第二話 クリフォード・D・シマック 『中継ステーション』 (早川文庫版、船戸牧子訳)

 私の家には昔から使っている大きな本棚がある。それは本当に大きなもので、リビングの片側の壁全面を覆い尽くすほどの高さと幅がある。

 しかも、父の仕事で転勤することもある私の家は、基本が賃貸マンション住まいである。だから、本棚の場所だけ床の上に圧力分散のための板が置かれている、という念の入れようだった。

 この本棚は、父と母が新婚の時に初めて購入した家具だそうで、

「家具売り場にやってきた、どう見ても新婚さんにしか見えない二人組が声を揃えて、『この店にある一番大きい本棚が欲しいんですが』と言ったものだから、店員さんが目を白黒させていたんだよ」

 と、今でも母は楽しそうに話す。

 そして、私の家にはこの本棚に関連した掟がある。それは「この本棚に入る量の本しか、家には本を置かない」という掟だった。独身の頃から共に本好きだった両親が、収拾がつかなくなることを恐れて締結した、二人の重要な約束事だ。


「でもさ、お父さんの本って、本棚に入っていないんじゃないの」 

 自分の本は自分で管理する、決して他の人が勝手に整理してはいけない。そういう掟もあるので、私は私の本しか基本的に触らない。

 別に読むことや移動させることは禁止されていないものの、何だか触れにくいのが正直なところで、私も勝手に場所を変えられると気分が良くない。だから、本屋の書棚以上に親の本をまじまじと見たことはなかった。

 母親が大事にしている本は分かる。『赤毛のアン』全巻揃いで、これは私も読んだことがある。源氏物語の田辺聖子訳も借りて読んだ。そのぐらいは知っている。

 しかし、父の本がどれなのかは分からなかった。

「お父さんの本は一冊しかないからね」

 母はゆっくりとお茶を飲みながら言った。

「他の本は貴方が生まれる前、絵本全集を購入する時に思い切って捨ててしまったのだけれど、その本だけはどうしても手放さなかったのよ。最後まで悩んでいたけどね」

 今の父は図書館派で、土曜日の午前中には必ず足を運んでいる。そして、制限冊数まで経済書やノンフィクションを借りては、それを通勤の合間に読破していた。

 寡黙で、あまり感情を表に出さないが、頭が固くて一度言い出したら決して曲げない。だから、小難しい本や実用書を持っているところは、とても父に似合っている。

 実用的で質実剛健で、可愛げがなくて融通が利かない、そういう人だと思っていた。

 従って、どうしても父が手放さなかった本というのも、そちら方面の実用的な本だと思っていたのだが、

「ほら、あの左の一番上の棚にあるやつ。あれだよ」

 といって母親が指し示した本を見て、私はちょっと驚いた。

 大判の本に隠れてよく見えないが、あの特徴的な空色と白の背表紙からして、明らかに早川文庫である。

「えっ、SF?」

「そう」

「お母さん、読んだことあるの?」

「あるよ」

 私はまじまじと母の顔を見つめたが、母は済ました表情になって何も言おうとはしなかった。

 私は溜息をつくと、本棚の左の一番上に近付いた。片隅にひっそりと置かれた父の本を手にとって見る。

 表紙には何処かの田舎の風景を背景として、女の子が水晶玉を持って笑っている絵が描かれており、タイトルは『中継ステーション』、作者はクリフォード・D・シマックとあった。

「なんだか全然SFぽくないんだけど」

 私は母に言ったが、母はやはり何も言わなかった。ただ、背中がなんとなく笑っているような気がする。

 私は盛大に溜息をついた。


 *


 この『中継ステーション』という作品は、とても静かなものだった。

 事件が最後のほうで起こるものの、それ以外は兆し程度のものでしかなく、基本的には一人の男性の淡々とした生活が描かれている。

 ただ、秀逸なのはその男性が「銀河系を行き交う旅行者達のための中継ステーションの管理人」という点だ。

 旅行者は他のステーションから思念だけの状態でやってくる。地球にあるステーションで実体化して、暫く滞在した後に再び思念化されて旅立ってゆく。残されるのは彼らの死体で、その処分も管理人の仕事に含まれていた。

 私は正直、

「本体は別になくても良いの? それで本人だって考えてよいの?」

 という、自我同一性の問題が気になってしまい、なかなか物語の本筋に入れなかった。

 しかし、そこを横に置いて読みすすめていくと、いつの間にかアメリカの片田舎の静かな生活が目の前に現れてくる。いつも同じ行動をする男。時折やってくる郵便配達人。これでもかと出てくる植物の名前。

 知らないはずの世界が身近に思えてくるのだ。

 

 *


 その日、夜の九時過ぎに帰宅した父は、私が父の本を読んでいるのを見て、少しだけ目を細めた。

「読んだのか」

「うん。これで三周目」

「……そうか」

 そのまま父は寝室へと向かう。

 私は母のほうを見て、

「今のなによ。少しぐらい驚いてもいいんじゃないの? それか、『おお、読んでくれたのか。それはだな』とか、語りだしてもいいんじゃないの」

 と盛大に不満を漏らしてしまった。

 母は父の晩御飯を準備しながら、くすくす笑っている。

「あなた、お父さんがそんなことするって、本当に思っていたの」

「いや、その、予想通りの反応だったので、むしろ拍子抜けした」

「だよね。ところで、お父さんって、まるでその本の中の男の人みたいだと思わない?」

「あ」

 私はいままでその点に気がついていなかったので、ちょっと驚く。

 母は缶ビールをテーブルの上に置きながら、私に向かってこう言った。

「お父さん、それを本棚に戻す時に『申し訳ないんだが、生まれてくる娘がどんな状態でも何かの贈り物を持っているはずだと思いたいので、この小説は置いておいても構わないかな。何かあったら助けたいとも思うし』って、凄く真剣な顔をして言ったんだよね」

 私はその言葉に驚いた。

 この小説のヒロインは決して幸せとは言えなかったから、余計に驚いた。

 父が「それでも構わない。俺が守る」と思っていたのだと知って、とても驚いた。

 父の、その実用的でも質実剛健でもない、可愛らしくて優しい一面に、ひどく驚いた。


 そこに、父がやってきて黙って椅子に座る。

 その耳はビールを飲む前から真っ赤になっており、

 私の顔もそれに負けないくらい真っ赤になっていた。


「さて、お互いに言いたいことがあるならはっきり言いなさい。うちに水晶球がないことぐらい、ちゃんと分かっているわよね」

 母はそう言うと、思い切り缶ビールのプルトップを引いた。


( 終わり )

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