時ちゃんと放課後の時間
第2話時ちゃんと放課後の時間
時ちゃんと放課後の時間
帰りの会が終わって放課後の時間、私は図書室で一人、本を読んでいたはずだった。
本の内容はクレヨン調で描かれたかわいいイラスト、神様の声のように書かれた短めの文章で綴られた文面、いわゆるこれは絵本だ。
「こーちゃん、それ面白いの?」
椅子の後ろ足を支えにバランスを取って、危険な座り方をしている時ちゃんが退屈そうに聞いてくる。
「……うん面白いよ、すごく笑える」
ギャグみたいな内容の絵本を読んでいたので顔をにっこりさせて答える。はたから見ると本当に楽しんで読んでるようにみえるでしょ、だから邪魔しないでね。
「へぇ、そんなに?」
椅子をギッタンバッタン音を立てて、私の視界に時ちゃんの頭が割り込んでくる。
「そんなにおもしろいかなぁ? 私はもっとエキサイティングでアグレッシブなものが見たいよ」
エキサイティングでアグレッシブ? もうすぐ十一才を迎える私には難しい単語だ。せめて四文字ぐらいの英単語にしてほしい。でもなんだか危険な感じがするように感じた。
時ちゃんはまた危険な座り方に戻りながら、どこからか持ってきた雑誌を広げ始めた。
というか、どうして時ちゃんがここにいるんだろう?
今日の放課後、私は教室を出ると金魚の糞みたいに時ちゃんがついてきた。いつもの事なんだけど、どうして退屈になると分かってるのに私と一緒に行動するのか理解できない。
「それに図書室なんて走り回れないしつまんないよ、もっと広い体育館とかグラウンドで遊びたいなぁ」
なんだか時ちゃんは体を動かしたいみたいだ。そこが時ちゃんの言うエキアグな場所なのだろうか。
「……じゃあ時ちゃんが好きな場所に行けばいいのに」
「それはダメだよ、こーちゃんがいないとエクストリームとエロティックが足りないよ」
えろ……? 今えっちな言葉を口走った気がするけど意味不明だし、なんでそれが足りないのかも私には分からない。
とにかく時ちゃんは退屈と分かっているのに私の隣にいるんだ。
「あ、このコーデよくない? こーちゃんに似合うと思うんだよね」
時ちゃんはクスクスと笑いながら、広げた雑誌に掲載されている写真を指さす。一体何年前の雑誌か分からないその写真に写っていた女の子は、肩とか腿が大胆に露出していてとてもはれんちだ。もうすぐ冬になるのに、時ちゃんはこんなのを私に着せたいのだろうか。
「……時ちゃん、お願いだから静かにして、また怒られるよ?」
そうまたなのだ。さっきも時ちゃんがうるさくして図書室の管理人さんから注意を受けた。また来るかもかもしれないと、周りを見るとやっぱり他の利用者が本から視線を外してこちらを迷惑そうに見ている、気がする。これ以上騒ぐとまた注意を受けそうだ。
仕方ない、時ちゃんがうるさくするから図書室を出よう。もともと、私は絵本を読み来たのではなく借りに来たんだ。明日は日曜日というお休みの日なので絵本を多めに借りて楽しもうという魂胆なんだ。
図書カードを出して絵本の題名を記入すると、私の様子に気づいたのか時ちゃんが雑誌を放り出してこちらを覗き込む。
「どっかいくの?」その声には嬉しさと期待が混じっていた。
そう聞かれるけど私は見向きもせず無視する。もしかしたら時ちゃんに腹が立っているのかもしれない。
絵本を入れたランドセルを背負って立ち上がると時ちゃんも同時に立ち上がる。図書カードを提出する際にお辞儀をする。
時ちゃんが騒いでごめんなさい。そう心の中で呟いて、図書室の出口でももう一度お辞儀をして、やっと退室した。そうしないと、ここにる人たちに申し訳が立たないんだ。
廊下に出ると開口一番時ちゃんは騒ぎ出した。
「保健室っ! 保健室っ!」
私のランドセルを後ろから体当たりで押してくる。そうされると無理やりにでも前に進んでしまうのが悔しい。足を踏ん張らせてブレーキを掛けてみるけれど、時ちゃんの体当たりには耐えられなかった。絵本大丈夫かな。
なんだか保健室に向かって押されてるみたいだ。あれ? さっきは体育館かグラウンドに行きたいって言ってなかった?
「保健室っ! 保健室っ! ベットにカーテン! 枕にシーッツ!」
まるで行進曲のようなリズムを刻みだす。ボンボン、と私のランドセルは鈴のないタンバリンのような味気ない音を出していた。
押され流されついに保健室の前に辿り着くと、時ちゃんが忙しく先回りして軽快に扉を開ける。
「せんせーベットかしてー!」
先生に対してその言葉遣いはどうなんだろうか。時ちゃんは丁寧語を知らないみたい。
ていうか、病人がそんなに元気で本当にベットなんか貸してくれるのかな? どうぞーという適当な先生の返事が返ってくる。
ばかばかしい。
それを聞いて私は保健室を通り越して玄関口へ向かう。時ちゃんが騒いでも静かな場所ならどこだっていいけどここには先生がいる。それじゃあきっと迷惑がかかるだろう。
「あれ? 一緒にベットで寝ないの?」
一緒にだって? 時ちゃんは一つのベットで一緒に寝たかったみたいだ。もうすぐ十一才を迎えるのにそんなこと口にだすなんて恥ずかしいと思わないの? 軽い口調で言うもんだからいつも一緒に寝てると周りに思われてしまわないか心配になる。せめてお家の中で発言してほしかった。
「もうお家帰るの」
「そっか、じゃあお家帰ってからまた遊ぶんだね」
いやいや、お家に帰った後は絵本読んで夕ご飯を食べてお風呂に入っておやすみだけど。
時ちゃんは私の行動を勝手に決めて口走る。私がそれに従ったことはないけれど、時ちゃんはそれを楽しんで予想している節がある。
そして、その予想がほとんどの確率で当たってしまうことがあるから少し怖い。
玄関口からお外へ出ると、陽の光は雲に遮られて暗く、木の葉を散らす寒い風が顔を襲う。もうすぐ雪が降り積もるめんどくさい冬が到来することに気分が滅入った。
「今日は寒いね、こーちゃんは平気?」
やっぱりついてきた時ちゃんが、私の右腕を手に取り恋人みたいに胸に抱く。これはこれでとても温かくていいんだけど、とても歩きづらいのが欠点。
密着するとはっきりとした身長差が出てしまう。私が小さくて時ちゃんがこぶし一つ分くらい大きい。なので、時ちゃんが先行して歩き出すと私も時ちゃんの大きい歩幅に合わせなければいけない。歩くの早いよばか。
「お家に帰った後は何しよっか、公園かお家の中で遊ぶのもいいし、それならゲーム?」
「宿題はしないの?」いい子ならそうする。
「……宿題、今日いっぱい出たよね……嫌(や)になっちゃうよ」
私が頑張って時ちゃんと歩いているとだんだん遅くなってることに気づいた。時ちゃんのテンションが下がっていくのを感じる。
「うん、最近クラスの平均点が下がってきたって言ってたよね、それに関係してるんだよ」
だから宿題が増えたんだ。私の点数はいつも九十点以上で花丸をたくさんもらってるから宿題が増えることに、なんだか悔しい気持ちが湧いてくる。
「でもさ、その宿題の答えって最後のページにかかれてるんだよ、それを見ればあんまり時間かからないらいいよねー」
だから、宿題が増えた理由である一部のバカがこうして身にならないような不正行為をするもんだから、平均点はずっと上がらないんだ。
その一部のバカの頂点にいる時ちゃんは、丸つけの後に私の点数を見に来て驚くくせに、時ちゃんはといえば六十点くらいしか取れていない。
大体答えを丸写しなんてただの手の運動だ。これはお父さんが教えてくれたんだけど問題は考えて間違ってでも自分の答えを出すのが問題なのに、それさえしないなんてとても愚かだと思う。
「あ、それでね、おじさまが新しいグラボを買ってきたんだけどそのグラフィックがとてもきれいでフレームレートもかなり安定しててヌルヌルなんだよ、もう遅延なんかでイラつかせないからこーちゃんも一緒にしようよー」
「あれ? 今なんのお話してたの?」
「ゲームのお話!」
またゲーム。時ちゃんの頭の中を覗いたらきっと宿題のことなんてこれっぽっちも考えてないんだろう。
「時ちゃんは毎日何時間勉強してるの?」
「え……ええと……いち……に……時間?」
いち……に? 二時間くらいかな?
「私もそれくらいだけど、時ちゃんの場合もっと増やした方いいよね」
「え? 六十FPSじゃ足りないの? まだ二枚目は予算の都合で買ってないけどSLI接続にしてパフォーマンスを上げた方がいい?」
「今なんのお話してるの?」
「グラフィックボードのお話?」
なんだそれは? でも宿題のお話をしていた訳じゃないみたい。どうやら時ちゃんは宿題増加問題に対し、危機感を抱いていないみたいだ。まずはそれを理解させないと宿題のお話は無理そうだ。
体はすっかり温まってお外の寒い風にも慣れたことだし、時ちゃんに捕まっていた右腕を引き抜き、密着してた体も離す。
「こーちゃんさむいよぉ~」
私をストーブか湯たんぽだと勘違いしているのかな。自由になった両手を、時ちゃんの目の前にかざす。先生の授業を真似して言い出す。
「問題出すから落ち着いて聞いて」そう言うと餌を待つ犬みたいに時ちゃんは待った。「うちのクラスの人数は30人です」右手の指を三本立てる。
「それだと三人だよね?」
そう言われたから、人差し指と親指をくっつけて丸をつくる。これで理解できるかな。
「おーさんじゅう、サーティサーティ!」
「その中には時ちゃんが一人含まれています」左手の人差し指を一本立てる。
「これが私?」一本だけ立てた人差し指をじろじろといろんな角度から見つめてくる。「なんだかかわいいね、爪のピンク色とか……触ってもいい?」
「だめ。この時ちゃん以外の二十九人はテストの点数を九十点と花丸を取っています、ところが時ちゃんは一人だけ五十点を取っています」
「六十点っ!」
「……………………六十点を取っています、さて問題です、このクラスの平均点は何点でしょう?」
時ちゃんが問題を変えてくるから少し計算しちゃった。でも真の答えは変わってないから問題ないもんね。
「んーええとね……アベレージは……プラスプラスプラス……ディバイデッド」
なんだか英語みたいな言葉を呟いて計算をしている。なぜか私の指をじっと見つめてるものだから時ちゃんは後ろ歩きで私の前を先に歩いている。
見ていて危なっかしいんだけど、ここは住宅地で車はのろのろと安全運転してることだし轢かれても注意をうけるだけだろう。それに、この後ろ歩きという行為が危ないということを理解させるためにも、一回ちゃんと怒られるべきだと私はあえて注意しない。
それから時ちゃんは結構熟考を重ねたけど答えをなかなか口に出さなかったので、もう待ってられないから急かす。
「時間切れだよ、さて答えは?」
「えぇーまだ計算の途中なんだけどな、うーん……答えはナインティナイン?」
「日本語で言って」
「……きゅうじゅうきゅう?」ぶっぶー。
でもなんで九十九点? 九十点が上限点なんだから九十九点になるのはおかしい。
「なんでそんな答えになったの?」
「んーとね、まずはきゅうじゅうをにじゅうきゅう回足してそれにろくじゅうを足してそれにさんじゅうで割らせて……あ! 答えはナインティハンドレッドナインティナイン!」
だから日本語で言えバカ。それに五歳児みたいな舌足らずでもどかしく数字を喋ってるのに英語だけやたら流暢なのはわざとなのだろうか?
でも式は合ってるみたい。新しく出た答えも間違っている気がするし。
「正解は八十九点です」
「そう、エイティナイン!」
時ちゃんは上機嫌になってきたのか歩幅を早める。後ろ向きでも歩くのが早いなんてどんな体の構造してんだろう。時ちゃんを追って私は問題の説明をつづけた。
「さてクラスの平均点は八十九点なんですが、これにみんなは納得しませんでした、なんでか分かる?」
「えーと、そうだなーたぶんーエイティナインのスペルが難しいから?」
「英語のお話はしてないよ、いい? 八十九点だとね――」
ボンっ――
「やん――」
それは時ちゃんのランドセルから出た音だった。誰かにぶつかったみたいで声を上げた時ちゃんが反動でこちらにのしかかってくる。それは急すぎて、受け止めるしかなかった。
のしかかった時ちゃんとは身長差のおかげで顔面衝突は免れたけど、私はその勢いを止めきれずにドミノのように倒れこんでしまった。というか、途中で勢いが増した気がするような、だから私まで倒れてたような……
でも、背負っていたランドセルが衝撃を和らげてくれていて助かった。ランドセルが無かったら後頭部を打って痛かったかもしれない。
時ちゃんは後ろ向きで歩いていたから、前を歩いている人にぶつかったんだと状況を理解する。
「……時ちゃん、早くどいて」
私が思考を重ねている間、一向に退く気がない時ちゃん。耳を澄ませすと寝言みたいな囁きが聞こえる。
「……ほわぁ、こーちゃんのかほりぃ……」
なんだか時ちゃんの顎が私の頭に乗っている気がする。早くどけバカと、時ちゃんのランドセルを掴んで無理矢理横にずらすと、視界に今しがたぶつかった人が見える。
倒れるほどではなかったのか、その人はこちらをただ見下ろしていた。
その人の恰好は髪が長くやせ形の体系をしていたからたぶん女性で、硬そうなジーパンとお腹にポケットがあるパーカーを着て、頭にはツバの広い帽子と茶色いサングラスをかぶっていて如何にも怪しく、全体的に暗めの色調を醸し出している。
「ごめんなさい!」私はその女の人に声が届くように声を出して謝った。
すると、その女の人はこちらに目線を配る様子は見せたものの、サングラスをちょこっと持ち上げるだけで、座り込む私と時ちゃんが来た方向へと歩き去ってしまった。前を歩いていたのではなく、こちらに向かって歩いていたんだと気づかされる。
「何あの人、ぶつかっておいてあの態度は失礼だよね?」時ちゃんがぶつかったんじゃなかったっけ。「こーちゃん大丈夫?」
先に立ち上がった時ちゃんが私の脇に手を入れて、体ごと掴んで立たせてくれる。
確かに時ちゃんの言いたいことは分かる。子供が倒れているのに、大人の人がそれを助けないのはおかしいよ。もしかしたら関わりたくないから逃げたのかもしれない。
でも私は、なんだかとても悪いことをした気がして、時ちゃんが謝らないから代わりにもう一度、ごめんなさいとその女の人の丸い背中に軽く頭を下げてその場を後にした。
時ちゃんが再び私の右腕を捕まえて、今度は逃げられないようにしてるのか少し強い力で絡みつく。
女の人とぶつかる前になんのお話をしてたっけ? そうだ、八十九点のお話だ。
「時ちゃん、さっきのお話し覚えてる?」
「エイティナインのお話し?」
「違うよ――」
「違うくないよ」矢継ぎ早にそう言われ、「クラスの平均点が八十九点ということにみんなは納得しなくて、その理由はエイティナインのスペルが難しいからって、そのお話でしょ?」
なんだか怒った感じで言い返してくる。確かにそうなんだけど、日本語じゃないとわかんないよね?
「こーちゃんは……忘れちゃったの……?」
怒った感じから急に悲しげになり、泣きそうな目でこちらを見つめてくる。
「忘れてないよ……それで八十九点で納得しなかった理由なんだけど……」
時ちゃんが泣き目になるから私がいじめたみたいに見えてしまう。私は調子を取り戻して言葉を続けた。
「あのね、八十九点だと花丸はもらえないんだよ、花丸をもらえるのは九十点からなんだ」
あれは初めて花丸をもらった日、それが何なのか先生に聞いたらそう教えてくれた。手書きの花丸は先生が生徒の努力を認めた証なんだって気づいた。
「そうなんだー私、保健体育以外は花丸もらったことないから気にしなかったよー」
けろっと、さっきの泣き顔が嘘だったかのような時ちゃんに私は残酷無比な状況を知らせる。
「だから花丸をもらえないとバカだと思われるの、そうして宿題は増やされるの、みんなは九十点で花丸だけど時ちゃんは六十点だから花丸じゃないの、クラスの平均点も花丸じゃないから全体的に宿題増やされるんだよ? わかる? バカな時ちゃん一人がクラスの平均点下げてみんなに迷惑かけてるの、時ちゃん反省して」
ぱぱっと宿題増加問題の結論を言い終えるとすがすがしい気持ちになっていた。時ちゃんが説教を聞くみたいにどんどんうな垂れていく。反省、してるのかな?
「クラスのためにも、時ちゃんのためにも、今は勉強するしかないんだよ」
「こーちゃんも一緒に勉強手伝ってくれるよね?」
「……私は頭いいから勉強は必要ない」
そう言うと時ちゃんはムンクの叫びみたいな絶望の顔を真似する。
「けど復習のついでなら……別にいいよ」
そう言ってあげると今度は目を細める秋田犬みたいな笑顔になる。
時ちゃんがうるさくしないなら一緒でもいいけどね。
我が家と時ちゃんのお家はお隣さん同士だ。時ちゃんのお家は田舎によくある木造建築物だ。お母さんが言うには国の役人さんから、この土地に見合う耐震補強値が足りないから早く立て直しなさいというお手紙が届いているらしい。そのお金も国が出してくれるはずなんだけどどうして建て替えないのが不思議である。
時ちゃんが言うにはだけど、時ちゃんの親代わりになっているおじさんが事業を成功させたらおっきなビルを建てて一流のホテルを運営するらしい。そんな夢みたいなこと実現するわけないよね。
「時ちゃんまたね」
そんな夢見てる少女、時ちゃんにさようならを告げたんだ。
「うん、ランドセル置いたらすぐ行くね、どこに集合する?」
「集合? もう時ちゃんとは遊ばないよ?」
「え……こーちゃんは私と一緒にいたくないの?」
しまった、時ちゃんはネガティブ思考も極端なんだった。めんどくさいなぁ。
「今日は時ちゃんとは遊べないの」
「そうなの?」ぱっといつもの表情に切り替わる時ちゃん。「この後何かあるの?」
「お母さんと用事、時ちゃんも明日から勉強見てあげるから、出された宿題はやっておいてね」
「え? 出された宿題終わったらもう宿題ないよね?」
「復習はしないの? 時ちゃんはほんとバカなんだね」
もしかしたら毎日二時間くらい勉強してるのはデタラメなのかも。明日は日曜だし時ちゃんにはずっと勉強させよう。そうしないとこのバカは治りそうにない。
「でも、こーちゃんに教えてもらったらバカが治っちゃうかも、やったー」
そんな日がいつか来ますように、と私は時ちゃんにお願いした。
「頑張るのは私じゃなくて時ちゃんなんだよ?」
「うんわかってるー、じゃあ明日はずっと一緒だね、今日はもうダメなんだよね?」
どうしても? といった感じでしつこく聞いてくる。ダメなものはダメなんだよ時ちゃん。
「ダメだよ、私のお母さんは時間にうるさいから、時ちゃんもお家のお手伝いとかいっぱいあるでしょ? 今日はそれを片付けて明日は二人で勉強に集中しようね」
「う~ん、勉強は嫌だけどこーちゃんと二人きりならがんばれるね、それにその後には楽しいことも待ってるし!」
楽しいこと? 時ちゃんはまた何か変なことを考えていそう。
「じゃあまた明日ね、ばいばい時ちゃん」
「うん、ばいばい」そう言っていつまでも立ち止まりにっこり手を振る時ちゃん。いや、時ちゃんが自主的に帰ってくれないとおわかれはできないんだけど。
仕方なく、私が我が家のドアノブを捻って時ちゃんを視界から切り離す。これで今日という一日が終わった気がしなくもない。
さて、お母さんを探そうかな。
我が家に入った私はまず先にお母さんの名前を呼んだ。でも返ってくる声はない。その後もただいまーを付けて何回もお母さんを呼んだけどどこにもいない。キッチンもトイレもお風呂もお母さんがいそうな場所全部見て回ったけど、どこにもいない。
お買い物かな。お母さんだっていつも我が家に居る訳じゃない。今夜の夕ご飯のために買い出しに行ったりするし、お庭で洗濯物を干してたりする。
「そっかお庭だ……」
居間からカーテンをまくってお庭を覗く。我が家の塀に囲まれた小さなお庭に洗濯物は干してない。お庭には木の葉が散らかってて、いつか掃除をしてあげないといずれ降り積もる雪に埋もれてしまいそうだった。
とりあえず、暗い我が家の居間に照明の明かりを点けてお母さんの帰りを待つ。それまでめんどくさい宿題でもしてよう。そうしよ。
そう計画して、ランドセルからお弁当やら絵本を出した時、玄関が開いた音がして、ただいまと優しいお母さんの声が聞こえた。すぐさま玄関に向かって顔をだす。そこで靴を脱いでいるお母さんの姿を見て安堵する。
「おかえりお母さん」
「あらもう帰ってきてたのね、ただいま倉莉」
でも、帰ってきたお母さんは買い物袋も何も持ってなかった。
「……どこ行ってたの?」
「近所の人とお話してたのよ、それより時子ちゃんと会ったわよ、倉莉と一緒だったって教えてくれてそのことを鼻歌で歌ってたわ」
なにそれ……。もしかして私のあだ名を連呼しながら歩き回ってるのかな。
「ふ、ふうん……そうだ、絵本いっぱい借りてきたから読み聞かせしてね、お母さんのお仕事が終わった後でもいいよ」
それにお母さんは快くうなずいて、お家の掃除を始める。食器洗いやらお風呂掃除を始める。今の時代、家電には人工知能さんが住んでいて命令するとある程度のことまでは勝手に掃除してくれるのだ。床を動き回る丸いお掃除ロボットの頭を撫でてあげた。
私も何か手伝ったほうがいいのかと思うけど、お父さんが言うには学生のお仕事は勉強と遊びらしい。それさえしっかりこなしていたら一流の大人になれるみたい。お父さんやお母さんみたいな立派な大人にね。
なので、お母さんのお仕事が終わるまで私はさっきの宿題を頑張っていた。この後は楽しいことが待ってるんだ。あれ? 時ちゃんも同じこといってたような。
やがて、お母さんが疲れたようにソファに座る。
「お仕事終わったの?」
「もうちょっと待っててね、これから晩ご飯を作らないといけないから、ごめんね」
まだお仕事あるんだ。でも晩ご飯は作らないとね、今日のおかずはなにかな?
少し楽しみにしてた晩ご飯ができてお母さんとおしゃべりしながら食べて、お母さんがその後片付けをせっせとして、その間に私はピカピカのお風呂に入り、すでに始まっていた大好きなバラエティ番組をお母さんと一緒に見て笑いながら宿題を終わらせた。お母さんも私も大きな声で芸人のリアクションに笑った。宿題が終わったから、今度は番組が終わるまでお母さんの膝枕で絵本を広げてかわいい絵を眺めながらがら待つ。そうやって待ってると漂う、お母さんのお日様のような香りが私は大好きなんだ。
なんだか眠くなってきた。
「もう遅いからそろそろ寝なさい」
「……でも……絵本……」あくびがでた。
「明日はお休みよね? 明日ならたくさん読んであげるわ、だから今日はもう寝なさい、寝る子は育つのよ?」
その方がいいかな? 昔は寝ながらでもお母さんは読み聞かせしてくれた記憶があるけど、最近はずっと、してくれない。
でも、お母さんのいうことは聞かなきゃ。
おやすみなさいとお母さんに一言呟いてから、居間を後にして階段を上りお部屋に入る。ドアのすぐ近くにあるスイッチを押して白色蛍光の照明を点けた。
私のお部屋はシロとピンクのチェック柄の壁紙、シールがいっぱい貼っているタンスには洋服と下着、その横には等身大の鏡。といういかにも女の子っていう部屋が私の寝るお部屋だ。コーディネートはお父さんがやったみたい。
ベランダがある大きな窓のカーテンも壁紙に合わせてシロとピンクのボーダー柄だ。そのカーテンを少しめくりお外をのぞき込む。その目線の先にはお隣に住む時ちゃんのお部屋があるのだ。
不満があるとすいうなら、これだけが唯一の不満点だろう。
時ちゃんのお部屋は私のお部屋より少し下側に位置していて、窓にカーテンはない。時ちゃん曰く、いつでも私が時ちゃんのお部屋に直接遊びにこれるよう鍵は掛けていないのだそう。
だから時ちゃんのお部屋は丸見えになっていて、案の定下側のお部屋に明かりが点いていたので時ちゃんがいることが確認できた。銃弾の音も聞こえてくるし、宿題を終わらせたのだろう。
時ちゃんはいないのかな? 目が合ったら合ったでめんどくさいけどそうも言ってられない。あくびが何回も出てるし、もうねむいの限界だ。
すると、時ちゃんがひょっこり顔をのぞかせてこちらを見上げた。窓から出てきた時ちゃんは肩とかお腹を露出させた黒いかっこいいシャツを着ていて、この時期に合わないとても寒い恰好をしている。
私と時ちゃんの目が合うと、
「こーちゃん!」
時ちゃんは星空を眺める……いや掴もうという勢いでこっちに手を振っている。時ちゃんのお部屋から私のお部屋への移動は、登らないといけないから難しい。なのでたぶん、入ってはこれないだろう。また逆は簡単で、足元に気を付けて時ちゃんのお家のベランダに飛び乗るだけだ。
私は目をキラキラに輝かしている時ちゃんにちょこっと笑う。なんだか尻尾をふるイヌみたい。
「おやすみ!」
時ちゃんが近所迷惑な大声を出す。私はふりふりとカーテンを振って、早く寝ろバカと伝えた。きっと真意は伝わらないだろうけどまぁどうでもいい。あくびがでちゃった。
カーテンから離れた私は、机にノートを広げる。眠気を我慢してノートの行に日付をタイトルにして今日の時ちゃんの様子を、今日一日を振りかえって書く。
(今日の時ちゃんはまた意味わからないことをたくさん言っていた。朝の登校時、二時間目の国語、五時間目の体育、放課後の図書室、夕方の下校時……)
思い返しながら時ちゃんの行動を思い出していく。これは毎日書いていて日課ともいえる、趣味みたいなもの。時ちゃんに変な兆候があれば私は見逃してはいけない。
「そろそろ……おかしくなるのかな?」
最後の文を書くと溜息。ベットに寝転がって図書室で借りた絵本を枕の裏に潜り込ませる。絵本のなかの主人公になれたらな。
そんないい夢がみれますようにと願う。
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