユリシア様の声も耳に入らない。
僕の足は自然と動き、部屋の中を歩き出した。
今僕は……どんな表情をしているのだろうか。
よくわからないけれど、多分目と口は大きく開かれているんじゃないか。
もしかしたら呼吸も忘れているかもしれない。
だってそれぐらい――、
「――すごい」
そう、思わず呟いた。
「……」
すごい。
すごかった。
すごいとしか言い様がない。
屋敷の内装とは別種の、幻想的な世界。
この部屋に『それ』が在った。
僕の視界を埋め尽くしている物。
それは無数の『絵画』だった。
室内は回廊のようになっており、その壁の至る所に絵画が飾ってある。
絵の大きさは様々だ。
描かれた物も景色も生き物も様々。
手のひらサイズの紙に描かれたものから、高さ2メートル近い巨大な額縁に入れられているものまで。
なるほど、部屋の扉があれほど大きかったのは、この絵画を部屋へと持ち運ぶ時に不便のないようにするためなのだろう。
「すごいです……」
そして一体どうしたものだろうか。
その膨大な数もさるものながら、一枚一枚の絵の素晴らしさときたら。
繊細なタッチで描かれた優しい陽だまりの景色。
大胆な筆使いで勢いよく表現された獅子の狩猟姿。
自然界には決して存在しないであろう幾何学的模様を記した神秘的な建築物。
丁寧な線の描き方、調和のとれた色使い、珠玉の表現力によって描かれた心に呼びかける作品だった。
絵画に統一性はない。
しかしそのどれもが素晴らしい才覚の持ち主の手による作品であることに疑いない逸品ぞろいである。
僕は無意識の内に絵画の一つに近付き、陶然と、その絵画を見上げた。
「わぁ……」
技術だけではない。
見る人に感動を呼び起こさせる、何か。
魂に問いかける、何か。
理屈では語ることのできない『それ』が確かにあった。
「実はここにある絵は全部メフィルが描いたのよ」
自慢げに言うユリシア様。
「な……っ」
その言葉を聞いた僕は大きな衝撃を受けた。
「こ、ここにある絵画全て……ですか?」
「ええ、そうよ」
「……」
開いた口が塞がらない。
今の僕はそれはそれは間抜けな顔をしていることだろう。
メフィルお嬢様はまだ僕と同じ歳のはず。つまりは15歳だ。
15歳……15歳の少女がこれだけ素晴らしい絵を描いたというのか?
ここにある絵画を全て?
もしも事実であるとすれば、それはまさしく。
「天才……ですね」
意識せずにそう呟いていた。
そう評することに些かの躊躇いもない。
ここに在る絵画は僕に鮮烈な印象を植え付けていた。
「これだけの……すごい」
そっと撫でる様に壁に指を這わせながら、僕は一つの絵画の前に立ち、その絵を見つめた。
「……」
『絵』は僕にとって少し特別な存在だ。
マリンダに拾われるまで、おおよそまともな人生を送ってこなかった僕の心を唯一癒してくれた芸術という未知なる世界……それは僕の心に大きな衝撃をもたらした変革の象徴でもある。
生まれて初めて絵画を目にしたとき。
涙が頬を伝っていったことを僕は今でも鮮明に覚えている。
あの時の記憶は、これからの生涯でも忘れることはないだろう。
芸術は生きるためには必要ではない。
しかし人間として。
より良く生きるためには、そういった感動をもたらす『何か』が必要なのだ。
王宮で暮らしていた際に宮廷画家であるサーストン=ビルモ様の描いた絵に魂が震える程に感動し、僅かではあるが手ほどきを受けたこともある。
以来、絵を見るだけではなく、絵を描くことも僕の趣味になった。
暇を見つけては様々な絵を描いてきたものである。
しかし僕の過去最高の出来栄えの絵であっても、メフィルお嬢様の描いた絵の足元にも及ばないだろう。
それぐらい歴然とした才覚の差を感じていた。
「……綺麗な色使い」
ビルモ様がよく口にしていたことがある。
真に優れた人間が生み出した『何か』に触れたとき、人が示す反応は2種類だ、と。
歴史的に快挙な記録を樹立する魔術師。
聞く人全ての心を魅了するオペラ歌手。
見る人の心を奪い、感動をもたらす芸術家。
人々を導くカリスマ溢れる指導者。
そういった優れた才覚に対する反応は2種類。
すなわち感動し尊敬の念を抱くか。
はたまた恐怖し嫌悪するか。
今の僕は間違いなく前者だ。
会ったこともないメフィルという名の天才芸術家に対して、既に堪えようのないほどの畏敬の念を抱いている。
「じゃ、メフィルに会いに行きましょうか」
しばらくするとユリシア様がそう言った。
彼女はそれ以上は何も言わずにローゼス夫妻を引き連れて部屋を出ていこうとする。
僕はまだまだこの部屋に留まっていたい衝動に駆られたが、いつまでも僕一人でここにいる訳にはいかない。
「ビロウガ達はもう戻ってもいいわよ。後はわたしがルノワールを連れて行くから」
「畏まりました」
去っていくローゼス夫妻に僕が頭を下げると、彼らも微笑んで軽く会釈を返してくれた。
「…………」
「……ほら、ルノワール」
「あっ……も、申し訳ありませんっ」
うぅ、後ろ髪が引かれる。
猛烈に振り向きたい。
回廊の絵を僕はまだ全部見ていないのだ。
あの美しい世界に没頭していたい。
「ふふっ。気に入ったかしら?」
はい! と元気よく返事をする前にユリシア様が言った。
「まぁ顔見ればわかるけど」
「うっ」
今の僕はどんな顔をしているのだろうか。
もしかしたら興奮で赤く染まっているのかもしれない。
うぅ、ちょっと恥ずかしい。
「別に明日からも自由にあの回廊には入っていいわよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。メフィルも別に気にしてないし、鍵もかけてないし」
「う、嬉しいですっ」
うわぁ、それは本当に嬉しい。
明日も行こう、そうしよう。
あぁ、でも僕はここにはお嬢様の護衛としてやってきた身なのに。
自分の欲を優先してしまってもいいのだろうか。
いやよくない……と思うけど時間が作れたら見に行こうかな。
うん、そうしよう。
僕がそんなことを考えていたら。
「ふふふっ」
楽しそうに。
ニヤニヤとした笑みを浮かべているユリシア様と目が合った。
「あっはっは。楽しそうね~、貴女」
どうやら僕も彼女同様に楽しそうな表情を浮かべていたらしい。
それはそうだろう。
あのような素晴らしい部屋を見せられてしまえば、どうしたって心は躍ってしまう。
上機嫌なユリシア様についていきながら僕は考えていた。
果たして彼女は何のために僕をこの部屋へと案内したんだろうか。
「……」
まだ全ての絵を見たわけではないが、少なくともメフィルお嬢様が天賦の才を持っていることは僕にも十分過ぎる程に分かる。
それを理解して欲しかったのかな?
(何のために?)
僕が絵が好きだと知っていたから、護衛に対するモチベーションを上げさせたかったのだろうか?
それとも僕に素晴らしい絵画を見せて喜ばせたかったのだろうか?
はたまた自分の娘はこんなに美しい絵画を生み出すことが出来るのだと自慢したかったのだろうか?
(う~ん……全部、かな?)
なんてことを考えていたら。
「あの子は昔から絵を描くのが好きでね」
まるで僕の心の中を察したかのように、ユリシア様は口を開いた。
「公爵家という立場上、いろんな芸術に触れてきたっていうのもあるでしょうし、わたしがあまりかまってあげられなかったから一人で没頭出来る趣味を見つけたかったというのもあるでしょう。王都アゲハにいる以上は画材道具に困ることもないし、幸いにもメフィルには才能もあったしね」
微笑みながら「だけどね」と彼女は続けた。
「あの子ほど絵画が好きな子も、理解が示せる子もわたしの屋敷にはいないのよね」
「そうなんですか?」
「ええ。芸術の都って言ってもみんながみんな芸術を嗜んでいるわけではないでしょう? だからルノワールみたいな子が来るのは、あの子にとっても嬉しいことのはずだわ」
「そう……だと嬉しいですね」
先ほどの絵を見ていただけで僕の心臓はドキドキしてしまっている。
もしも僕の存在でメフィルお嬢様に喜んでいただけるのならば、それはなんというか……とても素敵なことのような気がする。
そ、そうか。
よくよく考えたら。
メフィルお嬢様はあんな素晴らしい作品を描ける方なんだ……あ、いけない緊張してきたかも。
「……そ、粗相のないようにしないと」
あ、あれれ?
なんだか急に天上人のような気がしてきてしまったぞ。
いや元々公爵家の淑女と言えば、それはそれは大層な貴人ではある。
しかし今の僕は爵位とは関係なく、メフィルお嬢様に会うことに対して緊張感を抱いてしまっていた。
「ん? 緊張してるの?」
「え、えぇまぁ」
「盗賊団の集団にすら怖気付かなかったのに?」
「それとこれとは話が別ですよ」
「普通は逆だと思うけどねぇ」
苦笑するユリシア様とそんなことを話しながら歩いていると、やがて地下へと通じる階段が見えてきた。
どうやらこの先にメフィルお嬢様がいらっしゃるらしい。
(……よし)
いよいよ対面することになる。
親友の娘、公爵家の長女。
そして僕が仕えることになる主。
メフィル=ファウグストスお嬢様に。
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