時ちゃんと運命の一日――前半戦――
第3話時ちゃんと運命の一日――前半戦――1
時ちゃんと運命の一日――前半戦――1
ガララッ。どこかで勢いよく窓を開ける音が聞こえた。
「おはよー! こーちゃんー! いまそっちにいくからねー!」
朝は一番大嫌い。納豆と梅干より大嫌い。キライキライ。
別に二度寝したいから起きれないとか、低血圧で機嫌悪いとか、朝七時になるといっつも窓を開ける音がするからとか、そんなことは気にしていない、と思う。
ただ今日も一日が始まって、勉強やら遊びを頑張らなきゃいけないことに億劫なんだ。学生って大変なの。
だから私はベットから体を起こせなかった。日曜日はおやすみだとわかってるのか気力が沸いてこなくて、起きることを諦めた。起きる代わりに枕の裏に潜り込ませた絵本を手に取った。
本を読むことにしよ。朝の読書は脳を活性化させるらしいし、本は寝ながらでも読むことができる。絵本ならなおさら絵だけを眺めていても飽きはしない。
とかなんとか考えながら絵を眺めていたら、廊下から小さな話し声が聞こえ始めて、お母さんの声が私の名前を呼ぶ。
「倉莉ー! 時子ちゃんが遊びに来てるわよー!」
「…………」
ほんとにきた。時々、時ちゃんは早く起きることがある。目を覚ましたらすぐ私のお家に遊びに来る習性があるんだ。
お母さんが私を呼ぶけれど起きる気は毛頭ない。だってまだ時ちゃんと会いたくないし。まだ七時だし。あの時ちゃんだし。
「倉莉ー? ……あら、あの子まだ寝てるみたい」
そうだよ。私寝てるの。時ちゃんじゃあね。
「うーんそうですか。仕方ないですよね、お休みの日なのにお邪魔しちゃってすいません」
「そんなことないわよ。だって時子ちゃんは遊ぶ約束したのよね?」
「はいっ! 明日は二人っきりって指きりしたんですっ!」
したっけ? 指きりの約束はしてないけど二人とは言った気もしなくもない。
「あの、お母さまに差し支えがなければこーちゃんにサプライズでお邪魔しててもいいですか?」
「ええいいわよ。さ、あがっていって。倉莉も時ちゃんがいたらびっくりするだろうから」
と、なぜか上機嫌になるお母さんと時ちゃんの会話を一通り聞いた私は、
「……帰れよ」
それとは正反対の寝起きの低い気分で呟いて、仕方なく起き上がった。
そこは私が起きたら時ちゃんのお家に電話をかけて改めて遊ぶことにするとかあるでしょ? まぁお願いを断れない性格のお人好しなお母さんだから仕方ないけど。
イライラしながら着替える。でもパジャマでいいやとも思う。時ちゃんに会うために着る私服などもったいなくて着られない。
一応鏡で全体を見て恥ずかしいところがないかチェックする。うすいピンクに細かいフリルが付いたかわいらしいパジャマ。確かお父さんが選んで買ったものだけどなかなかいいセンスをしている。それを着たまま廊下に出て階段を下り始める。
どうせ時ちゃんは宿題をしに来たんだろう。それが終わればもうサヨナラだ。
のそー、と忍び足で誰にも気づかれないように居間をこっそり覗き込むと、時ちゃんの頭が見えた。ニュース番組を流しているテレビの前に、テーブルをはさんで置かれた大きなソファで横になっているのを確認する。ソファのひじ掛けに持参してきたのだろうモノクロ色、ダイヤ柄をしたどこかのブランド物のトートバッグを枕にしたその姿は、なんとも遠慮のない様だ。
そしてフライパンで油の弾ける音。台所からはお母さんの気配がする。
別に時ちゃんを驚かそうとしているわけじゃないが、先ほど、お母さんと時ちゃんの会話によれば私を驚かそうとしてたみたいだから、こうやって驚かさせないようにこっそり起きてきた訳だが、
「すぅすぅ……」
このバカ寝てやがる。
ソファに横になった時ちゃんは、私がベットから起きてここまで来るのに五分とかからなかったはずなのに、かわいい寝息を立ててすっかり熟睡していた。
その服装は、縁が紺色で白色を基調の色とした大人のシャツみたいな丈のワンピース、真ん中には大きなハートのロゴが描かれていて、体の下には真っ赤な生地のかわいらしいスカート、丈はミニで見せつけているとしか思えない感じでチラ見しているパンツは大人みたいに真っ黒、細かいししゅうもあり高価に見える。
こんな下着(インナー)どうやって手に入れたんだろう、しかも普通に着ているなんてすごい大胆だ。私はまだシマシマのかわいいものでいいけど。
もう、このまま寝かせておこうか。うんそうしよう。起きてたら面倒。
「あら? 倉莉起きてたの?」
「うん。時ちゃん来たみたいだから」
「起きてたんなら返事くらいしなさいよね、じゃあご飯食べるでしょ? 今用意するからまっててね」
お母さんは位置的に、ソファの背に隠れている時ちゃんが寝てるのに気付かずに台所に戻っていった。あれ? じゃあ油がはじける音は誰の分を作ってたんだろう?
私は時ちゃんの枕代わりになっているトートバッグを見る。さらにその下には私のお気に入りのクッションが下敷きになっていた。今度から時ちゃんが来そうだったらクッションを隠す必要があるかもしれない。めんどくさいけど……
ちょうどトートバックの取っ手がソファのひじ掛けから垂れていたので、テーブルクロス引きみたいに勢いよく引き抜いた。時ちゃんの綺麗で天使の輪が現れている髪が激しく散らかる。
「やんっ……耳ははんそくだよぅ……すぅすぅ……」
それでも時ちゃんは幸せそうな顔をして寝言を呟き、よだれを垂らして――!
サッと間一髪。時ちゃんの垂らしたよだれを拭き上げ、そのまま口内にティッシュペーパーを突っ込む。もう少しでお気に入りのクッションによだれが垂れそうだった。でもこうすれば安心だよね。
憎たらしく寝息を立てて気持ちよさそうに時ちゃんが寝ているソファを背に座り込み、奪ったトートバックの中身を確認する。
別に中のものを泥棒しようとかそんなことは考えていない。この中に宿題があればそれを勝手に終わらせて、とっとと時ちゃんを用なしにして帰らせるためだ。
今日はお母さんに絵本を読みきかえしてもらう予定なんだ。邪魔はされたくない。
ごそごそ。案の定、中身は宿題と筆記用具が出てきた。あとは……写真? が出てきた。
その写真には小さい頃の私と時ちゃんが映っていた。桜の花びらが散らばって、背景には今通っている小学校の校門があり、笑った私と時ちゃんの顔がある。右にいる私と左にいる時ちゃんはピースをして仲良く肩をくっつけて写真の大部分を支配していた。
とてもじゃないけどまるで私じゃないみたいだ、と感じる。私にもこんな時代があったのねうふふ、と大人みたいなことを思い耽りながら、その写真をトートバッグに戻した。どうしてこんな写真を持ち歩いてるんだろう?
「あれ? あの事件ってこの後だっけ?」
ふと、時ちゃんの親がなくなった事故を思い出す。でもあの頃の私はとても小さくて、当時のことはあんまり記憶にないんだ。今私が不思議に思ってるのは時ちゃんと一緒に写真なんか撮ったっけってこと。写真があるなら撮ったのは間違いないんだろうけど。
それからは、テーブルに時ちゃんの宿題(漢字と算数のドリルがあったが)算数ドリルを広げると問題を解いていった。時ちゃんの算数ドリルはところどころに落書きが多く、つい気になってそれを読んでしまう。読書癖というのだろうか。
(大すきだよ時ちゃんずっと一緒にいてね)と右に薄い髪の女の子。
(ありがとねでもずっと一緒なんて無理だよ)と左に黒髪の女の子。
そこに描かれた女の子は、顔はでかいけど体はちっちゃい。黒髪の女の子と薄い黒で髪を斜線で塗りつぶした女の子、たぶん茶色か栗色を表してるんだろうと思う。これくらいの情報量ではこの女の子たちが誰なのかは私には分からない。
いつも向かい合っていて、頬に線やら丸が付け加えられている二人の頭の上にはいつも吹き出しがあった。いつもいつもいつまでも、ページをめくるたびにそれは続いていた。絵本みたいで面白いけど内容が不気味だった、五十点。
(無理じゃないよ明日だってあさってだっていつも一緒だよ)
(うんありがとねうれしいでもわたしは無理だと思うずっと一緒なんてぜったい無理)
算数ドリルの空欄に、赤ペンで答えを書いて自己採点を装う。こうすれば、私が介入して後で手伝ったと言っても嘘じゃなくなる。時ちゃんは自力で解いたことにはならないけどね。
私は次のページへ進んだ。宿題の範囲はそこまでだ。これ以上めくる必要はない。
(じゃあどうすれば一緒でいられるのか教えてよ時ちゃん)
(たすけて)
結構前のページに戻って算数ドリルの時ちゃんの答えを見ると、たくさんの式が書かれていて三角形の内側の角度の合計がどうして百八十度になるのか理解できずに悩んでいたみたいだと分かる。
いつの間にか私は先生みたいになっていた。というか先生は時ちゃんの算数ドリルの落書きを見たときどんな気持ちなんだろうか?
(教えってって、教えてっていってるのが聞こえないの?)
(たすけてたすけてたすけてよ、いっぱいたすけて)
「ご飯ができたわよー」
パタン。算数ドリルをすぐ閉じた。
お母さんの呼び声に反応してつい体が強張り、声の方向を見やる。そこにお母さんはいない。まるで、いままで見られてはいけないやましいことをしていた気分だ。
「……ご飯ー? たべるぅーすやすや……」
「帰れよ……」
時ちゃんに聞かれないように小声でぼやき、台所に急いだ。朝ご飯の時間だ。
「あら、時子ちゃんは?」
「勉強してる」
「あらあらじゃあ呼ばなきゃ」
お母さんが時ちゃんを呼ぼうとする。私はお母さんのエプロンの裾を握って呼び止めた。
「なんで呼ぶの?」
「だって時子ちゃん朝ごはん食べてないっていってたもの、食べる? って聞いたらいただきますって」
そっか。食べる気なんだ。テーブルを見ると私の分以外にもう一つ用意されてるので、嘘はついてないみたい。
「でも時ちゃんは今勉強中だから終わったら食べると思う、集中してるから邪魔しない方がいいよ」
「あらそう? うーんでも……冷めちゃうかも」
「すぐ来るってば、それよりお母さん、今日は時ちゃんがいるからお昼になっちゃうけどちゃんと絵本読んでよね」
そうしてやっとお母さんは時ちゃんを呼びに行くのを止めて、台所で冷蔵庫の整理を始めた。サラダや漬物などをテーブルに出してくるのでそれも食べていいらしい。
「いいわよ、本当に倉莉は絵本が好きね」
お母さんの読み聞かせが上手だから好きなんだよ。
それにしても忌々しい時ちゃん。勝手に来て勝手に朝ご飯まで食べるという図々しさ。なんか飼ってるペットみたいで厚かましい。心の中でぶつぶつ呟きながら朝ご飯が用意されたテーブルの椅子に着いた。
一番初めに卵焼きとウィンナーを調味料なしにぱくぱくと食べる。どうしてかというと、誰かに取られたら嫌だからだ。特にあのバカとかね。
「時子ちゃーーん! ご飯よーー!」
お母さんが動き出した。時ちゃんを呼びながら居間の方へ入っていく。行くなら一言ぐらい声をかけてほしかった。
私は朝ご飯を中断し、急いでお母さんについていくように時ちゃんのところへ駆け寄る。
「あらら、時子ちゃん寝ちゃったの?」
案の状、お母さんは時ちゃんの状態に気づいたらしく、ソファの上で横になる時ちゃんを見下ろして首を傾けている。
「どうしてティッシュなんか口にくわえてるのかしら?」
ギクッ。
「たぶんよだれが垂れちゃうからだよ、ソファが無事でよかったね」
勇気を出して時ちゃんの口に押し込まれているぬれぬれのティッシュを素手で取り出し、すぐさまゴミ箱へ捨てる。私が犯人だということは知られたくない。
「ご飯にラップかけた方がいいかしら……」
寝ているのを邪魔しない方がいいわよねぇ……とお母さんは呟いている。
お母さんは時ちゃんに甘すぎるよ。私は時ちゃんの図々しさにだいぶ腹がたっていた。
「大丈夫。時ちゃんはうなじが弱いの、ここを撫でられるとすぐ起きちゃうの」
私は時ちゃんのうなじに手を当てる。触るとすべすべでとても肌触りが心地よい。産毛も生えていない、絹のような手触りだ。耳元に顔を近づかせると時ちゃんの匂いがする、温かくふんわりした気持ちになる。
「……時ちゃん起きて」
「やーん」起きない。
それからぎりりと力を込めてひねる。時ちゃんは髪が長いからお母さんや周りの人たちから見て、このうなじで何が起きているかは誰にも知られない。
「時ちゃんお、き、て」
「やぁん」
さらに力を込めてうなじの肉を寄せ集めては引っ張る。引っ張っては捻る。もしかして時ちゃんは我慢してるの?
「起きてって……いってるでしょ……!」
「やっ……! やんっ……! やーっん!」
時ちゃんが甲高い叫び声をあげて体をびくびくと痙攣させた。
それから瞼を薄く開けて瞬きを何回かし、頬を赤らめながら私の顔を見る。
「ほらおきた」
「もう……もう無理だよぉ……許してこーちゃん……」
「許すからさっさとご飯を食べろ」
つい口調が命令形になってしまった。我慢我慢。
「うんたべりゅう……」
ソファからゆっくり起き上がり呂律が回ってない、まるで酔ったような赤い顔で時ちゃんはお口をアーンと大口に開ける。
そのまま硬直。
「なにしてるの?」
「あーーーーーん」
質問の答えがよくわかんないよ時ちゃん。もしかしたら顎が外れてるのかもしれない。
それを確かめるために顎を撫でてると、
「くすぐったーい、えへへー」ごろごろと鳴いた。
「朝ごはんは台所に用意してるからさっさと食べて」
「え、食べさせてくれないの?」
そんな期待をしてたんだ。私が台所からわざわざご飯をもってきて今ここで食べさせてくれる期待をしてたんだ。それは病人だけの特権なんだよ。
「でもいいよ」
「いいの!?」
「時ちゃんの卵焼きとウィンナーくれるならね」
「……それは無理だよぉ」
時ちゃんは私の提案を珍しく無視してぱっと起き上がり、微笑んでいるお母さんについていくように一緒に台所に入っていった。
それも当然か。時ちゃんにとって卵焼きとウィンナーはホットケーキとステーキに匹敵する。誰にも、この私にでさえも譲れない大好きな食べ物なんだ。
朝食の後は時ちゃんの宿題を終わらせる予定だ。居間はお母さんに迷惑がかかると思うから、私室に時ちゃんを招き入れた。ここは本来、私が眠る場所なんだけど、今は時ちゃんの奇行を抑えつけるお部屋になる。
招かれた時ちゃんは私室に入るなり、深い深呼吸をしてばっかりいる。お腹いっぱい食べすぎたのかな。
「すーはーすはー」
「なにしてるの?」
「こーちゃんのかほりぃーほわぁ……」
よろよろとベットの方にふらついて歩いていく時ちゃん、その肩を掴んで私の机へ無理矢理座らせる。何回寝る気なんだ。
ついでに、さっき起きたばかりでお布団がめくれていたので、綺麗に整える。本当は起きたらすぐ綺麗にしてるんだよ、でも今日は時ちゃんが急かすから。
その様子をぼーと見つめていた時ちゃん。あまりにやる気を出さないので、仕方なく宿題を机に広げてあげるところまでしてあげた。私は時ちゃんの家庭教師になっている気分で口をとがらせる。
「算数は全問不正解、空白ばっかりだったよ? 昨日終わらせておいてっていったよね?」
昨日、時ちゃんにはあらかじめ宿題をやっておくように言ったはずだ。それなのに空白が多かった。もしかしたら、目さえとおしていないのかもしれない。
「うん、空白の方がこーちゃんによくわかると思ってて……それが私の答えだよ?」
つまりなにか。時ちゃんはめんどくさくて空白にした訳じゃなくて、必死に考えた結果で空白という答えにたどり着いたんだだね。私はそれが信じられなくてもう一回聞いた。
「……じゃあわざと空白にしたの?」時ちゃんが頷く。「……わかった、じゃあその問題の公式を書いてるページをよく読んで理解してね」
「ありがと!」
まさか、授業中ずっと居眠りかペンと消しゴムで遊んでるんじゃなかろうか。先生のお話を聞かないなんて学校に通う意味さえ見失ってるよ……
算数のノートを開いて読ませてる間、時ちゃんの漢字ドリルを拝見した。こっちはちゃんと書いてるみたいで、空白はほとんどなかった。読みの方は直感で答えを書いてる感じで、書きの方はよく分かんない新しい漢字を創り出していた。
やる気はあるみたい。でも字が汚くて走り書きしてるし……なにか時間に追われている感じがした。
「ねーこーちゃん、これ読んでもよくわかんないよ、教えてぇ」
時ちゃんが足をばたつかせてそう聞いてきた。言葉の終わりにハートマークがちらつく。
「いいよ、でもちゃんと理解できなかったらもう二度と教えてあげないからね」
たった一回だけだよって遠回しに言う。
「えぇー? なんでそんな意地悪するの? 何回だって教えてくれてもいいじゃん、ねぇ~?」
「意地悪じゃないよ、理解できないお話をしても無駄なの、それを理解するには時ちゃんの頑張りが必要なの」
お父さんがそう教えてくれた。
ダメな人間はいつまでもダメだ。理解する気がないから何度教えても理解しない。そういうイデンシが足りてないんだって。
「うー、分かったよ。それじゃあいつもみたいに、やさしく教えてね?」
やさしく? それじゃあ、と私は時ちゃんの膝に失礼して乗った。お母さんと絵本を読むときはいつもこんな態勢なんだ、こうするとやさしい感じがするでしょ?
時ちゃんが私の頭越しにノートを見て、私は時ちゃんの手を取って指を操り、字を這わせ、読み上げさせる。文章を口に出すことで居眠りをさせず、口調に謎マークが出たらその部分を指摘してあげ、めんどくさそうな雰囲気(あくびとか)が混じったら足のかかとで脛を叩いてやる。私は鬼教師なんだぞ。
ノートに書かれてあることをすべて読み上げた時ちゃんは背筋を伸ばして体をほぐし、私のお腹に腕を巻き付けて頭に頭を重ねあげた。
「すごくわかりやすかったよ、これでばっちりだね」
抱かれるのは嫌いじゃない。時ちゃんはいい匂いがするし、この季節は寒いので温かいのは気持ちがいいんだ。
「ほんとにわかったの? あとで算数ドリルの問題に付箋紙貼ってテストするからね」
算数ドリルは空白に丸点けをしてしまったので不正解の後が残っているが、付箋紙を貼って隠し、そこに答えを書けば復習できる。お父さんに教えてもらったんだ。
「いいよぉ、でも簡単すぎてあくびがでちゃうかも」
なんだか時ちゃんが自信満々そうなので、次の漢字ドリルに移った。
漢字は読みと書きがあって、これをちゃんと理解するにはただ復習あるのみだ。覚えることは漢字の読み方と書き方。ノートにひたすら漢字を書きまくって、書きながら頭の中で読みを復唱する。それだけでいい。
「時ちゃんの漢字練習ノートは?」
「お家」
「とってきて」
だだだっと時ちゃんが慌ただしくお部屋の窓を開ける。寒い風が入ってきて、時ちゃんの髪が激しく風を受けた。
「すぐもどってくるね」
そう言うと窓の桟に足をかけてジャンプ、斜め下にあるお部屋のベランダに着地した。
私はそれを見送り、寒くなるから急いでお部屋の窓を閉めた。
さて、少し休憩でもしよっかな。
居間に行くとお母さんはアイロンをかけていた。衣替えの季節なのよ、という優しい言葉を温かいお茶を飲みながら聞いていた。玄関から元気な声が聞こえる。
「こーちゃんただいまー」
時ちゃんが帰ってきた。いや、戻ってきた、だ。時ちゃんは私の家族じゃない。
「こーちゃん? こーーちゃーーん」
我が家に入るなり、だだだっと階段を上り私のお部屋へ。残念ながら私はそこにいない。
「こーちゃん……トイレ? こーちゃんお花つんでるの?」
二階と一階のトイレを確認しているらしい時ちゃん。ごめんね、私はそこでお花を摘んでいない。
「倉利ならキッチンにいるわよー!」
お母さんが私の居所を時ちゃんに伝える。面白かったけどここまでか。
「お母さま! アイロンがけをしていらっしゃるんですか?」
「ええ、時子ちゃんもかけたいのがあったら持ってきなさいな」
「はい! あ、でもおじさまのも大丈夫でしょうか?」
「いいわよーそんなの遠慮しないでじゃんじゃんもってきていいのよ」
なんか時ちゃんとお母さんで楽し気にお話している。だんっ、と私はお茶の入ったコップをテーブルに叩くように音を上げて置いた。
そうして、時ちゃんがこちらを見るのを確認すると手招きする。
「お茶飲むでしょ? 淹れるからこっち来て」
時ちゃんがキッチンに入ると熱いお茶を淹れてあげた。私のは水を入れてるから飲みやすい温度なんだ。意地悪なんかしてないよ。今は時間がほしいだけ。
「時ちゃん」そう名前を呼ぶとお茶の水面をふーふーしてる時ちゃんはこちらを向いた。「最近、うちのお母さんのことを様付けしてるけどなんで?」
最近というかもうかれこれ二年ほど前からそう呼んでいた気がする。そう呼ぶようになってから急にお母さんとの仲が親密になっている気もする。
「それは……こーちゃんのお母さんにはとっても優しくしてもらってるから」
「さっきのアイロンがけのこと?」
「う、うん私のお家のアイロンは壊れてるから……」
「……他には何かしてもらってるの?」
「えーと……お料理とか掃除器具をもらったりとか……かな?」
お料理……作り置きしてあるのとかをもらってるのかな? それに掃除器具をもらってる? そういえば我が家の掃除器具は最新家電で揃えていたっけ。買い替えたいから時ちゃんにあげてるのかな?
「そんなことしてるんだ」
「うん、こーちゃんのためなんだよ」
「私のため?」なんで私のため? 時ちゃんがくすくす笑っている。
「今はまだ秘密だよ♪」
時ちゃんは犬舌だったのかお茶を一気に飲み干すと、だだだっとキッチンを出て行った。階段を上る音がするからお部屋に向かったみたい。
「なにが秘密なんだろ」
それをはぐらかされたようで気に食わない。時ちゃんは何を考えているんだろう?
また私の知らない時ちゃんがいる気がする。
お部屋に入ると、時ちゃんが私のベットで横になっていた。枕を股に挟んでお布団を頭に被ってしわくちゃにしてる。
さっき綺麗にしたばっかりなのに……もう。
「勉強の時間だよ、ほら起きて、さっさと勉強しろバカ」
「あ、そんなにらんぼうにしないでぇ~らめぇ~」
私はあえぐ時ちゃんのお尻をばんばん叩いてベットから追い出した。それからさっきみたいに時ちゃんの肩をつかんで席に落ち着かせる。
こうしないと時ちゃんはベットに向かうみたい。
「じゃあ、漢字ドリルで出たのを漢字練習しててね、一文字に一ページ、もう一ページは単語を作って書いてって」
「単語は自分で考えるの?」そうだよと私は頷いて漢字辞典を机にだす。
そうしてしばらく、時ちゃんが鉛筆を動かしているのを確認すると、私は絵本を手に取る。時ちゃんに与えた課題は最低でも一時間くらいはかかる量だ。この間にお母さんに絵本を読んでもらおう。
「じゃあ終わったら教えてね」
「え、え、ちょっと待って、どこ行くの?」
「下だよ、時ちゃんが勉強してるから私はお母さんと……用事なの」
遊ぶの、と言ってしまうところだった。用事と言ってごまかしとかないと時ちゃんは納得しないだろう。
「今じゃないとだめなの? こーちゃんと私はずっと一緒じゃないの?」
ちらりと時計を見るともうすぐお昼になる時間。
「……今じゃないとだめなんだけど」
「ダメなの? でも……ずっと一緒って……」ポキンと時ちゃんの持つシャーペンの芯の先端が折れた音。
「……それが終わるまでだよ」
「うんありがと」
時ちゃんの気迫に負けたわけじゃない。嘘は言っちゃダメってお父さんと約束してるんだ。時ちゃんと一緒って約束をまもってるだけなんだよ。
「ごめんね、いますぐ終わらせるからね」
やる気はあるみたいだから、時ちゃんに悪気はないんだ。さっさと終わらせてよね。
時ちゃんは急いでみたいだけど、やっぱり一時間くらいかかりそうだ。その間、私は今日のお勉強としてノートを読みがら復習していた。少し黙っていた時ちゃんはこちらにくるっと顔を向けた。
「ゲームしよ、やーちゃん」
その言葉に深いため息が反射で出る。
「遊ぶのは宿題が終わってからだよ、それに今そんなことしたら時ちゃんはバカのままなんだからね」
「えーけちー」
でもバカなままの自分にさよならしたいのか、時ちゃんは漢字練習に戻る。
「それに、今は算数と漢字を勉強してるけど、次は社会と理科なんだよ?」
「……私、バカなままでいたいよ……」
「このノートを読むだけの簡単な復習だから、ね?」
授業で黒板に書かれたことを全部書いて、さらに自分なりに分からなかったところに蛍光マーカーを塗り付けたノート。時ちゃんのことだから居眠りをしててノートの内容は真っ白なんだろうなぁ。
「それを見れば私もこーちゃんみたいに花丸もらえるの?」
「そうだね、時ちゃんの頑張り次第だけど、あと花丸はみんなもらってて時ちゃんだけもらってないんだよ」
ちょっと飛躍して言ってるけど、これくらいのデタラメ言わないと時ちゃんは頑張らないよね。このデタラメは嘘じゃないよ、誇大表現なんだ。
「じゃあそのノート読む。読んでこーちゃんの花丸をもらう」
私は花丸あげないけどね。ま、時ちゃんの目に炎が宿ってることだし終わったらあげてもいいけど。
書きかきかきかきかき……
「ゲームしたいなぁ……こーちゃんとゾンビやっつけたいなぁ……」
時ちゃんの独り言。ゾンビを撃ち殺すゲーム……テレビゲームかな? 時ちゃんの言ってたゲームはてっきりトランプとかすごろくだと思ってた。その後もぶつぶつと時ちゃんはつぶやく。
かきかきかきかきかきかきかきかきかきかき……
「……今度はくーちゃんの卵食べたい……そうだ、眠いの我慢すればいいんだ……それに勉強なんかしたくないし……だいたいくーちゃんはいっつも本読んでていいよね……いっつも私に命令するしバカっていうし……時々でるため息とか不幸移るよ……私だってゲームしたいな……2Pしたいなぁ……」
「にぴー?」
「……え? なんかいったこーちゃん?」
今独り言で、私の悪口言ってなかった? それにあだ名もかわってたし、気のせいかなぁ? そう突っ込みたかったけどなんかやめておいたほうがよさそう。
もしかしたら時ちゃんは、勉強のし過ぎで過度の極限状態にいるみたい。
「早く勉強終わらせようねって言ったの」
思ったことを留まらせて、エールの言葉を贈る。
そうしないと、私は時ちゃんとケンカをしちゃいそうだった。
「えへへ……もうすぐ終わりだよ……またせてごめんねえへえへ、こーちゃんと……えへえへへ」
時ちゃんの漢字練習がついに終わった。その最後の瞬間を時ちゃんは、顔を斜めにしてにやけながら迎えた。変な角度で私を見つめてくる。
「よく頑張ったね。それじゃあ私の花丸あげる。今度は先生の花丸を目指そうね」
赤い色鉛筆ででっかいひまわりを書き殴る。確かこんな感じ、あれでかすぎた。
「それじゃあこれからゲームだねっ!」
「それじゃあこれでバイバイだね」
同時に出た言葉に時ちゃんは驚きの顔を隠せない。
「えっ? なにいってるの?」
「宿題も復習も終わらせたからもう用はないよね、帰ってよ。これから私はお母さんと用事なの」
さっさと帰ってくださいと私は念じる。時ちゃんが言葉の意味が分からないという素の顔で首を傾げた。
「なんで? この後ゲームするんだよね? さっきいっぱいつぶそうねって約束したっ」つぶそう? なにそれ。
「してないし、私のお家に時ちゃんのしたいゲームはおいてないけど」
「じゃあ私のお部屋でしよっ。ゾンビの他にはミリタリー系もあるよ」
「私にそんな暇はないの、今日までに用事終わらせなきゃ。お母さんが待ってる」
お母さんは今頃、お昼ご飯をつくってるはず。それを食べにくるのを待ってるはず。
「また用事なの? それってホントに用事なの? こーちゃんとお母さまの二人でしかできないことなの? 用事ってなんなの?」
そんなことを、聞いてくるなんて卑怯だ。そんなことを聞いてきたら私は、本当のことを言うしかなくて言葉に詰まってしまう。
「……じゃあ時ちゃんも用事に参加していいよ、でも……邪魔だけはしないでね」
「いいよ、でもその後一緒にゲームだよ、指切りしよ」
なんでそうなるの? 時ちゃんはどうしても私と一緒にゲームをしたいらしい、そんなの一人でしててよ。
私は時ちゃんの扱いにほとほと困り果てていた。こっちが辛くなってくる。
「私、ゲームはあんまり好きじゃない……絵本読んでる方が楽しいもん……」
あんまり好きじゃない、とはいえやったことはあるけど。お父さんのお部屋にいっぱいあって暇で仕方ない時はこっそりゲームをする。でもやっぱりお母さんに絵本を読んでもらう方が一番楽しいんだ。
「私だって、ゲームは一人じゃなくてこーちゃんとする方が楽しいもん」
したことあるっけ? 思い出してみるとボードゲームならある気がしなくもない。
「ふうん、じゃあゲームか絵本、どっちか選んでよ」
「そんなの選べないよ……ていうかこーちゃんの絵本ってなに? 何して遊ぶの?」
「絵本を読むの、時ちゃんはゾウとかカバとかお鼻が長いのが似合いそう」
皮肉めいた口調で言った。もしかしたら私は時ちゃんに意地悪してるのかもしれない、絵本を読ませて時ちゃんの変な役の変な演技が聞きたい。
「いいよ、そうしたら今度はゲームだよ? こーちゃんはゾンビに怖がるの、それを私が退治して守ってあげるんだ、ぞくぞくしない? さんびゃくろくじゅう度の全方位からにきび面のゾンビに襲われるんだよ? 無音で上から降ってくるのなんて避けれないし、足を掴まれたらかまれる前に一発でつぶさなきゃ……」
「ちょ、ちょっとまって、何言ってるの? ゲームのお話なの?」
そうだよ、と頷いてくる。じょ、じょうだんだよね? そんなゲーム聞いたことない、お父さんのお部屋にあるものはかわいい女の子でいっぱいのものだったよ?
時ちゃんのいうゲームというのはもしかしたら映画なのかもしれない。最近はぶいあーるとかでリアルな体験ができるみたいだから。でもお父さんが言うには、子供のうちはぶいあーるをすると斜視になるからと絶対禁止と釘を刺されてるんだ。
「無理だよ。そんなの絶対やりたくない、もっとかわいいのがしたい」
「……冒険するやつ?」
「そうそれそれ」
「それならいいんだ」それならいいかも……、ううん、違うよ。
「やっぱだめ、どっちか選んで、どっちかじゃないとだめ」
危ない、納得しかけてた。そもそも私は時ちゃんとゲームなんかしたくないんだった。
そもそもの問題。なんで私は時ちゃんとこんなに仲がいいんだろう。お家がお隣だから? 小さいころから一緒だから? 時ちゃんが私と一緒に居たいから? そんな理由は知ってるんだ。私が時ちゃんに絶交という、もう一緒にいたくないって言うだけでこの関係は終わるんだ。
そんな簡単なことはわかってる。
でも、それだけはしちゃダメ。それをすると、時ちゃんが何をするか分からなくなるから……怖くなるんだ。
水掛け論になってきたお話だから、私から折れて本音を吐き出す。
「時ちゃん、今日はもう遊べないよ、じゃないと私、時ちゃんのこと嫌いになりそうだよ」
「なにそれ……ひどい、ひどいよ、昨日ずっと……一緒って……」
ついに時ちゃんは唸りだす。私の着ているパジャマのフリルにしがみついて、遊んで、お願いと呟いてくる。お前がゾンビか。
さらには顔をお腹に押し付けてこすりつけてくる、押してくるので後退すると壁に背中がついた。時ちゃんの弱点であるうなじを掴んで捻っても、まるでヒルみたいにくっついて離れない。
「私はお母さんと静かに読みたいの、だったら時ちゃんだけでゲームしてきてよ」
「そんなのダメだよ、こーちゃんがいるから面白いのに。お願いこーちゃん、一緒に遊んでよ、今日は二人でずっと遊ぼうよ、お願いお願い」
「一緒なんて無理、ゲームは一人でして、嫌なら絵本を選んで静かに黙ってて」
読まなくていいから、聞いてるだけでいいから、なんなら寝てていいから。それがギリギリの妥協点だった。
「そんな……こーちゃん……こーちゃん……こーちゃん……」
まるで壊れた人工知能みたいに私のあだ名を読んでいる。うなじを掴んでるからわかるけど体温が熱を出しているみたいに高い。もしかしたら泣きそうなのかもしれない。
「離してよ……ねぇ時ちゃん? 聞いてるの?」
もうどうすればいいのかわからなくなってくる。時ちゃんは五歳児みたいに私の腰に腕を回してうずくまっている。確か前にもこんなことが、似たようなことがあった。
何度も何度も遊べないと伝えるのに時ちゃんは分かってくれない。ここら辺でいつも私の堪忍袋の緒が切れる。頭ではそうなるのは知っているけど今回も我慢できなきなかった。
「いい加減にしてよ時ちゃん、私もう……うんざりだよ」
「こーちゃん?」
「昨日もおとといも先週も、最近なんか時ちゃんうざいよね。どうして私のいうこと聞けないの? ひと月前はこんなでもなかったのに……」
そうだ。時ちゃんはいつもいつも私にべったりだけど大体のいうことは聞いてくれたし、今日ほど強引に図々しくべったりしてこなかった。
「どうしたのこーちゃん? 怖いよ?」
「はっきり言って迷惑。そういうバカみたいな所いい加減直した方がいいよ、私以外に友達作れないの? 私と時ちゃんじゃ趣味も嗜好も合わないんだし、一生の友達なんてなれないんだよ? せめて挨拶ぐらいならしてあげてもいいよ、だけどこれはきもすぎ、時ちゃんは私のなんなの? あくまで他人でしょ? だったらもう付きまとわないでよ!」
ひっ……と時ちゃんが呻いた。私は頭に血が上って怒鳴っていた。もしかしたらお母さんに聞かれているのかもしれない。
「でも……ずっと二人きりって昨日言ったよね? あれって……」
「ずっと二人きり? じゃあそれももうおしまい、続きはまた明日だね、今日は帰って大好きなゲームでもすれば? 私は大好きな絵本を読んでもらうから」
「ひどいよ……こーちゃん、これっていじわるだよ? いじめなんだよ?」
「ひどいのは時ちゃん。私は嫌なのに一緒にいたいだなんてそれこそいじめだよ」
「私はいじめてなんかないよ……私はただこーちゃんが一人なのは……あ」
その先を言わない時ちゃん。一人? 私はお母さんに絵本を読んでもらうの、一人じゃない。
「そういうの……もういい、結局時ちゃんが寂しいだけなんでしょ? 今言うこと聞かないなら明日からは私に話しかけてこないでよね……!」
ついに、時ちゃんの瞼から大粒の涙が零れだした。声に泣き声が混じる。
「うぅうぅ……ひどいひどいよぉ……私死んでもいいの?」
「死ぬほどじゃないでしょ?」こんなことを言われたくらいで死んでしまおうとするなんてありえない。「……これくらいで」
時ちゃんは泣いてしまった。でも大きな声じゃなく、悲しみを押し殺した小さな声で低く呻いた。床の絨毯に涙がこぼれて跡がついた。
もう時ちゃんが動かないなら私が動く。うなじをあらん限りの力で強く掴んで時ちゃんに腰を掴まれたまま強引に部屋から階段へ。時ちゃんが足を踏ん張ってお部屋に戻ろうと軽い抵抗をするけど、うなじを掌握している私には効かない。そのまま玄関へと移動して、時ちゃんの履いてきた赤い靴と見覚えのないサンダルを足で蹴飛ばして我が家の外へ追い出す。
私は時ちゃんに体を掴まれたまま靴を潰して履いて外に出た。
「ちょっと! 倉莉!」
お母さんがやって来た。やっぱりこの状態は変に見えるみたい。はたから見て時ちゃんは泣いているし、私は怒っている顔をしている。ケンカしてるみたいに見えちゃうのも仕方ない。
「なんでもないよ、今から時ちゃんのお家に行ってくるから」
「なんでもなくないわよ、時子ちゃん泣いてるんじゃないの?」
これは面倒なことになってしまったと、遅まきながら気づく。
「……ゲームするの。時ちゃんがゾンビ役で私が潰すヒーロー」
「こーちゃん?」
そこでやっと時ちゃんが反応した。私の言葉が嘘か誠か戸惑っているのだろう。お母さんがそうなの? と聞いてくるので時ちゃんにうなじをつねって説明を促した。
「はい、ぐすっゲームです……すんっおがあさまっ……ずずっなにも心配はあ、ありませんずびっ」
鼻水をすすりながらも、時ちゃんは頑張って説明してくれた。泣き顔を上げて私の顔を見上げてくる。お母さんはまだ気にしている様子だったけど、やがて我が家の中に戻っていった。
「……ありがとこーちゃん、ゲームしてくれて、うれし、いいよ、ぐすん」
「もう泣き止んで、ゲームしたいんでしょ。泣いてちゃゾンビに噛まれちゃうよ?」
そう一言だけ伝える。私は時ちゃんにいまだにしがみつかれたまま、お隣に建つ時ちゃんのお家にやって来た。そのお家は木造建築で引き戸の玄関口。いつもこの戸口には鍵はかかっておらず、乱暴に手を使って殴り込むみたいに開けて入った。
「……ほら、時ちゃんのお家だから。さっさと離して、ね?」
そう命令すると時ちゃんはやっと泣き止んで力を緩めた。涙が引いた笑顔をこちらに向ける。その笑顔は昨日の雨上がりの夜空みたいに綺麗だった。
「う……うん。そっか、こーちゃんだいすきだよ、こーちゃ――」
――パンッ!
ゴムがはじけ飛ぶような乾いた音が響いた。
それは時ちゃんのほっぺから鳴った。私は時ちゃんのうなじをいまだに掴みながら、時ちゃんのほっぺを平手打ちした。
――パンッ! さらにもう一発。時ちゃんの両頬を赤くする。
「いつもいつもっ! どうしてそんなに鬱陶しいのっ? 時ちゃんはバカで泣き虫なんだからただ私の言うことを聞いて黙っててよっ!」
――バシッ。そしてもう一発平手打ちをしたけど、それは時ちゃんが腕を頭に回して守った。うなじを掴んだ手を離して突き放す。
時ちゃんは後ろから倒れて、しりもちをつく。
「うぅ……うぅ……ひどいひどいよ……」
「また泣いてる、時ちゃんはいいよね泣いてるだけで私が明日からもまた変わらないお友達でいるんだから」
最後に時ちゃんに足蹴りをお見舞いしたら、私は踵を返してお家を出て行った。
時ちゃんは私を追いかけてはこなかった。ただその後は台風が通りすぎたみたいに静かだったけれど、なんだか言いたいことを言えて私の心はすっきりしていた。
まるで借金取りみたいないじめをしているみたいだけどそうじゃない。これはただの一方的なケンカ。ここは学校じゃないから暴行はおっけーで、時ちゃんはやろうと思えばやれたのに、抵抗はしなかった。時ちゃんは肉体的に私を傷つけることは絶対しないんだ。
我が家に帰ってお母さんが真剣な顔でこちらにお顔を合わせてくる。すこし怒ってるみたいだ。
「時子ちゃんはどうしたの?」
「大丈夫、見送りしただけだから」
それが嘘だとお母さんは全部お見通しの様子で、玄関に置かれた赤い靴とサンダルを指差す。それは先ほど私が蹴飛ばして我が家から追い出した時ちゃんの靴だ。なぜか綺麗に整理して並んでいる。
「これ時子ちゃんの靴よ。仲直りしたんなら返しに行きなさい」
「…………」
「そう……倉莉たちがまだケンカしてるのは分かるけどはやく仲直りしなさい、なんならお母さんもついていってあげるから、ほらこれもって」
時ちゃんの靴を掲げて私に持たせようとしてくる。
「じゃあ明日でいいよ、明日だったら仲直りしてるから」
「明日明日って――」
「お母さんになにが分かるの!? 私と時ちゃんの関係なんてお母さんは何一つ知らないよっ! どうせ何も知らないでそんなこと言ってるんでしょっ! もう構わないでよ……!」
玄関で通せんぼするお母さんを手で押しのけて、通り道ができたら階段を上ってお部屋に駆け込んだ。
「倉莉は時子ちゃんにひどいことをしたんでしょ? だったらごめんなさいってつたえなきゃ――」
お部屋の前から追ってきたお母さんの声がする。聞きたくない。時ちゃんを庇うのはやめてほしい、私がかわいそうなことに気付いてほしい。
「倉莉はしってるでしょ? 時子ちゃんは親がいないのよ? だから倉莉と一緒にいたいと思うのよ――」
時ちゃんは親がいない。確か入学式の前日に亡くなったと聞いた。あの時は私も気の毒と思ったけど、それ以前から時ちゃんは異様に私にべったりだったんだよ。親なんていてもいなくても時ちゃんは時ちゃんなんだよ。
「だから時子ちゃんが寂しくないように倉莉が支えてあげなきゃ、お母さんもいろいろ手伝うから、まずは――」
大丈夫だよ。時ちゃんはもう大丈夫だよ。私の他にお友達を作れば大丈夫なんだよ。その子に時ちゃんを任せればいいの。それをお母さんから言ってあげてよ、だれか時ちゃんにお友達を紹介してあげてよ。
無理だ。そんなの無理。時ちゃんは男子からは人気だけど女の子からは絶望的に不人気なんだ。時ちゃんにお友達なんて作れるわけない。彼氏ならすぐできそうだけど。
「……ねぇおかあさん、電話持ってきて」
電話は便利。私はまだ小学五年生だから携帯電話を使用するのは法律で禁止されてるけど、お家の光回線でつながれた電話はいいんだってお父さんが教えてくれた。これなら何時間でも通話し放題なんだって。
しぶしぶといった感じか、お母さんが電話の子機を、お部屋の扉を少し開けた隙間から渡して受け取った。開けようと思えば開けられるのに開けないお母さんはやっぱり優しいお母さんだ。
掛ける相手はもちろん時ちゃん。
電話のコール音が五回くらい鳴って、もしかしたら出ないんじゃないかと諦めかけた時、
「……こーちゃんなの?」
時ちゃんが出てくれた。その声は怯えているのか少し震えていた、まだ泣き声だったんだ。
「ごめんね時ちゃん、今日は疲れたからまた明日会おうね、ごめんね」
「……うぅうぅうわーん!」
私が言い終わると、いきなり大きな声を上げて叫び始めた。なんだか泣いてるけどさっきみたいに怯えは感じない。
「うるさいから泣き止んでよ」
「……うぅうん、大好きだよやーちゃん、明日もまた一緒だよぉ!」
「うんいいよ、じゃあばいばい」
「ばいばい……ぐすっ」
電話を切った。ばいばい時ちゃんまた明日。時計を見るともう午後一時を回ろうとしている。
なんて長い午前だったのだろう。引き戸の扉を開けてお部屋の前を覗くと、お母さんはいつの間にかいなくいなくなっている。私と時ちゃんが仲直りしたと思っているんだろう。
「本当に疲れた……」
ひどい時はいつもこんな感じなんだ。ほんと疲れちゃう。お母さんにケンカを目撃されるのは滅多にないけど、今回は特にひどかった。
私は本を読むのはまた明日にして、お昼ご飯を食べたらゲームでもしようかなと思う。なんだかこんなことがあった後でお母さんに優しく絵本を読んでもらうのって気分が悪い。
だから、お父さんのお部屋に行こうかな。かわいい女の子たちと冒険するゲームをしよ。
午後はそればっかりしてた。お母さんが私を探してたみたいだけど、お父さんのお部屋の鍵は私とお父さんしか持ってないんだ。ゲームは一日一時間だけど、お父さんは週末の夕方の夜にしか帰ってこないから怒られないよね、と規則(ルール)を破って私はすっかり満喫していた。
さすがにお母さんを心配させるわけにもいかないから、午後四時前には居間に顔を出しに行ったけど、お母さんはメモを残してお買い物に出かけたみたい。メモの内容を見るとお父さんの帰りが早くなるからごちそうを作るのだそう。楽しみだなぁ。
私はお父さんの帰りをお腹を空かして待っていた。お母さんが帰ってきたら絵本、お父さんが帰ってきたら夕ご飯、しかもごちそう。ごちそうの買い出し一緒に行きたかったなぁ。ケンタッキー食べたい。
幸せってなにかと問われれば、私にとっての幸せは家族との団らんが一番の幸せなんだ。
二番は時ちゃんが静かにしてくれる幸せかな。黙っていればかわいいのにね。
それから数時間後に私は知る。
唐突に帰ってきたお母さんが電話機で誰かと長電話していてようやく終わった後、気分を暗くして落ち込んでいたのが気になってて反射で聞いた。
「お母さんどうしたの?」
大方、お父さんとのケンカとかご近所トラブルだと思う。まさかスリ、泥棒とか? いくつか考えが浮かんだ。
しかし、お母さんの反応はたどたどしく、私に言おうか言わないか考えているようだった。まるで、私に聞かれたらまずい話みたいで電話もずっと小声だった。
やがてお母さんは意を決したように口を開く。肩を抱かれて頭を撫でられた。
「あのね、さっき、お巡りさんが教えてくれたんだけど……」
「なにを?」
「時子ちゃん、亡くなったみたいなの……」
「………………」
時ちゃんがしんじゃった。
その知らせを聞いた私はただ立ち尽くしてて、駆け寄られ撫でられる頭を俯かせてお母さんの胸に押し付けた。
「近くの川で落ちたってね……」
「……うん、そうなんだ……」
「お巡りさんは……その、自殺なんじゃないかって……見た人の証言だと……」
「……そう、それはないんじゃないかな……」
お母さんが事件の内容を伝えるけど頭にはあまり入ってこなかった。生返事で返して頷く。
「倉莉はとても、辛いわよね……」
「……ううん、大丈夫だよ……」
その後、私は楽しみだったごちそうもあまり食べずに、自分のお部屋に引きこもり夜を待つ。暗くなってカーテンをめくって時ちゃんのお部屋を見る。明かりはずっと点かない。
それから九時が回って私は確信した。机の引き出しの奥に隠したノートに今日の時ちゃんの様子を書く。
――時ちゃんがしんだうそじゃないよだってあのおやすみはないんだから明日からはじゆうかな時ちゃんはもういないかな――
このまま明日を迎えてくれればどんなに幸せだろう。
眠気を我慢していたらいつの間にか寝てしまった。
もう少し優しくしてあげればよかったなぁ。ふと、そんなことを思ったりしてしまう。
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