水の城の少女
カツラギ
本編
水が、はるか遠くまで広がっている。
空の紺に星がきらびやかに散っている深い夜、月が光をおとす波は、おだやかに、かすかなさざめきを続けている。
その彼方までつづく水鏡に一城、そびえ立つ建物があった。
城壁に透きとおる、檸檬色の月の光はやさしい。やわらかな眩しさが、幾度もの折れ曲がりを経て城の輪郭を輝かせる。暗やみに映える、黄色を交えた光のシルエットはとても現実のものとは思えない。
幻想的だった。
城の壁は透明で、水晶のようにきらめき、静けさが占める夜にぼうっと水の上へ浮かんでいる。
その大きな城門から中にある、風を迎え入れる大きいフロアをすり抜け、上の階へ。
見渡す大きなホールには踊る靴音も聞こえない。
城中には、誰もいなかった。
まさしく幽鬼の城だ。
あるのは、城から飛び出るように突き出ている三本の塔。
そして、中央の塔の頂上にある人影だった。
ビードロの塔の中を、転落してしまいそうになる細いらせん階段をのぼる先、視界の開けた頂上に少女がいる。
この周囲を展望できる頂上の星見台は柵に囲まれていた。水晶柵のつるりとした表面は、受けた白い線条の光を反射させて、あますところなく存在を示している。
けして広いとはいえない、やや窮屈な場所に少女はいる。四方を柵で囲われていて、まるで鳥かごに飼われているようだった。
およそ枯れることないだろう水の平原、幻想じみた城壁のうちに、たったひとりで。
白くなめらかな、丁寧精巧に作りあげられた手足は細工物みたく、すっと細く伸びて青白い。
髪が、月やまばゆい星々の揺れる光をあびて、輝きをはためかせる。
そして、ひときわ光が強くまたたくとき、彼女が祈るように、目を閉じて天へ両手を持ちあげる。頭を越えて上へ手のひらを突きだし、空に身をあずけた。
小さなうでに夜空をだいて、少女はそっと手をあわせた。
彼女は言葉を知らない。
けれども、祈ることは知っている。
それが何に対する祈りなのかは、知らないまま。
どこをも捉えていない二つの瞳は、美しく天を閉じこめて、宝石にも負けない輝きを宿している。
彼女が祈っているさなか、どこともしれない遠くから、一陣の夜風がやってくる。
夜風は城下に広がるのっぺりした水面にいくつも波をたてて、小さく頂上にも吹きつけた。少女の服は夜のすずしげな風をはらみ、空にひろがって、布が肌をくすぐっていった。
ここは水の城。
底を見通せない透いた水の上に、少女が見上げるばかりの高さに住まっている。
彼女の瞳にはたくさんの光が含まれている。けれども、そこに力は見当たらなかった。
たとえ空に、星が尾を引いて流れようとも、見るでもなく。
日がのぼり、蒼穹を視界に入れようとも、見るでもなく。
何かを待ちつづけるように、彼女は天へ顔を上げつづけている。
しばらくして、水平線の向こうから、少しずつ暗闇が晴れ始める。
ひどく強い力で、世界を包む夜が持ち上げられていく。濃紺のヴェールが取り払われようとしていた。彼女は、天球がその方向だけ色が変えるのを見て、顔を向けた。
暗い景色に飽きたのだろう。
緩慢に、けれどたしかに、空の果てをうすくする、にじんできた赤色。長い長い時間をかけて、瞬くようにつよく光った。
目に刺さるような陽光に、彼女は眼を閉じる。
頂上の、シーツもベッドもない水晶の床の上に、直に横たわった。
そして眠気のおこす、まぶたの重さに素直になり、眠ってゆく。
朝がくると彼女は眠るのだ。
彼女は安らかな寝息を立てて、暖かい空気にふれ、身を丸くして夢をみる。
ゆっくりと太陽は東から南へ、真上からあらゆる場所へ光を放ち、まどろむ可愛らしい寝顔を照らしていた。
日が城の真上を、南から西へすぎてゆく。
そして、暮れはじめた。
夕刻、少女がたたずむ場所の柱に音もなく亀裂がはしる。小さな裂け目はすぐに広がり、静かに柱の一本が砕けた。
欠片が床の上に落ち、その鈴を鳴らしたような音で少女が目覚めた。
とろんとした目つきで、音のした方を向く少女。
そこには、断面さえも美しい、ぬるりと丸いオレンジ色の混ざった柱の破片があった。
かけらと言うにはいささか大きい、塊とでもいうべき体積の水晶は、人間の生き写しのように、人の形をしていた。
手も足もある。とても、偶然できたように思えなかった。
少女は、興味からか、その人型へ恐れもせずに触れてみる。
瞬間、頭に小さな電光がスパークした。驚いて人型の塊から手を離した彼女は、さらにびっくりする。
人型の塊が、動いたのだ。首をもたげて体を起こし、立ち上がった。
彼女は生まれてから自分以外の動物を見た覚えがなかった。鳥も魚も、生きているものを何も知らない。
少女にとって、この塊は動く己の他の何かであり、記憶にない不思議なもの、と判断した。
少女は頭を右手で押さえる。人型に指でさわった際に、頭の中に妙な違和感が生まれていた。得体のしれないものが、自分の頭の中にある。そんな感覚がしたらしい。
知らずのうち、口を動かしていた少女。
「う、うー。あ……う……」
人型の塊は少女のほうを向いたまま、動こうともしない。
やがて、少女は言葉を口にする。彼女の瞳には、小さな光がともった。
話すことができない少女は、それでも口を動かすのを止めない。
舌がまわるようになるまで、ずいぶんと時間をかけた。
何度もたしかめるように宙へと放った言葉を、彼女は人型の塊にむけて口にする。
「ウレク」
人型は、そう名付けられた。
それから彼女は空や、雲や、月や、夕闇をみる。つづいて人型に名前をつけたように、次々と言葉を作っていった。
「そら」
手を上にのばせば、それはみんな、空。
「みず」
眼下にひろがる、波紋がゆれる平面が、水。
「かけら」
自分のいるあたりに散らばった柱の小さなくずは、かけら。
「ウレク」
彼女は、水晶の塊を呼んだ。
驚くほど、少女の学習は早かった。塔。青。太陽。光。向こう。壁。階段。今まで名前のなかったものに呼び名をつけていく。その速度は、驚くべき早さだった。
名前のなかった世界は、彼女によって新しい世界へと作りかえられていく。目に見えるものを片っ端から名前をつけていた。
ある日、床に刻まれた切れ込みに彼女は気がついた。
それに彼女がつまずいてこけてしまったのだ。
倒れた少女にウレクが近づくと、床の切れ込みが自ずから勝手に開いた。上に乗っている少女の足が、ずずず、とゆっくり開放される扉から滑りおちた。新しい扉が、低い音を立てて、糊がはがれた切手みたいにめくれていく。
床に四角形がぽっかり空いた。先に広がっていたのは細い階段だった。下の方をのぞくと気が遠くなってしまうくらい、長い階段。彼女はめまいがした。
階段の底、たどり着くべき先の方は、城の壁からの屈折光に照らされていてもよく見えない。ガラスのらせんは、輝くことを止めはしない。
……彼女の体が震える。近づいてはいけない、という気がしたのだ。これは、自分が一人ではいけないものだ、と。
新しい、言葉にならない感情を少女は知った。「こわさ」という感情を、全身で感じたのだ。
身震いする。体を抱きしめて、ふるえを抑えようとする。
けれども、彼女はまったく別の感情も胸に感じていた。おそれる階段の先に、なにがあるんだろう。こわさを消すことができないのと同じだった。好奇心も止められそうにない。
この高さの階段を見ただけで、怖さという新しい感情を胸に抱いたのだ。
これまで誰もいないここで、ずっと星と太陽を眺め続けるしかなかった彼女には、扉の先に開かれた通路に行くことは必然だった。
下へ行くと、きっと見たことないものが待ち受けている。もう、彼女の目はウレクと出会う前とはまるで違っていた。ともっている小さかった光はすっかり大きくなっていた。
その光が、進むといっている。
「ウレク、ゆか」
床を示し、人型に声をかける。
立ちつくして光を浴びていたウレクは少女の後ろにやってきた。
少女は、くちびるをきゅっと強く結ぶ。
足をゆっくりと、そこにあるものを確かめるような触れかたで、そっと一段目に足をかけた。
太陽も彼女の門出を祝うように、空高くから輝いていた。
階段は一段一段が分厚かった。
けれども、とにかく横幅がない。一人が立つのでやっとだ。何度もウレクが後ろにいるのを確認しながら、ひたすら時間をかけて彼女は階段を下っていく。
曲がっていく階段は高さの感覚を麻痺させる。横に手すりもないこの階段では、彼女が安全に進むには時間をかけるしかない。
彼女は根気づよく足を進める。ウレクは形どられた表情をいっさい変えないまま少女の後ろを見守るようにして付いていた。
空は白けた青で染まり、太陽の光は階段を乱反射して散乱している。赤と黄色の波が重なるように橙色の帯を作りだし、目線を少しずらした先では緑と紫が絡みあう。
虹が折れ曲がり、重なり、時として反射して生まれた偶然のたまもの。それがこの螺旋階段には満ちていた。
時とすれば、触れる事ができるのだと錯覚してしまうほど。
少女が虹へ手を伸ばす。なにも支えのない中空へ。それは壊滅的な行為だった。
バランスを崩して、少女が空洞へ落ちる——、
すんでのところで、ウレクが彼女の体を引っ張った。思わず尻もちをつく少女。目には涙が浮かんでいる。ウレクに言いたいことがあるようだった。
けれどもウレクには表情がない。少女がどんなにうらめしい目をしても、たとえ文句を口にしようとも、感情が読み取れることはなかった。そもそも、この人型に心なんてあるのかさえわからない。
少女はあきらめたようにウレクから目をそむける。そして、また下りはじめる。
風も吹かず、天からの光だけが注がれるビードロの塔を、妙な二人連れは足をむける。
やがて、下にたどり着いた。
反射光がなければ床があるかどうかもわからない塔の、底にある扉の前で、少女はウレクを待つ。
一段ずつを角ばった動きで降りてくるウレクを、急かすように少女が手を振った。
ウレクがようやく追いつくと、少女は扉を開く。
透明な扉の先は目に見えていたが、あまりの広さに口を開けたままの少女。
部屋の端があんなに遠くにある空間にいるのは初めてのことだった。
手を伸ばしても、見えている天井に届きそうもない。うんと伸びをしても、床に寝転がっても、まだまだ余るスペースに、思わず呆ける少女。
彼女の表情が、驚きから喜びにころっと変わる。
そして駆けだす。体験したことのない広さを、全身で感じようとする。腕も、手のひらから指まで精いっぱい伸ばしてもずぅっと先にある壁。そこまで一息に駆けてゆく。足は止めない。息が切れる。それさえも新しい発見で、自然と少女は笑った。ここにも、知らなかったものがある。もっともっと知りたい。
ウレクは、少女のあとを黙ってついていく。監視する、というよりは心配する親のような動き方だった。ビードロの塊に、感情なんて見出せるはずもないが、それでも、そう見えてしまうのだ。
ひとしきり動きまわって、汗をかいて、熱い息を吐き出す。少女は満足感に包まれていた。
きっとこの先にも、もっともっと色んなものがある。胸の中を満たしてくれる、そんな素敵なものが自分を待ち焦がれているのだという、確信があった。
少女は疲れた体で立ち上がる。次の場所へ行かなくちゃ、いけない。
壁の真ん中に堂々と位置する大広間の扉は大きく、堅牢に閉ざされていて、とても少女ひとりでは開けられそうになかった。押してみても、引いてみても、どうにもならない。
ウレク、と少女は叫んだ。
ウレクが扉にぴったり体をくっつける。少女も、人型より一回り小さい体で、ウレクの下につく。
二人で、扉を押す。
軋むような音が鳴った。それは、錠のかけられた扉がこじ開けられようとする時の音によく似ていた。
力が入り、顔を真っ赤にする少女。ウレクの関節部分からもガラスを引っ掻いたようなギギギ、と耳に障る音が響く。
一度息をついて、それでも開けようとあきらめない二人。
一瞬、体が軽くなった感じがした。前のめりになった姿勢を取りなおして、少女は押し続ける。
やがて根負けしたように扉が開く。途中からは扉を押さなくても勝手に隙間が大きくなった。
少女は、ウレクを見る。ウレクの表情は相も変わらず固い。けれども、なんとなくウレクも微笑んでいるように少女は感じた。
新しい場所へ踏み出してみると、そこは見る限り遠くの水面まで見えるバルコニーだった。塔の頂上に居た時と違って、転落を防ぐための柵もなく、風が吹きつければ体もふらふらと揺れる。そんなことでさえ、少女には楽しい。
両手を開いて、腕を広げて、めいっぱい光と風を吸いこんで、見えるものみんなに笑いかける。全身があたたかくて、あふれそうになっている。この世界に愛される、とはこういうことなんだろうか。何もかもが愛おしくて、彼女は回った。くるんくるん、何度も。踊りのようだけれどもステップは無茶苦茶。しかし、実にうれしそうに踊る。声をあげてはしゃぎながら、彼女が踊る。
ウレクの手も取った。そのまま振りまわす。ウレクの体も軸をぶれさせ、踊りに巻き込まれていく。
どうすればいいのかわからない感情を、彼女は表現しているのだった。それが、この踊り。動きたくて、楽しくて、たまらない。そんな動きだった。
彼女は空に笑った。天に笑った。ずっと待っていたのはこれだった。あの小さな籠みたいな頂上だと絶対に知ることはできなかった、風の甘さや伸びをした時の心地よさ。
ウレク、ウレク、と何度も呼ぶ。ウレクの手を取って、人形遊びでもしているみたいだった。人形、というには大きすぎるけれど。
はしゃいでいた。そして、気をとられていた。
彼女の後ろに迫る、新しい場所へといざなう階段。
そこに、彼女の上半身が躍り出た。
突如、ウレクの腕が強い力で少女を引っ張る。
少女は巻き取られる釣り糸につけられた重りみたいに、ウレクの方に引き寄せられる。
そして、再びの尻もちをつきながら、見ていた。
何が起きているのかわからなかったが、彼女の目は、その場を見ていた。
ウレクが、空に飛びだすのを。
すっと視界の下に消えてから、鈴が鳴るような音がいくつか耳に聞こえた。
ガラスが割れたときの甲高い音にもよく似ていた。少女は茫然としている。
目を見開いたまま、階段の先をのぞきこむ。
そこに、ウレクがいた。
少女が階段を下る。現状を確かめるように、一歩一歩が、とても遅い。
途中、少女の足の裏に痛みが走る。かかとを持ち上げて見やると、血がにじんでいた。細かいガラスがにぶく刺さっていた。
少女は青い顔をして、ウレクのそばに寄った。
ウレクは、何も答えず、ひび割れた無表情のまま横たわっている。
見えたのは顔だけだった。体は、ずいぶん離れた場所にあった。ガラスは、衝撃で砕け散ってしまったのだ。
今まで見ていた視界から色が褪せていくのを少女は感じた。バラバラになったウレクの顔だけを抱いて、来た道へ逃げるように走っていく。
誰もいない道は、日も暮れ始め、風も冷たかった。足の裏が痛んだが、少女は走った。その足跡は、ところどころ赤く痕跡を残して。
階段の中腹までやってくると、少女がいきなりうずくまる。ウレクの頭を抱いて走り続け、続かなくなった息を整えているらしい。
両手でウレクの表情を見つめる。
水晶の無表情は、大きなひびが額からあごにかけて走っていた。抱く姿勢を直すと、そのたび少しずつ細いかけらがパラパラと落ちゆく。
自分が、壊した。
取り返しがつかないことを、してしまったのだ。
意識していない。なのに顔の筋肉がこわばり、眉の間に熱さがじんわりと沁みてくる。
いっぱいになった自分を押さえられなくなった。わけのわからない熱さが、胸から勝手にあふれ出てきた。止めようと思っても止まらない。どうしたら止まるのかなんて、考えられもしない。
視界に映る光の帯がぼやけてにじむ。
少女の震える手が、ウレクの頭からずれる。
その感触に気付いた時には既に、ウレクの頭は階段の段差にぶつかり、転がり落ちて、二三度ぶつかると、何度か甲高い音を立てて、底に消えた。
足の裏の痛みも、重さに疲れた両腕も、すっかり忘れて、少女は、歯をカチカチと鳴らした。小さな指先の痙攣は、やがて全身への震えとなって、彼女の体を覆ってしまう。
弾かれたように足を踏み出す少女。転落の危うさを考えては、まずできないだろう速さと必死さで、塔の頂上へ逃げる。
彼女は自分が怖かった。自分のなかにある気持ちが、あまりに大きくて、何もかもを飲み込んでしまうほど強かった。その気持ちから一刻も早く逃げたかった。
目が熱い。息ができない。それ以上に、胸がいっぱいだ!
口の端から風を切る音が聞こえる。ひっ、ひっ、と断続的につづいて、おさまりそうにもなかった。
取り落としてしまったウレクの顔が脳裏から離れない。
床を押し上げてたどり着いた頂上は、誰もいなかった。
少女のほかには、誰も。……もちろん、ウレクが、いるはずがなかった。
遠くの空では太陽がかたむき、暖かな光と冷たい風をまぜっかえしたものを浴びせかけてくる。少女は、うずくまってそれに耐えるようにして震えた。
しばらくして夜が来ようとしていた。青と橙がせめぎあうところの紫色に、一番星がそっと現れた。
少女はずっと、ずっと黙って縮こまった。目の熱さ。胸の息苦しさ。体の跳ね。そういったものを、どうすればいいのか。できるのは、自分がこれ以上小さくなれないよう、ひざを抱くことだけ。背中をなでる風の感触をだまって受け入れた。苦しさが、苦さのようにじんわりと侵食するのを飲み込むしかなかった。
体の震えも収まっていく。かたつむりのようにじっとしていた少女は、うでから体を解放した。
天を仰ぐと、知らず、両手を組んでいた。彼女は、祈ることを知っていた。
月の光、星の瞬き。ウレクの破片のきらめきによく似ている。
少女は、祈った。
祈ることの意味を、ようやく知った。いや、思い出したのだ。
額を白く照らされる少女がうずくまっていた場所に、小さな水滴がいくつもあった。そこには、小さな光がすべてとじこめられていた。
遠く離れた場所にある、彼女と同じ水の城。風が揺らす、透明な平面に浮かぶ水の城は、地中まで深く深く根付いていた。
この城にはだれの姿も見当たらない。少女がいたのと同じ、塔の頂上にさえ、なにも見つけることはできない。
かつて水の城は、少女と同じ者がいた。
いまは水の底に、少女と同じだった物がある。
水に触れぬよう守られた、城の柵を越えてゆき、底に沈んでいったのだ。
今はもう、主もなき、ただの古城。
幽鬼の城は、少女のために作られた。
人型も、生まれも死するも少女のために。
生きる彼女は、繰り返す。
彼女たちは、ずっと繰り返していく。
なんどもなんどもレコードみたく、記憶を作っては忘れ、言葉を生みだしては消してゆく。
壊れたウレクの片割れが、細かい微粒子になって、やがて城の一部となる。
柱の欠けた水の城は、長い時間をかけて元に戻った。
いつか、夜が明け、日が昇り。
幾度も繰り返しているうちに、彼女は言葉を忘れていった。
誰にも話さない言葉は、忘れ去られるしかないのだ。
ウレクのことも、あんなにはっきりしていた記憶の輪郭さえあいまいになっていく。
覚えたことの何もかもが、頭の片隅からこぼれおちてゆく。空も、水も、風も。なにもかもが形の境目をなくして、一つになっていく。
遠く遠く、気が遠くなる月日が流れ、あいまいに世界が一つになった、ある日。
城の下にはるか広がる水面には、波紋が重なり広がっていた。
光の輪郭が浮かびあがる城の頂上で、少女は一人祈っている。
いつか、耳にしたような音が少女の鼓膜を震わした。
霜の降った朝に、踏み固められた雪が割れるような、高い音がする。
柱の一本に小さく亀裂が走っていた。
けれども、少女はそれに振り向かない。
彼女はまっすぐに、空へ祈る。
少女は言葉を知らない。
なぜ、祈るのかも知らない。
ただ、祈ることだけ、知っている。
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