その十

 そこで、

「いや、もう大丈夫だよ。ウェンディ」

 と、柱の上で仰向けに寝そべっていたアンリが、面倒臭そうな声でウェンディに告げる。

 ウェンディとマリアは、アンリが見つめている方向を目で追い、デッドラインの上から男がコンクリートの斜面を滑り降りてくるのを見つけた。


 途端にマリアの顔は喜びに輝き、周囲にいた有象無象の顔は失望で曇る。


 男は大きすぎる上着のポケットに両手を差し込んだままの状態で、ブーツの側面に貼り付けた金属部品を使って滑走していた。最短距離を矢のように進む男の後方には火花が散っている。

 レインタウン生まれの悪餓鬼であれば誰でも習得済みの基本技だったが、彼のそれは極めて安定していた。僅かなコンクリートの段差を柔らかく足で吸収しているから、上体はすんなり伸びて危な気ない。

 雪の上を橇で滑るような滑らかさでデッドラインの端に到達した男は、無骨なブーツのラバーソールでブレーキをかけた。甲高い音と共にゴムが摩擦熱で蒸発し、微かに煙を上げる。

「サトル――またミリアムばあちゃんに叱られるよ――物は大切に扱えってさあ――」

 ヘンリが大きな声でそう言うと、サトルは右手を挙げて答える。

「上からマリアの泣きそうな顔が見えたんで、大急ぎで帰ってきた」

 その言葉にマリアの顔が更に綻び、周囲にいた男達と柱の上のアンリの盛大な舌打ちが響き渡る。

 険悪な雰囲気の中、身長百四十九センチのサトルは、身長百九十五センチのマリアに近づいた。

「遅くなってご免。追加の依頼を受けたので片付けてきた」

 サトルがそう謝罪すると、マリアはサトルの脇の下に掌を差し込んで、そのまま持ち上げた。

 その状態でサトルをぐるぐると回転させると、どこかに怪我をしたところはないか身体全体をチェックする。これはいつものことなので、サトルはされるがままになっていた。

 それから、最後にマリアは自分の顔をサトルの身体に近づけると、くんくんと匂いを嗅ぎ始める。

 そして納得したように笑顔を浮かべると、大切なぬいぐるみを抱えた女の子のようにサトルを横抱きにして、そのまま門から中へと入っていった。

 ちなみに関係者はこれを「お兄様抱っこ」と呼んでいるが、マリアのあまりの喜びように、周囲の男達から再び舌打ちが怒涛のように湧き上がった。

「まったく、馬鹿ばっかり」

 アンリはうんざりしたようにそう呟いて、柱から飛び降りる。

「人のことは言えないよね」

 そう言って、ヘンリが後を追うように柱から飛び降りる。

 その着地点に向かってアンリは右腕を振った。

 陽光を反射して煌く物体が一つ。

 落下途上にあるヘンリは避けることが出来ない。

 しかし、彼は着地と同時に無造作に右腕を振って、その物体を払い除けた。石造りの柱に鋭利な刃物が突き刺さる。

「口の軽い男は嫌われるわよ」

 アンリが押し殺した声で呟く。

「危ないなあ、刺さったら痛いだろ」

 ヘンリが楽しそうな声でそう言う。

 その直後、彼は後方に身体を回転させた。

 それまで彼がいた空間を、弾丸が切り裂く。

 それは刃物と同じように柱を穿った。

 弾道を逆に辿ってゆくと、建物の正面玄関に立つ六十歳を超えていそうな女性に行き着く。彼女は拳銃をヘンリに向けて、笑っていた。

「ヘンリ、何度申し上げたらお分かり頂けるのかしら。外ではシスター・ミリアムとお呼びなさい。さもなければ、これから何も語れないように致しますわよ」

「はあい、わっかりましたあ、シスター・ミリアム」

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