この本はこう使いたい。

阿井上夫

第一話 ヘルマン・ヘッセ 『春の嵐』 (新潮文庫版、高橋健二訳)

「いつかやってみたいと思っていたことではあるんだけれど、実際にやったからといってどうにかなるわけじゃないね」

 周囲の人に聴こえないほどの小さな声でそう言うと、目の前を覆っている男の人は苦笑した。

 平日の通勤時間帯、東急田園都市線の渋谷方面行き。

 溝の口を出た時点で既に殺人的な混雑具合になっている。

 その車内で、私は電車のドアに完全に背中を預けており、目の前の男性はその私に向かって左手を突き出していた。私の目の高さに男の人の胸がある。

 いわゆる「壁ドン」――というやつだと思う。

 だと思う、と極めて弱気なのは、これが満員電車で、他の乗客に押された結果、不可抗力として生じた状態であるからで、前に立つ男性が意図してそうしたわけではない。

 むしろ、女子高校生相手にそんなことになっている点を、目の前の男の人はひどく気にしていた。

 私も、

 ――これは満員電車だからしょうがない。

 そう思っている。

 それは良くわかっている。

 でも、男の人が大切そうに胸に抱えている文庫本から、目を離すことが出来なくなっていた。

 新潮文庫の中でも特徴的な空色のブックカバー、白いドイツ語の文字が全面を飾っている。

 ヘルマン・ヘッセの著作に使われている、新潮社の専用デザイン。

 しかも、本のタイトルは『春の嵐』だ。

 男の人も私の視線の方向に気がついたらしい。

「あれ、今どきの子が読む本じゃないと思っていたんだが」

 と、さらに困ったような顔をした。

 若干皺のよったスーツと微かな汗の香り。

 恐らくは街中にある理髪店で一ヶ月以上前に整えたであろうぼさぼさの髪の毛に、大きなセルフレームの眼鏡。

 年齢は二十代の後半から三十歳ぐらいだろう。

 ただ、瞳がとても綺麗な人だった。

 電車の窓から差し込む朝日で、色素の薄い虹彩がきゅっとすぼめられており、それが眼鏡の奥で興味深そうに輝いている。

 そんなに楽な人生ばかり送ってきたはずじゃないのは、外見からひしひし伝わってくるのに、それが瞳に影響を与えていない。

 ――どうしたらこうなるんだろう。

 そんなことを考えながら、相手の瞳をじっと見つめていたことに気がついた私は、赤くなってしまった。

「あの、ごめんなさい。大変失礼しました」

「いえいえどういたしまして」

 壁ドン状態の会話とは思えない、のんびりしたやりとりである。

 そこで電車が駅につき、反対側のドアが開く。

 殆ど人が降りることはなく、逆に人口密度がさらに高まる。

 男の人の左腕が少しだけたわみ、そして僅かに伸びる。

 全ての圧力をそこで吸収したらしい。

 ――私を守る左腕。

 そんなことを考えて余計に赤くなる。

「あの、あの、大変ですよね。本当にすみません」

「いえいえどういたしまして」

 そんなに大丈夫ではないはずの男性は、それでも相変わらずのんびりとした笑顔を私に向けた。

 距離が先ほどよりも縮まったために、彼の本が私の視線の目の前にある。

 それは、あちこちがセロファンテープで修繕されており、そのセロファンテープの変色具合から、相当な年代物であることが分かった。

 それでも殆ど型崩れを起こしていないことから、丁寧に扱われていることも分かる。

「すごく大切になさっているんですね」

 私は思わずそう口にしてしまったが、口に手を当てたくても手が動かせない。

 男の人はくすりと笑うと言った。

「貴方と同じぐらい、高校生の時からのお付き合いです。買い換えたほうが良いとは思うんですが、こうなるともう愛着どころの騒ぎではないので」

「そうなんですか。私はそこまでではないんですけど、読んだことはあります」

 実はこれは噓だ。

 既に五回は読んでいたけれど、なんだか気恥ずかしくて口に出せなかった。

 男性は綺麗な瞳を細めると、なんだか懐かしそうな顔になってから、静かな声で言った。

「貴方はハインリヒ・ムオトをどう思いましたか?」

 電車内で見ず知らずの女子高生に言ってよい台詞ではない。

 ないのだが、それを敢えてやる点と、主人公でもヒロインでもなく、あえてハインリヒ・ムオトを指名で訊ねるあたり、既に私が相当なヘッセ読みだとばれている。

 それはそうだろう。

 そうでなければ文庫本を凝視したりしない。

 私は少し息を吸い込むと、あまり気負わないように注意して言った。

「可哀想な人、だと思いました」

 男の人の瞳が半月状に笑う。

「それはなかなか珍しい感想ですね。普通は嫌いになるか、主人公よりは積極的で良いという評価だと思いますが」

「私も最初はそう思ったんですが――」

 最初は……もうこれは駄目だと思い、私は覚悟を決める。

「読めば読むほど、ムオトの苦しみがなんとなく分かるようになりました。歌手としての才能があり、容姿に恵まれ、美しい妻を得たところで、彼はそれ以上のことをどうやって実現すればよいのか分からなくなってしまったんだと思います」

 男性が静かに頷いたので、私は話を続ける。

「それから、最初はゲルトルートが可哀想だと思っていたんですが、途中でそれが変わってしまいました。どうしてあんなに聡明な彼女が、何も出来ずにいたんだろうって思ってしまいました。そこだけが今も分かりません」

「そうですね。それは多分――」

 男の人は視線を窓の外に向ける。

 しかし、別に何かを見ているわけではなかった。

「――聡明だからこそ、愛情が深かったからこそ、彼の誇りに口が出せなかったんじゃないかな」

 その言葉が私の胸にすとんと落ちる。

「ああ、そう、ですね。そうかもしれませんね」

「少しは助けになりましたか」

「少しは助けになりましたとも」

 私と男の人は、お互いに秘密を共有するように笑った。

 そこで東急田園都市線は渋谷駅に到着する。

 私は降りなければならないし、身振りからすると男の人もそうなのだろう。

 反対側のドアが開く。

 今度は電車内に大きな波が沸き起こる。

 私は男の人の背中を見つめながら、人波を掻き分けて車外に出る。

 そして、そのまま立ち去ろうとする男性の背中に向かって、

「あの」

 と声をかけた。

 男の人が驚いたような顔で振り向く。

 雑踏の中で私の声だとすぐに認識してくれたことが、何故かとても嬉しい。

「有り難うございます。いろいろと楽しかったです。それから――」

 私は思い切って言った。『春の嵐』の主人公のようにタイミングは逃したくなかった。


「貴方の瞳の中は、まだ空いていますか?」


( 終わり )

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