その十六

 その店の主人はアレックスという本名かどうか怪しい名前の持ち主で、昔は通り名で呼ばれていた筋金入りのワルだった。

 支払いの良い仕事場と支払いの悪い契約主を得意としていて、前者のほうはあまり数が多くなかったため、主に後者の対応で名をはせていた。

 ところがどうしたことか、今では酒場のカウンターの中に納まって、そこから出てこようとしない。

 強制的に取り立てたもので悠々と暮らせるからだと言われていたが、事実そうだったとすればレインタウンの場末に蟄居する意味が分からない。

 レインタウン七不思議の一つである。


 *


 そんなアレックスには、苦手なものが二つある。

 一つはしっかりとした形を持たないもので、これはとある仕事で、とある失敗をしたために、とある組織に、とある虫が充満した小部屋に閉じ込められたことに起因している。

 その組織は、後日アレックスが自身の手で壊滅させたが、一度染み付いた嫌悪感は拭い去ることが出来なかった。

 もう一つのほうは、そんなシリアスな逸話つきではなかったが、余計に厄介である。

 しかも、その日はそれが明らかに不味い表情を浮かべて、店の中に入ってきた。

 その姿を見るなり、アレックスは小さく溜息をついて、封がされたままのゴリドヴァ産スリー・ノックダウンを棚から取り出す。

 その際、残念ながらその日は在庫が三本しかないことに気がついて、アレックスは舌打ちした。足りるかどうか微妙なところだ。

 アレックスが苦手な客――マリアがボトルの封を切る。

 それと同時に、店内には妙な緊張が走った。

 奥のテーブル席に座っていた客達がマリアの姿を見るなり、自分の身体のあちらこちらに手を伸ばし始め、テーブルの上には男達が取り出した器具が並ぶ。

 ――まったく馬鹿者どもが。

 アレックスは眉をひそめるものの、これが店の売り上げに多大な貢献をしている事実を忘れない。

「お待たせしました」

 落ち着いた低い声とともに、アレックスはマリアの目の前にグラスを置く。

 マリアは無言で頭を下げると、そのグラスにスリーノックダウンをなみなみと注ぎ込む。

 そして、店内にいた他の客が固唾を呑む中、グラスを一気に傾けた。

 グラスの中身は吸い込まれるように、マリアの咽喉に落ちてゆく。

 マリアは空になったグラスをテーブルの上に置くと、再びなみなみとスリー・ノックダウンを注ぎ込む。

 それをまた一気に傾ける。

 注ぐ。

 通常ならばそれが五度、リピート再生のように繰り返されるので、アレックスはそれを黙って見つめた。

 因みに、スリー・ノックダウンの基本単位は「本」ではなく、「杯」である。

「あまりの濃度に、三杯飲んだらすべてが吹き飛ぶ」

 という意味だ。

 それをマリアは水のように飲み干してゆく。

 それに連れて、店内には次第に男達の欲望が充満してゆく。

 五杯目が空になった。

 ――来る!

 そして、店内から雑音が消えた。

 アレックスは聴覚の感度を最低レベルまで押さえ込んで身構える。

 ただし、彼は別に機能拡張されているわけではないので、これは職業上身に着けた技能スキルに過ぎない。

 マリアは大きく息を吐くと、言った。


「……もぉう、お兄ちゃんの馬鹿ぁ! お兄ちゃんのことなんかぁ、知らないんだからぁぁ!!」


 極上のシュガーボイス。

 天然素材による脳内汚染。

 合法麻薬。

 この際呼び方はどうでもよいのだが、この声は脳を直撃する。

 強化機能の絞込みを忘れていたらしい男が意識を失い倒れ、周囲の控えめな舌打ちと共に静かに店外へと運び出された。

 この瞬間の雑音はご法度である。

 彼はこの店の流儀を、忘れることが出来なくなるぐらいに身体に叩き込まれることになるだろう。

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